2009年4月2日木曜日
社会的枠組み(政治的組織)
社会的枠組み(政治的組織) (339)ルネサンス期イタリアの政治的組織の際立った特徴は都市国家の重要性にあり、中でも共和政の重要性にある。13世紀はじめころには「都市国家と呼べる政治的なまとまりが200から300ほど存在していた」。15世紀までにはその殆どは独立性を失ったが、フィレンツ(340)ェやベネチアなどのぬきんでたルネサンス都市はそれを守った。この二つの都市の構成ははっきりと対照的である。 20世紀前半の社会学と社会人類学を支配していた機能分析に明らかに適合する国家があるとすればそれはヴェネチアである。ベネチアの政治制度は、その安定性と均衡をたたえられていたが、それは三つの主要な統治形態の諸要素を混ぜ合わせること(君主制に当たる統領制、貴族性に当たる元老院、民主制に当たる大評議会)から得られていた。実際問題として君主制の要素は弱体であった。貨幣にその肖像が使われたように、統領にたいして表面的な敬意は払われたが、統領は殆ど現実の権力を持たなかった。ウォルター・バジョットによる19世紀のイギリスの政治構造の描写としてよく知られている、政治システムの「威信を受け持つ」部分と「現実に権力を駆使する」部分との区別をベネチア人たちは既に発展させていたのである。それとは対照的に、大評議会は政策決定に参加はしていたが、貴族たちからなるこの議会は厳密には民主的なものではなかった。政治的な争いも存在したが、市民の一致というフィクションの背後に隠蔽されていた。 混合政体という考え方と同様に、ベネチアの安定もしくは「調和」も、中立的な説明用語ではなかった。それはイデオロギーの一部であり、今日の歴史家たちが「ベネチアの神話」と呼ぶものの一部であった。言い換えればそれは枢機卿ガスパーロ・コンターニが『ベネチアの国家と政府』(1543)で宣伝しているようなベネチアの支配階級が持っていた理想化されたベネチア観なのである。とはいえ、相対的にはベネチアの安定性という考え方には根拠が(341)ない訳ではない。政治システムはこの時代を通じて大きな変化を受けなかった。ベネチアが少数者によって支配されていたとしてもその数は並外れて多かったのである。全ての成人の貴族は大評議会の構成員であり、16世紀初頭にはその数は2500人を上回っていた。そこから大評議会の巨大な大広間とその壁を満たすべき大規模な絵の必要性が生まれたのである。 対照的にフィレンツェの政治システムは不安定なものであった。流浪の運命によってそれを書く時間を与えられた『神曲』の中でダンテは、ベッドの上でどんなに体をねじり反転させても楽にならない病気の女性にフィレンツェをたとえている。16世紀のベネチアのある観察者が述べているように、「彼らは自分たちの政治制度に決して満足することはないし、おとなしく受け入れもしない。この都市はいつも制度の変革を求めているように思える。その為にここでは一つの政体が15年以上続いた事がない」。これはフィレンツェ人たちの犯した罪に対して神が下した罰である、と彼は述べている。フィレンツェでは14歳で政治的諸権利の享受を認められたのに対して、ベネチアでは25歳にならないと政治的には成人と認められず、更に政治的意見が真剣に取り上げられるには老人でなければならなかった、という事実もこれに関係しているように思われる。ベネチアで統領に選ばれたものの平均年齢は72歳であった。 どのような理由に基づくものであれ、変革こそがフィレンツェでの規範であった。1434年に(342)コジモ・デ・メディチは追放から帰還し、国家を掌握した。1458年に二百人評議会が設立された。1480年にそれは70人評議会に取って代わられる。1494年メディチ家は追放され、ベネチアをモデルにして大評議会が設立された。1502年には統領の一種である「終身国家主席」制度が作られる。1512年、外国軍隊の後押しでメディチ家が戻ってきた。1527年メディチ家はまた追放され、1530年に帰還する。フィレンツェ人たちの政治文化と芸術的文化との間には、特定するのは困難だが、何らかのつながりがあり、その両方の領域において革新を求める傾向があったと考えてもそれほど空想的とはいえないだろう。それとは対照的に不安定さがより少ないベネチア人たちがルネサンスを受け入れたのはフィレンツェよりも遅かったのである。 構造的変化を求める傾向を別にしても、役職の交代がはるかに早い点でフィレンツェはベネチアと異なっていた。執政官もしくはシニョリーアの在任期間は一回につき僅か二ヶ月に過ぎなかった。フィレンツェで政治に関与した物の数は少数ではあったが、ベネチアに比べればはるかに多かった。6000人を超える市民(貴族、職人、商人)が主な行政職への被選挙権を持っていたのである。 イタリアにおける残る三つの強国は実質的には君主政を取っていた。二国は世襲の君主政(ミラノとナポリ)で、一国は選挙による君主政(教会国家)である。これらの国ではフェラーラ、マントヴァ、ウルビーノといったより小さな国家と同様に、基本的な政治制度は宮廷であった。マンテーニャ(343)の『新婚夫妻の部屋』からアリオストの『狂乱のオルランド』にいたるまでのルネサンスの美術と文学の傑作の多くがこの宮廷で作り出された事を考えれば、そこがどのような場であったかを理解することは重要である。…… 宮廷の構成員は数百名を数えた。例えば、1527年の教皇宮廷は約700人であった。この視点からすれば共和国の筆頭市民であるロレンツォ・デ・メディチを取り巻く少人数のサークルには決して「宮廷」という資格はなかった。宮廷を構成する人々は非常に雑多であった。侍従武官長・式武官・家令・主馬頭といった役職を保有する大貴族から、寝室つきの従僕・書記官・小姓などのより身分の低い廷臣、そしてラッパ手・鷹匠・料理人・理髪師・馬丁といった奉公人までそこには含まれる。この階層性の中の位置を決定するのは困難だが(現実に職業的な部外者でもあるが)、君主を楽しませる為にいつも随行した道化も居た。詩人や音楽家の宮廷での地位も彼らとそれほど異なるものではなかった 宮廷の決定的な特徴とは、それが二つの機能を併せ持っており、しかもその両機能が私的な部分と公的な部分に次第に分化していく傾向にあったことである。私的な部分とは君主の家族であり、公的な部分とは国家の運営である。君主は彼の廷臣たちと食事を共にするのが一般的であった。君主が移動すれば、それには小さな町の人口に匹敵するだけの人間集団を移動させ、糧食を与え、宿泊させるという問題が付きまとうのだが、宮廷構成員の殆どが行をともにした。ロドヴィーコ・スフ(344)ォルツァ公がミラノを離れて、お気に入りの田園の別邸があるヴィジェヴァーノやもしくはそれ以外の城や、狩猟用の別荘に行こうと決めたとすると、宮廷とそれに付随する品々を運ぶ為に500頭もの馬やロバが必要となった。ナポリ王であったアルフォンソ・ダラゴーナも、カタルーニャ、シチリア、サルデーニャといった帝国のさまざまな地域を訪ねるために、殆どいつも移動をしているという点では同じであった。役人たちも王の例に従うことを強制されたが、それは文字通り彼の後を追うことを意味した。例えば1451年アルフォンソは、偶々狩のために滞在していたカプアに顧問官たちを召集し、バルセロナ市との争いの結論を出させた。 一つの制度としての宮廷の持つ文化的重要性は、宮廷が時間に余裕のある多くの貴人と貴婦人を集めていたことから来ている。それはエリアスが「文明化の過程」と呼ぶものにとって決定的な意味を持った。上品な作法と同様に、美術や文学に対する関心は貴族と一般の民衆との差異を明らかにする助けとなった。17世紀のパリのサロンに置けるように、貴婦人たちの存在が会話や音楽や詩作を刺激する事につながった。勿論、ルネサンスの宮廷を偶像化することには注意を払わねばならない。カスティリオーネが書いた有名な『宮廷人』を文面通りに受け取ってはならない。プラトンによる理想の共和国に関する論文に対して、宮廷について同じような意味を持つ著作として構想されたのが『宮廷人』である。そしてその主眼が第1草稿では危機に晒されていたウルビーノ公国の用語から、カスティリオーネが聖職者という第2のキャリアを追求し始めた時期に出た最終版で(345)は反教権主義的意見を削除するというテクストの修正の経過が示すように、この著作は宣伝活動の一つの実践例ともみなされるべきなのである。廷臣たちはしばしば退屈で時間をもてあましていたことであろう。『宮廷人』のページの中にすら、退屈を紛らす為に彼らが室内ゲームやいたずらに励んだ事が伺われる。対話編(『宮廷人』)の話し手の一人は、貴族たちが互いに食べ物を投げあう場所、あるいは最もおぞましいものを食べられるかどうかで貴族たちが賭けをする場所として宮廷を描いている。「文明」とはその程度のものであった。 カスティリオーネが描いた全体として理想化された画像を矯正する良いレンズは、人文主義者エネア・シルヴィオ・ピッコローミニが1444年(彼がピウス2世として教皇位につく14年前)に書いた小冊子である。『宮廷人の悲惨』というタイトルのこの本は、いくらかは戯画である事は間違いないし、言葉も道徳も型どおりのものによっていることも明らかだが、それでも幾つかの辛らつな個人の観察が含まれている。エネアの書く所によると、宮廷で楽しみを求めても失望するだけなのである。宮廷で音楽が演奏されることは事実だが、それは君主が望むときに奏されるのであって、あなたが望むときではない。そして、恐らくあなたが眠りたいと思うときに限って音楽が鳴り響くものなのである。いずれにしても安らかに眠る事は不可能である。なぜなら寝具は不潔だし、同じベッドで眠る人間が何人も居るし(それは15世紀には当たり前のことであった)、隣に寝る人が一晩中咳き込み続けたり、寝具をとってしまったり、という事もあるし、或いはかわやで寝る羽目になることすらあるからである。召使たちは食事を時間通りに持ってくる事は決して無いし、食べ終える前に(346)皿をかっ攫ってしまうのである。宮廷が何時移動するかを知る事は決して出来ない。あなたが出発の準備を終えると、いつも決まって君主がその気を変えている。孤独と静寂を宮廷で手に入れるのは不可能である。君主が立っていても座っていても、廷臣は常に立って居なければならないのである。… 宮廷は全ヨーロッパに存在したし、常に厳密な政治理論に合致するわけではないにしても、ネーデルラント、スイス、ドイツにも都市国家が存在した。この時代にイタリア的な政治組織の形態が他の地域とは違ったものであったのかどうか、若しそうだとすれば、その違いがルネサンスと呼ばれる文化運動を促進したのかどうか、という二つの問いは十分意味がある歴史家シャボー(1964)が問いかけているように「ルネサンス国家は存在したのか」。シャボーの答えは条件付の「イエス」である。それはブルクハルトが重視した政治的意識よりも、官僚制の発展を論拠としている。「官僚制」は多くの意味を含む言葉である。ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの厳密な定義に従って二つの政治システム、即ち家産制政治システムと官僚制政治システムを六つの基準に照らして区別することで問題はより明確になるであろう。 家産制の政府とは本質的に個人に帰属するものであり、官僚制の政府は非個人的なものである(公的領域は私的領域と切り離されており、服従する相手は役職の保有者であって個人ではない)。家産(347)制政府は素人たちによって運営されているのに対して、官僚制政府は専門家たちが運営するものである。その職務に応じた訓練を受けた専門家たちは、君主の寵愛よりも自らの能力によって任命され、定額の報酬を与えられ、独自のエートスを保持する。家産制政府はインフォーマルなものであるのに対して、官僚はあらゆる事を記録として書き留める。家産制政府は専門分化していないが、官僚制システムにおいて官吏たちは仕事を入念に区分すると同時に相互の政治的領域の境界を明確にする事に注意を払う。家産制政府が伝統に訴えるのに対して、官僚制政府は理性と法に訴える。 少なくともルネサンス期イタリアの国家のうちの幾つかが他に先駆けて官僚制国家であった、といえるようなケースが確かに存在する。それはイタリアにおいて都市化が進み、その結果既に述べたように識字率と計算能力が高かったこと、複数の共和国が存在したこと(そこでは国民の忠誠心の対象は支配者ではなく非個人的な国家であった)、巨大な国際組織であるカトリック教会の首都がイタリアに存在したこと、などから来ている。同時代人の中には公的なものと私的なものの境界線をかなり明確に引くものも居た。例えばアルベルティによる家族に関する対話編の話し手の一人は、公的な物事を私的なことであるかのように扱うことを拒否している。官吏たちが自らに有利になるように公私を混同する事を防ぐ制度的な手段も存在した。それが監査制sindacatoである。フィレンツェ、ミラノそしてナポリでも、ある役職者の任期が満了すると、彼の活動に対する特別な査察官もしくは「地方監査官」による調査が終わるまで任地にとどま(348)ることを強制された。教会の長と教会国家の支配者という教皇の二重の役割もまた、個人とその職務を区別する意識を育てた。 更に常勤の管理の数は比較的多く(特にローマで)、法学博士号取得までの教育は彼らにとって何がしかの専門的訓練となっていた。終身の役職を保持するものたちもおり、彼らは集団的なエートスを発展させていった。貨幣による定額の報酬は珍しいものではなく、相当に高い報酬を受けるものも居た。ベネチアでは16世紀初頭に大法院の書記官が年間125ドゥカートの報酬を得ており、それはメディチ銀行支店の支配人の年棒とほぼ等しかった。官職売買や情実、地縁などよりも能力によって官職への任命を確保するための努力が続けられた。ローマでも書記官の役割はこの時代に重要性を増した。 比較的大きなイタリア諸国家では官吏たちの職務をかなり厳密に区分していた。例えばロドヴィーコ・スフォルツァ統治下のミラノでは、教会に関する問題を担当する書記官が一名、司法担当書記官と外交事務担当書記官が一名ずつおり、外交担当書記官にはそれぞれ異なる国の問題を専門的に受け持つ部下たちが配属されていた。フィレンツェとベネチアでは、貿易・海事・防衛といった特定の問題を担当する委員会が設置されていた。ローマでは16世紀後半に教皇シクストゥス5世が「聖省congregazione」を作った。これは儀典問題から海軍までのさまざまな職務に専門分化した枢機卿からなる常任理事会であった。最初に外交の専門分化が進んだのはルネサンス期のイタリアでのことであった。行政における文字記録の重要性は増大しつつあった。そうし(349)た情報の集大成の最も印象的な例は国勢調査であり、中でも1427年のフィレンツェの資産台帳では、フィレンツェの支配下にある全ての個人の情報が扱われている。勿論フィレンツェのような小さな国家で国勢調査を行なう事はフランスのような大きなうにでそれを行なうよりも容易であった事は間違いない。情報の整理と訂正について言えば、コジモや教皇シクストゥス5世、グレゴリウス13世といった16世紀の支配者たちは文書館の設置に特別な関心を払った。また予算を立てること、言い換えれば収入と支出を予め計算する事に対する意識が、特にローマで高まった。 イタリアでは芸術の領域と同様に政治の領域でも自己意識と革新が存在したという印象が強い。官僚制的な支配形態が発展したという限りにおいては、「ルネサンス国家」について語る事は有益である。それでも変化の範囲と速度を過大視してはならない。イタリアには多くの宮廷が存在したが、それらの宮廷では、公的行政は支配者の私的な家計と区分されていなかった。忠誠は人間に対して向けられていたのであって、制度に対するものではなかった。そして、支配者が進化に寵愛を与えようとするときにはいつでもシステムを無視するのが通例であった。役職への任命や昇進を獲得する為にまず必要なものは君主の寵愛であった。宮廷人の悲惨さを嘆いた論文の中でピウス2世が述べているように、「君主たちの宮廷において問題とされるのは、臣下がどのような働きをするかではなく、どのような個人的魅力を持っているかである」。 (350)ローマの宮廷では公職は売却されるのが普通であり、それは特にレオ10世の在位中には目立った。そして聖職禄つき聖職志望者の資格審査に当たる教皇庁の部局はこの責務を扱うことで組織的に膨張して行った。公職の売買はミラノ公国でもナポリ王国でも行なわれた。公職を買ったものは自らがその職務を果たすことは無く、それを「小作に出す」、別の言い方をすれば狂句の代理司祭」のような代理人を雇って、収益の一部を与える代わりに職務を勤めさせられる報酬は不合理なほど定額である事が多かった。15世紀半ばのミラノでミラノ公顧問官会議の書記官の報酬は非熟練労働者の報酬を僅かに上回る程度でしかなかった。行政官たちは贈り物や謝礼のほかに、没収品の一部を得る権利といった職務に付随する臨時収入に頼ることとなった。 共和政国家の行政にしても、マックス・ヴェーバーのいう非人格的で効率の高い官僚制とは多くの点でかけ離れていた。現実に役人たちの団体的意識といった幾つかの面では、フィレンツェはミラノよりも官僚的傾向が弱かった。公的なシステムは全体の平等と個人の功績を重視したかも知れないが、現代のイタリア人たちが「地下政府」と呼んでいるもの、つまり行政の目に見えない部分を考慮に入れる必要もある。例えばベネチアでは公職の幾つかは売買され、婚資として与えられた。この時代のどのイタリアの国でも家族のつながりの重要性と、婉曲に「友情」amiciziaとして知られたもの、つまり権力を持つパトロンとそれに依存する人々或いは「庇護民」clienteとの間のつながりの重要性を小さく見る事は困難である。コジモが権力の座についた(351)1434年の直後の数年間にメディチ家の人々にあてられた多くの書簡が現存しているが、それらは権力者の側と庇護を受ける側の双方にとって「友情」が持っていた重要性について明確な印象を与えている。フィレンツェの市政府が「市庁舎でよりも晩餐や個人の書斎に置いて統治されている」という同時代人のジョヴァンニ・カバルカンティの嘆きを、これらの書簡は裏打ちしている。 この時代の政治的闘争の多くは敵対する「党派」つまりパトロンと庇護民たちのグループの間で行なわれた。オッディ家とバリオーニ家が争ったペルージアや、パンチャーティキ家とカンチェッリエーリ家が対立したピストイアは党派構想で悪名高い都市であった。マキャヴェリが『君主論』第20章で触れたように「党派によってピストイアを治める」事が必要だったのである。「教皇党」と「皇帝党」という古臭い党派用語に、地域的な敵対関係は16世紀まである程度の実体を与え続けた。政治的、社会的活動におけるパトロネージの重要性は、「聖人なしで天国に行く事はできない」というイタリアの格言に説得力を与えている。つまり、この格言は来世もこの世のイメージの中で描き出しているのである。美術家や著述家たちへのパトロネージもこうした広いシステムの一部を構成しているのである。 ここで政治と文化のつながりの問題について……、ノルベルト・エリアスの主張によれば、ルネサンス期のイタリアは「国家形成」と「文明化」のつながりを明らかにした。(352)より厳密に言えば、政治活動と芸術活動の双方の組織化が、更に複雑で洗練された形態を取る典でイタリアはヨーロッパの何処よりも先進的であった。当時のイタリアに存在したさまざまな国家体制の対立を考えれば、問題はより明確なものとなる。共和制と君主政のいずれが芸術にとってよりよい政府の形態であろうか。同時代人たちはこの問題について論議したが、その意見は一致していない。古代ローマの文化が共和制とともに花開き死滅した、とブルーには論じた。「学問研究は他の何処よりも自由市であった時代のアテネで繁栄し、ローマでもコンスルたちが共和国を支配していた時代に繁栄を見た」とピウス2世は述べている。逆に、15世紀の人文主義者ジョヴァンニ・コンヴェルシーノ・ダ・ラヴェンナは「大衆が支配する国では、利益をもたらさないような業績に対しては敬意が払われない。……詩人というものを知らない為に、誰もが詩人を軽んじるし、学者や教師を雇うよりも犬を飼いたがる」と嘆いている。 フィレンツェとベネチアの二つの強大な共和国こそが最も多くの美術家と著作家を産んだ都市であるという事実が、ブルーニのテーゼを支えるはっきりした論拠となっている。とはいいながらも、その相互関係を明らかにするには十分ではなく、それを説明しなくてはいけない。達成動因の強さを計測する事は不可能であるにしても、それが共和国に於てより強いものであったと考えるのが理屈にあっている。なぜなら、共和制は競争原理に基づいて組織されており、したがって親たちは子供たちが他者をしのぐように育てたと思われる。主要な公職が実質的に貴族たちによって独占されていたベネチアよりも、システムがより開放的であったフィレンツェのほうが、こうした欲求は強かったと考えられるかも知れない。したがって、美術家もしくは著述家にとっては共和国に生を受ける方が良かったといえる。自分の才能を伸ばすより良い機会を得られるからである。 だが、そうした才能が日の目を見ると、今度はパトロネージが必要となる。そうなると、どちらの政治システムのほうが美術家と著述家に大きな恩恵を与えるかは簡単に言えなくなる。共和国には市のパトロネージがあり、15世紀前半のフィレンツェではそうした活動が最も盛んに行なわれた。それは職人たちも政府にまだ参加していた時代であり、ブルネレスキは最も高い公職の一つである執政官に選ばれている。市のパトロネージはカンパニリズモからも支えられる。カンパニリズモとは、隣接する都市に対する競争心が火をつけた地域的な愛郷精神であり、この時代の壮麗な市庁舎建築に表現される(シエナ人たちは市庁舎の塔をフィレンツェのそれよりも高くなるように意図して建造した)。15世紀後半になると都市のパトロネージはより小さなものになった。ベネチアではベンボやティツィアーノらが占めていた公的或いは半ば公的な地位にも関わらず、フィレンツェよりも都市のパトロネージは小さなものであった。共和国で生まれて訓練を受けた美術形が宮廷に召抱えられるのは珍しいことではない。レオナルドはミラノへ、ミケランジェロはローマへ、というようにである。進取の気性に富んだ君主が金を喜んで使う気になっている場合、既に熟練の段階にある芸術家たちを買い占めることで、自らの宮廷を短期間のうちに芸術の中心にする事が出来た。彼が出来ないのは芸術家を作り出すことであった。若者たちが芸術家としてのキャリアを追求する事を選ぶか否かは、……社会構造にかかっていたのである。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)