2009年4月7日火曜日

De Kosmos

Kosmos「宇宙の美」に関するノート 大谷啓治(17) R.クリバンスキーは、中世からルネサンスへとつながるプラトン的伝統の継続の好例として、『ティマイオス』のいて述べられる宇宙の美の思想を挙げている。すなわち、往々にして超自然への思いに囚われ、自然を軽視しがちであった中世の人たちに、宇宙に理性によって捉えうる美のあることを教えたのは、他ならない『ティマイオス』であり、この宇宙の美の思想がまたルネサンスの思想家に大きな刺激となって、その宇宙論上の見解に深い影響を与えたというのである。 M-d.シュニュは、12世紀文化の特徴の一つに「自然の発見」をあげ、そのあらわれとして、多くの思想化が調和を持った全体としての宇宙の意味でuniversitasという言葉を用いていたことを指摘している。12世紀における自然の発見には、さまざまな要因を挙げる事が可能であろうが、学問、思想の面での自然発見にとって、『ティマイオス』が重大な役割を果たしたことは言うまでも無い。 これもまたクリバンスキーによれば、12世紀後半にヘンリクス・アリスティプスによって『メノン』と『パイドン』がラテン語訳されるまで、『ティマイオス』が殆ど唯一ラテン語訳で読むことの出来るプラトンの著作であった。古くはキケロが『ティマイオス』を翻訳し、アウグスティヌスなども、たとえば『神国論』の中で、それを引用したりしているが、中世の人々によく読まれたのは、カルキディウスによるラテン語訳であった。ギリシア語の原点に触れることが無かっただけに、中世初期の人々の『ティマイオス』理解にとって、カルキディウス訳のもつ重要性は決定的なものであった。特に、カルキディウスが、『ティマイオス』の約半分にあたる前半の53Cまでしか翻訳しなかったこと、(18)また39Eで翻訳を第一部と第二部に分けていることなどは、中世における『ティマイオス』の理解やその継承に深い影響を与えている。 12世紀において、シュニュの言う「自然の発見」を学問の面で代表するのが、いわゆるシャルトル学派の思想家たちである。その一人『宇宙の哲学』Philosophia mundiの著者コンシュのギョームは、『ティマイオス注釈』Glosae super Timaeum Platonisを著し、その中でカルキディウス訳を逐語的に注釈している。批判版を出したE.ジョノーによると、ギョームの『ティマイオス注釈』は13世紀から15世紀に掛けて、繰り返し筆写されており、15世紀のベッサリオンやフィチーノにもよく知られていたのである。 (中略)プラトンは『ティマイオス』の中で、宇宙万物を表す為にto pan, kosmosときにはoupanosという言葉を用いている。これらの言葉をラテン語訳するにあたって、カルキディウスは、現代語訳でも文脈によって適宜いくつかの語訳が当てられているTo panについてはuniversitas, universa res, mundus, omneなどの語訳を使い分けている。それに対し、殆どの場合、kosmosはmundus, oupanosはcaelumと訳されている。したがって、カルキディウス訳のラテン語文を読む限りto panの訳としてのmundus とkosmosの訳としてのmundusは何の区別も無く同じmundusとして理解されることになる。 ところで、コンシュのギョームは、カルキディウス訳の文章をいちいちあげ、必要に応じて個々の言葉にid est(すなわち)と説明を加えながら、逐語的に注釈するわけであるが(中略)ギョームがunivesitas, universa res, omneという言葉が全てのmundusと同じ意味であり、mundusが基本になる言葉であると理解していたことが分かる。(中略)プラトンの原典でも、カルキディウスの翻訳でも、pas,omneは明らかに形容詞として用いられているにも関わらず、コンシュのギョームは、あえてomneをsubstantive(名詞として)読むべきであるとした上、宇宙がなぜomneと呼ばれるのかを解説している。「mundus(宇宙)は一つであるにもかかわらず、(プラトンが)omneと言ったのは、宇宙をある全体的なものと呼ぶのが、古代の人たちの習慣となっていたからである。人々は色々な物語の中で、パン(pan)を、首の周りに小鹿の皮を持ち、赤い顔、ヤギの足、毛むくじゃらな脚をして、7本の葦を束ねた牧人の笛と杖を携えたある神に仕立てていた。このことは全て宇宙に合致している。宇宙がパン、即ちOmneといわれるのは、全てのものを含むからである。首の周りに小鹿の皮、即ちさまざまな皮を持つというのは、宇宙のより高い部分、即ち天空にさまざまに区別される星があるため、赤い顔を持つと言うのは、火があるため、毛むくじゃらな足を持つというのは、森があるため、ヤギの足を持つと言うのは、固い土があるため、7本の葦を束ねた笛(20)を持つと言うのは、色々な惑星の調和があるため、杖を持つと言うのは、時の巡りのためである。パンが妖精のシリンガを愛したと言われるのは、シリンガが調和と解されているからである。宇宙は調和を愛している。色々な元素の不和が生じるとしたら、宇宙もまた壊されてしまうのであろう。」 宇宙はこのように、全てのものを含みながら調和のある全体として、omneあるいはuniversitasと呼ばれるという訳である。 この宇宙理解は、ギョームがその著作の中で好んで用いる宇宙の定義にも、よく表れている。『ティマイオス注釈』で、ギョームは、28Aノカルキディウス訳で言えばomne autem quod gigniturの箇所から、宇宙の創造についての本論が始まると解するわけであるが、その注釈に先立って、「そして宇宙とは、色々な被造物の秩序付けられた集合であるet est mudus ordinata collectio creaturarum」と定義している。この定義でcollectioは単数であり、複数の被造物が集められて、秩序ある一つのものになっているのが宇宙である。要するに、omneともuniversitasとも呼ばれる宇宙mundusは、全ての被造物が調和と秩序をもって一つにまとめられた全体、と解されている。 プラトンは『ティマイオス』の28-30で、神により、イデアを模範として作られた中がkalos(美)であることを繰り返し述べている。
(佐藤三夫編『ルネサンスの知の饗宴 ――ヒューマニズムとプラトン主義』、東信堂・1994年)