2009年4月5日日曜日

Aristoteles --- Platon 2(in R)

Aristoteles --- Platon 2(in R) (135)ルネサンス期の思想家たちは、プラトン、プロティノス、プロクロスが時間と学説の相違とによって隔てられた別々の哲学者だという事を知っていた。しかし、近代初期の人々にとっての歴史的距離とは、我々の考えるそれほどには、量や質において明確なものではなかった。キリスト教が時代と教説において、新プラトン主義にこの伝統の他のどの時期よりも近いと言う事実によって、彼らは、様々な種類のプラトン主義思想を、敬虔な「プラトン一族」Platoniciの響和する合唱に仕立て上げようという誘惑に駆られた。プラトン自身をキリスト教化しようとするフィチーノの衝動にもかかわらず、三位一体論神学の問題点は、プラトンのさほど図式的ではない神学よりも、<一者><霊魂><知性>というプロティノスの「存在者(ヒュポスタシス)」によってよりよく解決する事が出来たし、神との合一への道としての哲学と言う新プラトン主義的概念は、キリスト教徒の神秘主義者にその最も豊かな霊感を提供した。キリスト教ととしんプラトン主義者には共通点が余りにも多かったので、フィチーノらが新プラトン主義的観点からプラトン主義を均質な伝統として眺めるようになったのは、当然の結果だったのである。新プラトン主義的視点を採用する事は、プラトンの政治学よりも形而上学に関心を払う事、アイロニーにより自信の無さを装うソクラテスには興味を示さず、複雑な神学的位階秩序を熱心に構築しようとする事を含意した。それはまた、『パイドロス』『饗宴』『ティマイオス』『パル(136)メニデス』のほうが『エウテュプロン』、『テアイテトス』よりも重要になるだろう事を意味していた。新プラトン主義版によるプラトン主義は、神の超越的実在を地上界の幻影のごとき物質から遠く引き離す神学を生み出したために、存在論的空白を埋めるための丹念に位階化された霊的秩序がすぐに考案された。新プラトン主義者はまた、明確な形而上学的原理―――<一者>の卓越性、原因の結果への先行、意識の段階としての存在の段階と言う概念―――を目指したが、これらは、教説上の相違を導き出すだけでなく、哲学の教条的計画を推進しているという点で、彼らの体系をプラトンの思想から区別するものだった。プロクロスの『神学綱要』のように教育的な著作を、或いは彼の『プラトン神学』のようにより散漫な著作でさえも、プラトンの作品と想像する事は難しい。フィチーノは確かにプラトンの文学的才能を理解したし、その溌剌とした機知を賞賛したが、フィチーノの『プラトン神学』は、遥かに多くのものを、流麗なプラトンよりも図式的なプロクロスと共有しているのである。 フィチーノやその他のルネサンス期のプラトン研究者は、新プラトン主義を経験し、キリスト教を信仰していた事から、プラトン主義の伝統に対してシンクレティズム的アプローチを取るようになったが、この伝統は、他の哲学書や宗教が自立した数世紀の間に展開するにつれて、当然、多数の思想家を折衷的にプラトン主義の改良へと向かわせるようになった。ヘレニズム期からローマ帝政期にかけて、プラトン主義者は、ストア学派と逍遥学派が達成した論理学・自然哲学における進歩を利用した。彼らはまた、新ピュタゴラス学派、グノーシス主義者、密儀宗教の入信者、錬金術師、占星術師、降神術師から、現世または来世でのより良い生の約束を聞いた。降神術とは、プロティノスが哲学と観想とによって得ようとした神との合一を実現するための、魔術の実際的技術だが、これは後期新プラトン主義にとって大きな関心の対象となった。後期新プラトン主義者にとって大きな関心の対象となった。後期新プラトン主義者たちは、真摯な求道性に神性への道標を教えようとする、ギリシアの当方からの叡智を収集したとされる『カルデア人の神託』を貪るように読んだ。ピュタゴラス学派や他の哲学流派の枠組みに組み込まれたこの種の秘儀的教説は、神秘的な「東方」起源を想定されたので、プラトン主義の伝統は、その教えが部外者に汚されずに入(137)信者の間で順繰りに伝達される秘密結社のオーラをまとう事になった。この半ば作り話で出来た歴史記述からは奇想天外な思弁が多く生まれたが、その大部分はプラトン自身の意図からかけ離れていたとしても、ルネサンス期のプラトン主義者にとってはきわめて重要なものだったのである。 プラトンが密議的な太古の神学を継承したという記録は、ディオゲネス・ラエルティオス、アプレイウスのような古典文学だけでなく、教父の著作にも見える事が出来た。とはいえ「古代神学」が西ヨーロッパの歴史記述の重要な一要素になるには、フィチーノとジョヴァンニ・ピコがこれを広く知らしめた15世紀後半を待たなければならなかった。ピコとフィチーノは職業的人文主義者ではなかったが、古代神学を喧伝する際には、人文主義のより幅広い前提、つまり叡智を探すべき場所は遠い過去にあるという思想を当然のこととして受け入れていた。この原理は、フィチーノとピコのようなプラトン主義者も、プラトンに関する知識は乏しく哲学への関心も大方の場合きわめて限られていたルネサンス初期の多くの古典主義的学者も、共有していたものである。この世紀の前半、レオナルド・ブルーニがプラトンからアリストテレスへと関心を移した時期には、フィレンツェの人文主義者たちは、倫理的問いに答えを与えるかもしれない場合を除いて、哲学にさほど注意を払わなかった。ブルーニ自身は道徳哲学の分野でのアリストテレスの主要な著作に努力を傾注したが、これらの著作はジャンノッツォ・マネッティによっても翻訳された。マネッティは、それ以前にアントーニオ・ダ・バルガとバルトロメオ・ファチオが転回していた流行の「人間の尊厳」という主題について、1452-53年に論考を表したことで最もよく知られている。1455年にポッジョ・ブラッチョリーニが書いた『人間の状態の悲惨について』全2巻のシニシズムとは対照的に、マネッティの『人間の尊厳と卓越性について』全4巻は、活動的で相違にあふれる人間の楽観的肖像を描いて、人間は、ギリシアのプロメテウスのように嫉妬深い神に対立するのではなく、三位一体の神の似姿に作られ、その霊魂の機能の中に神の知性・記憶・意思の能力を反映していると考えた。マネッティの著作の注目すべき特色は、肉体をたたえるその第1巻にあるが、アリストテレス自然主義哲学とガレノ(138)ス医学との驚くべき知識を示すこの巻は、マネッティの「ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語の優れた学者、道徳哲学・自然哲学に秀で、当代の誰にも劣らぬ神学者」という評判を裏付けている。この同時代人(ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチ)による賛辞の中で異色の学知は、ヘブライ語、神学、そしてとりわけ自然哲学である。フィチーノの時代以前のフィレンツェ人文主義により典型的なのは、ポッジョが1450年代中ごろにある若い学者に漏らした、「哲学の技芸が私には欠けている」という率直な告白である。 1454年のローディの和はイタリア半島の都市国家体制に新たな安定を齎したが、フィレンツェ人にとっての平和と安寧とは、1434年に追放から帰還して以来この都市の政治に対する統御をますます強めてきていた大物政治家コジモ・デ・メディチにとっては、短い困難の時代を意味していた。1455年以降の数年間はコジモとその党派にとって楽な時期ではなく、彼らは1458年に至るまでフィレンツェの官職選挙のコントロールを回復する事が出来なかった。メディチ家の最も高名な代弁者である人文主義者ポッジョは、1456年に書記官長の地位を失った。この混乱の時代には、フィレンツェ大学もまた論争に巻き込まれた。ブルーニの後、ポッジョの前に書記官長を務めたもう一人の高名な人文主義者カルロ・マルスッピーニは、1321年に創設されてから断続的に閉鎖されていたフィレンツェ大学で、古典文学と同等哲学を教えた。マルスッピーニが1453年に死ぬと、ドナート・アッチャイウォーリをはじめとする有力な家門の若いフィレンツェ人たちは、同等の技量と名声を備えた教師を後任者に選ぼうとしたが、市の役人は、この反メディチ感情が支配する空白期を利用して、アッチャイウォーリとその友人たちの野心を妨げるような、さほど有名ではない候補者を提案した。マネッティは市政庁との税金のいざこざのためにフィレンツェに住む事が出来なかった。ポッジョは教師の柄ではなく、おまけに忙しすぎた。もう一人の明白な候補者、偉大なギリシア学者・論争家のフランチェスコ・フィレルフォは、メディチ家の嫌悪の的だった。最終的には妥協が成立して,教授職の一部が、後にプラトン主義的道徳家、ウェルギリウスとダンテの解釈者として有名になるクリストフォロ・ランディーノに与えられた。もう一部の哲(139)学教授職にはビュザンティオンのアリストテレス主義者ヨアンネス・アルギュロプロスが任命され、アルギュロプロスは1456-57年度にこれを受諾して、その後15年間に渡りアリストテレスの講義を行った。 イタリア人文主義に重要な影響を与えた最初のビュザンティオンの学者はマヌエル・クリュソロラスであり、1397年から3年間に渡る彼のフィレンツェでの講義が,ブルーニ、ロベルト・ロッシ、ニッコロ・ニッコリを含む西ヨーロッパの最初の世代のギリシア学者たちを形成した。1402年までにクリュソロラスとウベルト・デチェンブリオは『国家』の粗略な翻訳を完成したが、デチェンブリオがその後著した『国家論』全4巻(1420年ごろ)に徴してみるならば、『国家』は、この最初の西ヨーロッパの翻訳者には、ヴィスコンティ家治下のミラノでウベルトが目の当たりにしていた君主政を擁護するものとして魅力を持っていたように思われる。ウベルトの子ピエル・カンディドは、1419年にまだこの精神不安定な公爵に召抱えられていた。小デチェンブリオは、プラトンの道徳上・神学上の正しさと教育上の有用さをともに疑っている批判者に直面せねばならず、反論に於ては、ブルーによりも攻撃的だが不器用だった。彼は、『国家』を永遠のキリスト教的政体のための非歴史的な青写真に仕立て上げるために、ありとあらゆる隠蔽と解釈の手段を使ったのである。他方で、ブルーニによる対話編のより洗練された誤読は1435年まで続き、この頃までには、フランチェスコ・フィレルフォやさほど有名ではない他の学者たちが、さらに多くのプラトンをラテン語に翻訳し始めていた。ブルーにとフィチーノ以外に、12人にのぼる15世紀の人文主義者が、前編にせよ一部にせよ、『書簡集』『エピノミス』、様々な偽作、そして現在一般に新作と認められている対話編の半数、つまり『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』『カルミデス』『リュシス』『エウテュプロン』『イオン』『ゴルギアス』『パイドロス』『饗宴』、『国家』『パルメニデス』、『法律』を翻訳した。クリュソロラスの1415年の死の一年後、ゲオルギウス・トラペズンティウスがヴェネツィアに到着し、世紀中葉に、そのアリストテレスの翻訳の長いリストにプラトンの3つの対話編を付(140)け加えた。教皇ニコラウスに仕えるアリストテレス翻訳者としてゲオルギウスの後を襲ったが、プラトンのラテン語訳には殆ど貢献しなかったテオドロス・ガザは、1438-39年のフェッラーラ・フィレンツェ公会議の後まもなくイタリアにやってきた。この公会議で、プレトンは自らをアリストテレスに対するプラトンの擁護者であると宣言した。フィチーノが後年<プラトン・アカデミー>の着想がプレトンからコジモにもたらされたと主張したときに言おうとしたのは、プレトンがコジモにプラトンのギリシア語写本を贈ったという事実に過ぎなかったのかもしれない。フィチーノにより大きな影響を及ぼした人物は、プレトンのお気に入りの弟子、ベッサリオン枢機卿である。ベッサリオンは、キリスト教のためにプラトンを保持し、アリストテレスを誹謗することなくトラペズンティウスの中傷に対してプラトンを擁護しようと務めた。トラペズンティウスとベッサリオンとの論争が最高潮に達する頃、アルギュロプロスがフィレンツェで仕事を始め,15年間,アリストテレスを講義しかつラテン語へ翻訳する事に専念した。 多くのビュザンティオン人と同じように、アルギュロプロスは、公会議に出席するために最初にイタリアに渡った。それからパドヴァで学び、結局コンスタンティのポリスへ帰ったが、この古都がトルコ人の前に陥落するや、1453年に再び祖国を離れた。アルギュロプロスは倫理学的著作にとどまらず、論理学、形而上学、自然哲学へも向かい、トラペズンティウスとは違って、イタリア人の読者により適した、より自由で流麗なラテン語を書くよう努めた。ベッサリオンに与してトラペズンティウスに対抗し、プラトンに哲学史上の名誉ある地位を与えたが、アルギュロプロスはアリストテレスの首位を確信しており、フィチーノとその仲間を魅惑したソクラテスに先行する「古代神学者」には共感を持ち合わせていなかった。その教育と翻訳においてアルギュロプロスがフィレンツェに提供したのは、人文主義教育を受けた人間に魅力のある形で、最初にアリストテレスの著作全般を体系的に解説したことである。フィチーノとの共通点は、倫理学と政治学に関心を限定する初期人文主義のプログラムの枠内では不可能だった、哲学的言説の要件全てへのより本格的な探(141)究を行ったところにある。別の言い方をするなら、アルギュロプロスは、フィチーノがプラトンの全貌をラテン語で明らかにしたのと同じ時期に、ギリシア語のアリストテレスの全体像を、知的な野心を持ったフィレンツェ人たちに提示したのである。両方の哲学がこの聴衆の関心を勝ち得たという事実は、ドナート・アッチャイウォーリの経歴の後半に明白に見て取れる。アッチャイウォーリは、5年間にわたってアルギュロプロスの講義を丹念に書き取り、それからこのノートの一部を利用して、1463-64年に『ニコマコス倫理学』の注解を作った。アッチャイウォーリの仲介はフィチーノの思想を明瞭に反映しているとはいえないが、友情の問題を、フィチーノの愛に関する見解及び調和ある政治的秩序におけるメディチ党の利害に適合する流儀で論じているのである。 ベッサリオンが『プラトンの中傷者に応える』で行った、……プラトンを弁護しようとする試みは、よりいっそうフィチーノのプラトン主義的愛の教説に近づいたこの釈義上の崇高化の力技は、ベッサリオンが師プレトンから受け継いだ解釈学のほんの一つの利用法に過ぎない。トラペズスに生まれたベッサリオンは、1423年に20歳でバシレイオスの規則に従う修道士になり,東ローマ帝国の宮廷でたちまち出世して言った。1430年代初めにプレトンに師事する以前に、既に外交上の任務を命じられている。ベッサリオンは、名高い東西教会合同のための公会議の開催に同意するようヨアンネス8世パライオロゴスを説得するのに一役買ったかもしれない。これを契機に、公会議が盛大に開かれる前に、ベッサリオンは「弁論家」、つまりギリシア側の代表として、1438年にヴェネツィアに最初の渡来を果たした。公会議はキリスト論と同じくらいトルコ人にも憂慮していたギリシア人が合同に同意して、1439年の夏、フィレンツェの大聖堂で大団円を迎えた。主要な神学上の争論は、三位一体の位格間の生成関係をめぐるクレドの定式に関わっていたが、ベッサリオンはギリシア教会の見解を熱烈に支持することから始めたし、終生、神学におけるスコラ学的弁証術への生まれながらの不振を失う事が無かった。しかし、ディオニュシオスの否定神学をプロクロスの形而上学及びビュザンティオンと西方の学者の文献学に結びつける事により、ベッサリオンは、「多様な典礼(142)における一なる信仰」という公会議の宣言に最終的に表現されたような、西方教会との神学的・教会組織的合致を推進する事が出来た。妥協が可能である事を自分自身と同国人とに納得させるために、ベッサリオンは、ラテン人の怪しげな論理には推論的理性に勝る直観の能力と照明の経験とに基づくギリシア人の信仰をまことの意味で覆す事はできないと主張した。このように、ベッサリオンは、ペトラルカの時代から知られていた人文主義的な弁証術批判に、まことに新プラトン主義的な一次元を付け加えたのである。 ベッサリオンは1439年に36歳で枢機卿になったが、コンスタンティのポリスが1453年にトルコ人の前に陥落したとき、破局が彼の前半生の勝利に影を落とした。この事を機会に、ベッサリオンは、西ヨーロッパにおけるギリシア哲学の安住地をヴェネツィアに定めて、ギリシア哲学を救おうとする熱意をさらに増したが、かの都市に委ねられた彼の注目すべき蔵書は、古代末期のプラトン主義を保存するギリシア語写本の宝庫となった(ッヴェネツィアのマルチャーナ図書館ギリシア語蔵書の基礎を成した)。ベッサリオンの柔軟なキリスト教の視点から見ると、古代の新プラトン主義者は、その中ではプラトンがキリストの先駆者であるとされる太古の神学が存在したというプレトンの主張を立証しているように思われた。教父はプラトンが叡智をモーセから盗んだと非難した。スコラ学者はアリストテレス主義体系がプラトンの不整合な説話よりも高次の位階に属すると得意げに語った。しかし、プレトンの古代神学は、ベッサリオンがプラトンを神の道を正した聖なる賢者の系譜中最大の存在として崇敬する事を可能にしたのである。『プラトンの中傷者に応える』を構成する全4巻のうち3巻は、反駁の対象である論争書―――トラペズンティウスの『アリストテレスとプラトンの比較』―――の構成をそのままなぞり、プレトンが引き起こしたギリシア語による論争を振り返っているが、残りの一巻は、その新プラトン主義的解釈学にベッサリオンが霊感を与えた、フィチーノの『プラトン神学』を予告している。 新プラトン主義のうちに、ベッサリオンは、古代の<権威>auctoritasの迫力を備えた方法を見出した。それはまた、プラ(143)トンを、賞賛すべき存在であると同時にしばしばアリストテレスと調和しているとみなすという利点を持っていた。西ヨーロッパがアリストテレス主義に注入してきた膨大な投資を前提とすれば、逍遥学派の伝統と完全に断絶する事を求めないプラトン主義のほうが、プレトンの排他的な立場よりも好都合であろう。個別の論点を取り出してみると、ベッサリオンのプラトン解釈はさほどの哲学的関心を掻き立てないかもしれないが、彼の解釈の方法にはもう少し注意を払う必要があるし、かなり大きな影響を、特にフィチーノに対して与えたのである。合致を見付けることよりも差異を設ける方に熱心だったスコラ学者と違って、ベッサリオンは、様々な権威の間に協和音を聞き取ろうとして耳をすませた―――つまり、年代学的に見れば、古代神学への探究を正当化し、学説に関して言えば、神学と哲学への平和主義的な、シンクレティズム的でさえあるアプローチを奨励するような、意見の一致を探したのである。さらにベッサリオンは、人文主義者の文献学的な目で古代の文献を読み、先在し転生する霊魂についてのプラトンの過誤は、不死性というより高次の原理を主張しようとするならば、当時に於ては不可避だったと論じて、粗雑な歴史主義的弁護論でプラトンを救出しようとした。しかし、この枢機卿のプラトン主義哲学への最大の貢献は、プラトンの対話編への新プラトン主義的見解を復活させて、それらは文字通りに理解すべき世俗的文書ではなく、解読すべき神聖な秘儀だとみなした事にあった。 この解読は弁証学者の仕事ではない。それは、存在の秩序において下位にある物体を、それが指示するより上位の実体に結びつける照応の連鎖を熟知した入信者を必要とする。それは、人間の言葉とは、肉体を幽閉しかつ霊魂を危機に陥れる陳腐な事実のみを話し、<知性>に語りかけて<一者>との合一への道を教える崇高な文言を決して発する事が無いという事を知る秘儀言語の達人を求める。ある思想がまことに考えるに値するものなら、その崇高さ自体が、それを肉体に閉じ込められた人間にとって難解なものとしてしまう。……(144)プラトン主義の想起説は、時間の順序ではなく存在の秩序において理解しなければならない。想起する霊魂は、その内部及びその創造者へと向かうのであり、記憶の中の過去の堆積に遡行するのではない。こうしたものが、ベッサリオンからマルシリオ・フィチーノへと伝達された新プラトン主義的釈義の方法と知見だった。(144)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)