2009年4月7日火曜日

Charakter

性格付け(184)ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス3、イタリア・ルネサンスに関する三つの付言 1 異教的ローマとキリスト教的ローマ -二つのローマの対話としてのルネサンス(1)イタリアの人文主義者は「古代人」とともに生き復活すると言う理想を持っていた。マキャベリは意味深い言葉でイタリアは「詩歌・絵画・彫刻に見られるように、死滅したものを甦らせる為に生まれたかのようだ」と述べている。しかしそれら「死滅したもの」が現世にとり、かくも重要かつ必要なものと判断されるなら、それはつまりそれらは身近なところにあり、いずれにせよ完全には死んでいないのだということである。 実際、異教的ローマは決してキリスト教ヨーロッパの中に死滅したのではなかった。中世史家はそのことに関して十分すぎるほどの証拠を指摘する。彼らの中でボルガーBolgarは、西欧がその文学的素材と思考方法のインスピレーションを養ったローマ帝国末期の文明の残存を正確な研究で示している。それはなんら驚くべき事ではな(185)い。つまり、キリスト教ローマが異教的ローマを知的隣人として受け入れた事は、他に代わるもの、すなわち、古代ローマと競う事の出来る別の文明が存在しなかっただけに、一層明白である。既に二世紀に聖ユスティヌスは、「あらゆる気高き思想は何処から来たものであれ、キリスト教徒にとって利用できるものである」と、断言した。そして聖ヒエロニムスは古典研究に余り情熱を示したので、キリスト教徒的というよりキケロ的だと非難されたにもかかわらず、死ぬまで自分の弟子達に異教の古典を教え続けた。同様に、キリスト教に改宗する前は修辞学の教師であった聖アウグスティヌスは、二つのローマのこの対話を象徴している。かくして、全ての教父の伝統はーそれが中世に非常に有力であった事は言う前も無いがーヒエロニムスやギリシア教父たちのように熱心に古典文化を学ぶのであれ、アウグスティヌスや大グレゴリウス教皇のように宗教的動機により、ある制限を設けるのであれ、どんな場合にもその明白な価値によって受け入れている。ボルガーが教父の伝統について述べた章の最後に「明らかに六世紀から十六世紀まで、異教―キリスト教を学ぼうとする波は愈々高まっていった」と指摘した事に同意しなければならない。 こうした異教―キリスト教的対話が、特別に思想的になんら相容れないところがなかった事を認めれば、セビリアのイシドールIsidoro de Sevillaの百科全書から、ベダBedaやアルクインAlcuinのアングロ・サクソン学派、そしてローマの模倣への夢に満ちたカロリング・ルネサンスまで、二つの伝統のもつれ合った糸を手繰って、ついに12,3世紀、翻訳者と古典古代への復帰の時代に一気に突入することは容易である。自ら、「常に古代の陰で生きている」中世全体は、古代への復帰への一連の努力、換言すれば、一連の部分的「ルネサンス」である。中世の作品においては、ドナトゥスDonatus、プリシリアヌスPriscilianus、プラウトゥスPlautus、オヴィディウスOvidius、テレンシウスTerencius、ヴェルギリウスVirgilius、キケロCiceroなどの引用が頻繁に出て来る。彼らの著作は、修道院や大聖堂付属の図書室に真の宝として保存されてい(186)る。イタリア人分主義者の偉大な功績を汚すことなくその仕事は、古代知識回復へのあの世俗的努力の最後の段階を意味するものである。 14,15世紀のイタリアでの「復興」からはるかに隔たった異教的古代が中世の文化・芸術の中に行き続けたと言う事は、はっきりと認められる事実であると結論できる。しかも、ギリシア・ローマの神々さえ―中世キリスト教文化によって没落させられたと考えられやすいが―イタリア・ルネサンスの間に甦ったのではなく、ローマの著作家たちが前キリスト教時代の末期に持っていた宗教的概念に包まれ、中世全体にわたって存在していた。キリスト教世界の真っ只中にギリシアの神々が根強く生き残ったと言う奇妙な現象は、セズネックが良く描いている(『古代の神々の残存』La survivance des dieux antiques)。(2)確かに、ルネサンスを古代への単なる復帰であるとする事は、それを歪め不完全なものにする。もしそれだけなら、多くのルネサンスを有する中世とそれほど変わらないものとなろう。実際、イタリア・ルネサンスは、単なる古代知識の伝達ではなく、それ以上のものである。ルネサンスの新しさは、この伝達のみでなく、その独特な受容にある。換言すれば、それは単なる内容(古代への復帰)だけでなく、主観的態度つまり中世とは異なったものの見方である。更に具体的に言うと、たとえばシャボーChabodが、中世とルネサンスにおける、古典古代の理念やリアリズムや個人主義を比較し、確かな証拠を元に出した結論は、この三つの点がただ、ルネサンスには存在する、中世には存在しないといった単純なものでなくて、古典古代に対する「異なった見方」という事である。かくて「人文主義者」、ル・マンのイルドベールHildebert le Mans ―12世紀―による過去への賞賛は、遠く隔たった感じ(‘’par tibi Roma, nihil cum sis prope tota ruina’ローマは美しい世界、だ(187)が既に消滅してしまっている)を伴っている。これに反し、コラ・ディ・リエンツォCola di Rienzo、サルターティSalutati、マキャヴェリMachiavelliなどは、過去を見るときイルドベールと似た感激を持ちながらも、同時に現在において、模倣すべき模範として過去を見る。―(’latent omnia quae scire non est satis, nisi operibus impleantur’ Salutati「隠れた全てを知るだけでは十分でない、それを実行に移すべきだ」)―換言すれば、ルネサンスにおいては古代は当時の理想とされたと言うことである。 ガレンGarinの次の言葉も同様な解釈を示すものである。「ルネサンス、闇を追い払う光、復活する古代の誇り高き神話、それは具体的にその内容を言うのではない。新しい活気溢れる状態、ものの新しい見方を強調するのである。古代は、郷愁のまなざしで見ると、それまでとは違った風に見られ、愛される」。(3)この新しい見方は、中世人とルネサンス人とでは違っている。実際、ヴァイスWeissが断言するように、「完全な障壁が人文主義者をローマの古代人から切り離していた」。人文主義者の好むと好まざるとに関わらず、千年以上ものキリスト教の伝統が、彼らを彼等の生きているキリスト教社会特有の信念・偏見・神への賛仰で包んでいた。古代への復帰は、しばしば人工的・偽装的なものとなり、人文主義者は歴史的知識の欠如により、余りにも頻繁に自己の思想を古代思想に帰した。そして、どんな場合でも、二つのローマの対話は続くのである。それは自分達が栄えあるローマ時代に完全に帰ったと信じようとしたが、しかし事実上、そう出来なかったということなのである。確かに、キリスト教ローマの精神が全体を貫いていた。 a. フォイクトVoigtによれば、人文主義者たちの古典への復帰にとり、鍵となる人物と考えられるペトラルカPetrarcaは、その著書『自分と多くの人の無知について』(De sui ipsius et multorum ignorantia ---(188)1337-38)の中で次のように述べる。「キケロを尊敬する事がキケロ的であるとすれば、私はキケロ的である……しかし、宗教、つまり永遠の救済のような至高の真理、真の幸福について言うなら、確かに私はキケロ的でもプラトン的でもなく、キリスト教徒である。更に、私はキケロがキリストを見て、彼の教義を理解する機会を得たなら、彼こそキリスト教徒になったであろうと確信する」。そして、彼の古代の偉大な人々(ホメロス、ヴェルギリウス、リヴィウス、キケロ、セネカ)にあてられた彼の書簡の中では、「あなた(キケロ)の知らなかった神の時代、1345年に書かれた」とか、またセネカへの書簡の中では、「あなたの主人(ネロ)が崇拝するより迫害する事を選んだ御方の誕生より1350年に」というキリスト教的表現を用いている。 時間的に、また精神的に隔たった意識はまだ明白である。ペトラルカは、彼の生きた時代、つまり14世紀の人間であった。それゆえ、何世紀かのキリスト教の伝統が古典古代人とペトラルカならびに彼の仲間の人文主義者たちとの間に立っていた。これら二つの伝統は、保存され調和されるべきものであった。ペトラルカがローマのカピトリウム(ジュピターの神殿)で詩人の月桂冠を戴いたとき、きわめて象徴的であったのは、聖ペテロの墓に冠を置きに行った(1341年4月)ということである。いずれにせよ、彼はセネカやキケロとともに、聖アウグスティヌスが最高の導師であり、インスピレーションの源であって、またアウグスティヌスの人生に彼自身の人生を見る事が出来ると信じていた。(’’Legere arbitror, non alienam, sed propriae peregrinationis historiam’’ 「私は他人の人生を読んでいるのではなく、自分の人生を読んでいるようだ」)。聖アウグスティヌスとの自伝的対話は、件の二つのローマの美しい対話を成している。しばしば用いられる、よく知られた引用は、所謂「発見する」対象たる自然を眺望できるベントソ山Monte Veentosoへのあの有名なペトラルカの登山である。しかし意外な事は、ペトラルカが書いているように、そういうときにも「常に携えている」聖アウグスティヌスの告白禄を開いたと言う事である。彼はそのとき、次のような言葉に出会い、感銘を受ける。―――「人は、高い山々、海の(189)巨大な波、広い河床、広大な太洋、銀河を眺めようとやって来る。しかし、人は自分自身の事を忘れ眺めようとしない」(Confess, X, 8,15)。ここで、ペトラルカは、「まだ地上のものを眺めている自分自身に腹を立て」自分の内部に目を向け、一言も口を聞かずに山を降りた。これは、1336年4月のことであり、この偉大なフィレンツェの人文主義者にとり、精神的にきわめて意義深い日となった。 b. しかし、ペトラルカのようなルネサンスの情熱的な代表的人物から、より客観的なイタリアの図書館の蔵書目録に目を転じると、そこには二つのローマの自然な「共存」がみられる。15世紀のイタリア・ルネサンスの都市の中でフィレンツェほど代表的な都市を、またその中でメディチ家ほど熱心で啓蒙的な推進者を見つける事は難しいだろう。さてコシモCosimoとロレンツォ・デ・メディチLorenzo de Mediciの図書目録に記載されている写本や著書には、聖書や教父伝のようなものと、ギリシア・ローマ作家のものがあるが、質量ともにきわめて意義のある均衡が感じられる。そしてどんな図書館でも、それが新しいものであれば一層、その計画や選択には明らかに、創立者の趣味・精神が具体的に示されている。この目録の明白な価値は、これが教会のでなく、世俗の図書館のものである事を考えると、いっそう増大するのである。 c. 結局、芸術において―――それはヴァザーリにとってまさにルネサンス概念の特徴であった―――中世の断絶の後の純粋な、古代への復帰という伝統的概念は疑わしいものとなり、更に少なからぬ人々によって捨て去られた。ただ、ルネサンスの代表的建築と古代のローマ寺院とが、両者の建築様式の明白な際を知るために、比較されねばならない。即ち、疑いなくビザンツ的要素や中世的要素が数多く付け加えられている。たとえば柱廊の上のアーチ、円筒状の外周を持つ教会、ロマネスク様式の回廊にのせられた円屋根、その中で最も有名なミケランジェロのドームも、古典ローマ的というよりビザンツ様式である。また、古代ローマには存在しなかった十字架形で一点に集まる脇廊など。(190)ルネサンスの有名な墓までがキリスト教的装飾の元に、石棺に亡き人の肖像を刻むと言う中世の伝統に従っている。メディチ家の墓―新しい香部屋―では、公爵たちがローマの武具を身につけている。しかしミケランジェロの、ピエタとともに最も評価されている、聖母マリアの像がその中央を占めている。つまりルネサンスの墓も、当然人間にささげられてはいるが、最後の永遠の救済と言うキリスト教的観念に向かっていくのである。(四)イタリア・ルネサンスの成果である、この古典古代への「条件づけられた」復帰はまさに逆説的結果を持つことになろう。実際、モンテヴェルディA. Monteverdiの鋭い直感に寄れば、ルネサンスは古代の理解に可能な限り一層深く入ろうとして、ついには自己の近代化を実現し、既に完全に消滅してしまった古代の精神と形体を復活させたいという中世的熱狂から、急速に永久に西欧を開放する。勿論、ルネサンスが中世に連続的に興ったルネサンスの最後のものであるなら、それ自体、単に一つのルネサンスと言うより寧ろ既に中世において熟していた新旧あらゆる要素を融合した止揚なのである。 然るべきときに近代ヨーロッパを生み出すのは、二つのローマの伝統の共生したものである。しかし、未来の近代ヨーロッパを作りつつあった、こうした古代―中世の歴史的過去の融合が芽生え始めている。換言すれば、ルネサンス期は本質的には過渡的転換期なのである。