第三章――ルネサンス哲学における自由と必然(111) フォルトゥナ=象徴の変遷 1501年末、フェラーラの使節団がローマに現れる。エステ家のアルフォンソと結婚することになったルクレーツィア・ボルジアをフェラーラまで案内する為である。教皇宮では使節団に敬意を表して、幾つかの祝祭劇が演ぜられたが、その中に、運命の女神フォルトゥナFortunaとヘラクレスの戦いを扱ったものがある。ユノは昔からの宿敵ヘラクレスに対して、運命の女神フォルトゥナを送り込む。しかし、フォルトゥナはヘラクレスを倒すどころか、逆に打ち負かされ、捕らえられ、鎖につながれてしまう。ユノの懇願を容れて、ヘラクレスはフォルトゥナを釈放する事になるが、ただしその釈放は、ユノにしろフォルトゥナにしろ、今後再び、ボルジア家に対してもエステ家に対しても、敵対的なことは企てない事、寧ろ両者とも両家に結ばれた縁組を祝福する事、という条件付きである。 我々がここで問題にしているのは、単に宮廷風の慣習の言葉で装われた全く宮廷風の祝祭劇に過ぎない。――ヘラクレス=象徴を選び出したのも一見したところでは、統治者のフェラーラ侯、アルフォンソの父エルコーレ・(112)デステErcole d’Esteの名Namenを暗に指したもので、それ以上の意味は無い様に思われる。それだけに、この祝祭劇がここで演じだしたのと全く同様の比ゆ的な対決が同時代の文学に繰り返し現れるだけでなく、哲学にさえ進入していると言う事実は驚くべき事と言わねばならない。事実、16世紀の末になっても依然としてなお、同一のモチーフがジョルダーノ・ブルーノの道徳哲学的著作に繰り返されるのである。 ブルーのの『驕れる野獣の追放』Spaccio della bestia trionfante,(1584)では、次のごとき話が展開される。すなわち、ゼウスやオリンポス神の居並ぶ集会に現れた運命の女神フォルトゥナは、ヘラクレスが今まで聖座の序列の中で占めていた位置を要求する。しかし、フォルトゥナの要求はとるに足らぬものとして一蹴されてしまう。定めなく放浪するものである運命の女神フォルトゥナに対しては、宇宙の如何なる地位であれ拒まれるという事はない。好みに任せ、天上界であれ地上界であれ、いずこにも現れることが出来るからである。しかし、ヘラクレスの地位は勇気Tapferkeitに与えられるのである。なんとなれば、審理、法、正しい判断の支配すべきところには、勇気が欠けてはならないからである。勇気はその他全ての徳の砦であり、正義の楯であり、真理の塔である。勇気とは即ち、悪徳にとらわれず、苦難に圧倒される事もなく、危険に対しては根気強く、欲望には厳格にして、富の侮蔑者であり、運命の女神フォルトゥナの征服者である、というのである。 我々はここで、こうした思想の宮廷風の表現を哲学的な表現に直接並置して考察するのを避けてはならない。なぜなら、このような関係、このような並置が可能であると言う事実、まさにこの事がルネサンス文化とその精神的態度全体にとって特徴的なことだからである。ルネサンス期の社交、その祝祭と祝祭劇の形式がどれほどルネサンスの精神を伝えているかを明らかにしたのは、ブルクハルトである。また、ジョルダーノ・ブルーノのような人物が教えているのは、こうした祝祭劇を支配している比ゆ的な仮面劇が、我々の思考の習慣からすれば当然ながら、(113)抽象的、概念的=非比喩的begrifflich-bildlosenな思考にのみ委ねられねばならぬ領域にまで広くその影響を広げていたという事である。生活がいたるところで精神的な形式によって支配され、貫かれている時代、人間の、世界に対する地位についての根本思想、即ち、自由と必然に関する根本思想が祝祭劇の中にまで影響するような時代――そのような時代においては、思想もまた単にそれ自身のうちに閉塞しているだけではなく、眼に見える象徴(シンボル)を追い求めるのである。 ジョルダーノ・ブルーノはルネサンス哲学のこうした基本的な状況、基本的な調子Grundstimmungの最も明白な代表者なのである。その最初の著作『イデアの影について』De umbris idearumから一貫して、ブルーノは、人間の認識にとって観念は比喩的な形式以外では表現され具体化されえないという思想を堅持している.比喩的な形で表現されたものは、観念の永遠の先験的な内容に対して、依然として影のごときものに見えるかもしれない。それにもかかわらず、比喩的な表現は我々の思想、我々の精神にのみ相応しいものである。影が単に暗黒ではなく光と暗さの混合であるように、人間的な形式で把握された観念は幻や幻影ではなく、限られた有限の存在が捉え得る限りでの真理そのものである。このような思考様式にとっては、比喩Allegorieは単に外的な装飾品、偶然の衣服ではなく、思想そのものを乗せる車輪となる。特に、宇宙の形式ではなく人間のそれを扱っているブルーノの倫理学Ethikは、いたるところでこのような特殊=人間的な表現手段を取るのである。 ブルーノの『驕れる野獣の追放』はこうした倫理的=比喩的な様式言語Formelspracheを多面的に発展させたもので、内面的な世界の関係を目に見える空間的な宇宙の諸形象を通して明らかにしようとするものである。人間の内面世界das Innereを動かしている諸力は宇宙の力とみなされ、美徳や悪徳は聖座となる。このような考察においては、剛毅fortezzaが中心位置に移されているが、しかしそうであっても、単にその倫理的な意味においての(114)み、すなわち倫理的に狭く限定してのみ理解されるべきではない。剛毅とはーーvirtusの語原学的な意味、ここで表現されているのはこのvirtusの概念に他ならないが、この本来の意味にしたがって、一般に男らしさの力、男性的な意志の力を意味しており、この力が運命の女神の制御者、「運命の女神の支配者」domitrice della fortunaとなるのである。ここで我々の聞き取るのは――ヴァールブルクが他の分野で作り出した表現を使えば――新しいが、しかし同時に真に古代的なパトスの様式Pathosformelである。それは英雄的な情熱ein heroischer Affektであり、その言葉と思想的な正統性を求めているのである。 自由と必然との関係についての、ルネサンス期に現れた哲学学説をその固有の深さにおいて理解しようとすれば、常にこのような究極的な根元にまでさかのぼっていかねばならない。この永遠にして、その基本的な形式においては変化する事のない問題の、純粋に弁証法的なモチーフに対してルネサンス哲学が付け加えたものは殆どない。ポンポナッツィの『運命、自由意志、予定について』De Fato, libero arbitrio et praedestinationeのような著作は、このようなモチーフの全てを完全に枚挙し形式的な徹底さをもって、もう一度、我々の前に並べてくれるのである。この書は、問題をその全ての分枝にいたるまで追跡する。即ち、人間の意欲と行為の自由は神の予知と一致するのを証明しようと、古代哲学及びスコラ哲学はあらゆる概念区分を駆使して努力してきたのであるが、この書はそれら一切の概念区分allen begriffichen Distinktionenを注意深く追跡しているのである。しかし、このポンポナッツィの著作其者は、原理的に新しい解決を齎しもしないし、またそのような解決を求めてもいないように思われる。ポンポナッツィ固有の立場をはっきり確定する為には、我々は彼の他の主要な哲学的著作、特に霊魂不滅を扱った著作に立ち返って把握しなければならない。ポンポナッツィは、これらの著作において全面的に伝統的な概念や形式を受け継いでいるが、それにもかかわらず、我々はここで――とくに『霊魂の不滅につ(115)いて』De immortalitate animaeと題する著作に見られる倫理Ethikの新しい基礎付けに当たって――いかに伝統的な概念や形式の硬直さが緩み始めているかを知るのである。 フォルトゥナ=象徴Fortuna-Symbolの変化はルネサンスの造形芸術において辿る事が出来るが、ここで我々はこれと類似したプロセスの前に立つのである。造形芸術に見られるフォルトゥナ=象徴の変化のプロセスを明らかにしたのは、ヴァールブルクとドーレンの研究である。これらの研究によれば、硬直した中世的なフォルトゥナの諸形式は尚、長期間にわたって存続していくが、やがてそれとは別の、根元においては古代的ではあるが、今や新しい精神と新しい生に満たされた他のモチーフが益々強力に出現してくる事になるという――実はこれと全く同じ事が知的な分野の内部においても妥当するのである。ここでもまた、新しい弛緩は直ちに生じたわけではない。こうした弛緩が始まる前にはまず、思想の新しい緊張状態ともいうべきものが生み出されねばならないのである。哲学的な過去との断絶とも言うべきものは、どこにも現れていない。しかし、思想の変化した力学Dynamikといったもの――ヴァールブルクの言葉を借りて言えば――新しい「エネルギーの平衡状態」energetischen Gleichgevichtszustandへの努力と言ったものが告知されているのである。
ルネサンス文芸におけるフォルトゥナ=問題 造形芸術が造形的な平衡方式を求めるように、哲学もまた「中世的な神信仰とルネサンス人の自己信頼」zwischen mittelalterlichem Gottvertrauen und dem Selbstvertrauen des Renaissancemenschenとの間に思想的な平衡方式を求めるのである。こうした努力は同時代の本来のいわば「哲学的」文献に於てよりも、新しい人文主義的時代の文学的なレッテルとなる、あの半ば哲学的、半ば修辞的な論文において一層明確に現れている。この際、道はペ(116)トラルカの論文「二つの運命に対する処世術」De remedies utrisque fortunaeからサルターティを越えて、更にポッジョとポンターノへと続いている。ポッジョの試みた解決策は、即ち、人間の生を形成するこれら互いに対立した力は、人間存在の種々異なった時期Epochenに応じてそれぞれ優勢になったり劣勢になったりする、と説明することである。 人間を外から脅かす危険、すなわち、運命の力による危険は、本来の自己が未だ形成されていない限り、つまり人間が未だ子供状態或いは少年の状態にある限り、最も強力に作用するのである。このような自己が覚醒し、自由な人間性の原動力により、すなわち倫理的・知的努力のエネルギーによって完全な活動力が展開されるや、ただちに、このような危険は後退していくのである。したがって、天上界の敵対的な全ての力に打ち勝つのは最終的には、力virtusと努力studiumに他ならない。 このような表現の仕方には信仰の新しい傾向が示されている。しかし同時に、この傾向には魂の新しい分裂も示されているのである。ダンテのフォルトゥナ像に見られるあの造形的=思想的な統一は、再び戻っては来ないのである。ダンテのフォルトゥナ像は全ての対立するモチーフを偉大な一つの総合にまとめ上げ、フォルトゥナをそれ自身の存在と特質を持った本質として存立させるとともに、それにもかかわらず、それを精神的=神的宇宙に適合させたのであるが、――このような統一は二度と再び達せられる事はないのである。しかし、まさにこうした不確実性は中世的摂理信仰の確実性と安全性に対して、一つの新しい解放を意味している。中世的な両世界説Zweiweltenlehreとそれから導かれた全ての二元論にあっては、人間は単に人間をめぐって争う書力に対立しており、ある意味でその犠牲とされるのである。人間はこれらの力の対立抗争を体験するが、自らこうした抵抗に関与する事は無い。人間はこのような偉大な世界劇の行われる舞台である――しかし人間は未だ真に独立した相手役になってはいないの(117)である。 とはいえ、ルネサンスは益々はっきりとこれとは異なる他の像を示すようになる。人間をひっとらえ、転がし、持ち上げるかと思うと、深遠に突き落とす、このような車輪を持ったフォルトゥナ像から、帆船Segelに乗ったフォルトゥナ像が出現する――ここでは船を導くのはフォルトゥナのみではない。舵に取り付いているのは人間自身なのである。理論家の発言もこれと同じような方向を示している。理論家の発言と言っても、形式的な学問知識に由来するものではなく、寧ろ一定の行動分野、あるいは精神的創造の分野に属する理論家の発言の事である。マキャヴェリにとって、幸運は人間の行動の半分を支配する。しかし幸運は行動する者、荒々しく大胆に掴みかかる者に与えられるのであって、行動をしないで拱手傍観しているものには与えられないのである。レオン・バッティスタ・アルベルティにとって、フォルトゥナの急流は、自らの力を信じ有能な泳者として流れを乗り切って進む者を呑みこむ事はないのである。La fortuna per se’, non dubitare, sempre fu e sempre sara` in becillissima et debolissima, a chi se gli opponga.(運命の女神フォルトゥナは彼女に抵抗する者に対しては、常に最も弱きもの、最も愚かなものであったし、これからもそうであろう事を疑う事なかれ)。両者、つまりマキャヴェリとアルベルティは、ここではフィレンツェ社会の雰囲気の中から物を語っているのである――すなわち、サヴォナローラによって、その力と自信を打ち砕かれるまでのロレンツォ・マニーフィコのごとき政治家や行動人だけでなく、思弁的な思想化をも支配していたところのあの雰囲気である。 フィチーノは確かにルッチェライ宛の書簡で、フォルトゥナが暴力を振るって、我々を不愉快な未知に引きずり込まないように、我々の意志をフォルトゥナの意志に従わせ、フォルトゥナと和解し停戦する事が最良の道である、と説いているが、たとえそうであるとしても――プラトン学園の若きリーダー、ピコ・デッラ・ミラン(118)ドラの合言葉は既に一層大胆に、いっそう自由に響き渡るのである。「精神の奇跡は天上界よりも偉大である……地上界にあっては人間を於て偉大なものは存しない。人間にあってはその精神と霊魂をおいて偉大なものは存在しない。お前が精神と霊魂にまで上昇すれば、天上界を越えて昇る事になる」。フィレンツェのプラトン主義の厳格に宗教的な事実、厳格に教会的な世界の真っ只中に、今やあの「英雄的な熱情」がほとばしり出るのである。この熱情は後に、ジョルダーノ・ブルーノの対話編『英雄的な激情について』Degli eroici fuoriを導き出す事になろう。
(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)