趣味趣向(音楽、文学)(242)ルネサンス時代にはしばしば、音楽と他の芸術、とりわけ建築との間には並行関係があると言われた。耳に聞こえるプロポーションと目に見えるプロポーションは類似していると考えられた。アルベルティは助手のマッテオ・デ・パスティに対して、若し付柱のプロポーションを変更するなら、「その全ての音楽は不調和をきたす」と警告している。フランチェスコ修道会の学者フランチェスコ・ゾルジ(ジョルジ)は、1535年の報告で、ヴェネツィアのサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ聖堂の建築各部のプロポーションを「ディアパゾン(音域)」「ディアペンテ(五度音程)」といった音楽用語によって記述している。 こうしたアナロジーは隠喩以上のものとみなされた。時には実践的な重要性を持つこともあった。たとえばミラノ大聖堂の学長フランキーノ・ガッフリオは建築顧問として意見を請われている。音楽と他の美術とのアナロジーはさほど明確ではなかったが、しかしすでに触れたミケランジェロとジョスカン・デ・プレの場合のように、比較されることは少なくなかった。 当時の音楽趣味は当時の美術や文学の趣味よりも復元することが難しい。ヴァザーリの『美術家列伝』に相当するものは音楽には存在しなかったし、いずれにせよ、当時も今と同様、人々にとって(243)自分たちがなぜ特定の音楽作品を好むのかと言うことを説明することは、なぜ特定の詩や絵画を好むのかと言うことを説明するよりも難しかった。したがって以下の論は、ヨハンネス・デ・ティンクトリス、ピエトロ・アロン、ニコロ・ヴィチェンティーノによって書かれた当時の三つの音楽論にもっぱら依拠している。 もっとも頻繁に使われた賞賛の用語は「甘美な」soave,dolceであったが、この言葉は、音楽の趣味について、「美」と言った言葉が視覚芸術の場合に表す以上のことはわれわれに語ってくれない。いっそう有益なのは「ハーモニー」に関する用語グループであるが、それらは視覚芸術の「秩序」orderに関する用語グループと多くの共通性を持っている。よき音楽は一定の規則にのっとっていると言うのが基本的な理念であった。たとえばティンクトリスは、当時の作曲家を彼の言うところの(244)「許しがたい誤り」を犯しているとして、たびたび批判している。彼は音楽におけるプロポーションに関して論文を書いた。ピエトロ・アロンは「秩序ある」と言った同種の賞賛の言葉を使っている。 当時の音楽理論家にとって関心を引いた問題は、不協和音の問題であった。問題は音楽と視覚芸術の間の基本的な相違、つまり秩序とか調和と言った共通の語彙を使うことによって包み隠されている相違から生じる。当時の音楽に生じた不協和音は、視覚芸術における装飾や不均斉にたとえることが出来る。装飾は望ましいが、不均斉は避けるべきであった。ティンクトリスにとってはこの点について判断を下すことは難しかった。あるところで彼は音楽の不協和音を言葉の綾にたとえ、別のところで不協和音を「耳に不快感を与える二つの声の混合」と定義している。彼の結論は妥協的なもので、不協和音はそれがはなはだしく無ければ許されても良いものであった。それから約50年後に、アロンはさらに進んで不協和音を許容する立場を取っている。ティンクトリスにとって、音楽作品は完全な協和音で始まり終わるべきものであったが、アロンにとっては、音楽作品は協和音で終わりさえすれば良かったのである。 別の用語グループは感情表現の観念にかかわるものである。この場合には視覚芸術とのアナロジーは明白であるが、時間的には美術より遅れて登場したらしい。感情表現が理論に於ても実践に於ても重要になったのは、ようやく1500年ごろ、あるいはさらに後のことであった。カスティリオーネの『宮廷人』の登場人物の一人は、ローマのビドン・ダ・アスティとマントヴァのマルケット・カーラが実演した二通りの歌い方が聞き手に及ぼした効果を、対比的に語っている。 :ビドンの歌い方を見ればそれが良く分かります。彼の歌い方は、この上も無く芸術的で、絶妙で、力強く、情緒を盛り上げ、メロディーにこの上も無い変化があります。したがって聞く人はことごとく感動し、天にも昇る心地でうっとりとしてしまいます。おなじみのマルケット・カーラの歌い方もそれに劣らず人の心を動かします。しかしいっそう柔和な調べを持っています。それは、温和な優雅なやさしさに満ちた歌い様で、心を和ませ、心に染み入ってくるのです。: この時代の音楽のあるものは明らかに感情を伝達するために作られた。たとえばテクストに表現された感情を強調するために作曲された。ウェルギリウスの『アエネーイス』での ディードの嘆きに付せられたジョスカンの哀歌は有名な例である。コスタンツォ・フェスタ、アドリアン・ウィラールト、ジャック・アルカデルトなどが作曲した1520年代から1540年代に掛けてのマドリガーレはこうした黎を多く提供している。しかしながら、こうした感情表現を意図した歌曲を支持する理論が登場したのは、ようやく1550年代になってからのことであった。ニコロ・ヴィンチェンティーノ(ウィラールトの弟子)は次のように述べている。「もし言葉がつつましいものなら、人は激しくなくつつましい曲を作るだろう。若し言葉が楽しいものなら、人は悲しい音楽を書かないだろう。若し言葉が悲(246)しいものなら、楽しい音楽は書かないだろう。言葉が苦いなら、甘い曲を作ることはあるまい……。」ジョゼッフェ・ザルリーノも同様のことを主張している。 :音楽家がハーモニーと言葉と言う二つのものを不適切に結びつけることはただしくない。それゆえ、陽気な言葉に悲しいハーモニーや悠長なリズムを使うことは適切ではない。あるいは涙で溢れた悲壮な言葉に陽気なハーモニーや速くて軽快なリズムを使うのも正しくない。……作曲家は、言葉と音楽を組み合わせるときには、言葉が無常さ、頑固さ、残酷さ、苦々しさ、その他同様の感情を表すところではハーモニーもそれに同調すること、つまり、いくらか厳しくとげとげしく、しかし不快になるほどではなくしなければならない。: 音楽と姉妹芸術の間にはさらに別の並行関係も存在する。たとえばティンクトリスは「あらゆる対位法の中に最大の多様性が追及されねばならない」と主張した。音楽には自然を模倣することが期待された。たとえばハインリヒ・イザークの『いざ戦いへ』のように、戦闘や狩猟の場面が模倣されたのである。
文学 (247)「絵画とは黙せる詩に他ならない」とバルトロメオ・ファツィオは書いている。彼がこう書いた15世紀前半にはこうした観念はまだ常套句にはなっていなかったが、それは急速に浸透した。この絵画と詩のアナロジーは、ホラティウスの成句「詩は絵のごとく」をよりどころにしたものだが、当時の人々は飽きることなくそれを繰り返した。この言葉は当時の実際の批評にも影響を与えた。人文主義者ポリツィアーノが中世の詩人チーノ・ダ・ピストイアを「古い無骨さl’antico rozzoreを捨て去ろうとした」最初の人と書いたとき、彼は実際チーノのことをある種のチマブーエやジョットとして描き出しているのである。当時の文学批評で用いられた五つの中心的概念―――適正さ、壮大さ、優雅さ、多様性、写実性―――はとりわけ視覚芸術と相似関係を持っている。 適正さdecoro,convenevolezzaは、美術批評に於てよりも文学批評において重要な役割を演じたように思える。視覚芸術においてはこの言葉は単に若々しい肉体の上に年老いた顔を描くとか、あるいはもっと極端に十字架上のキリストに農民の風采を与えると言った、明らかな逸脱を避けることを意味していた。しかし文学批評に於てはこの「適正さ」は形式formaと内容materiaの関係と言う中心問題を議論する際に用いられた。べ根地価の人文主義者ピエトロ・ベンボは、すでに古くから知られていたことを権威ある公式に仕立て上げ、高・中・低の三つの文体maniere e stiliを区別した。「若し主題が偉大なものであれば、言葉は荘重で、格調高く、朗々として、壮麗で、輝かしくgravi, alte, sonanti, apparenti, luminoseなければならない。若し主題が低俗なものであれば言葉は軽やかで、平易で、つつましく、平凡で、穏やかlievi, piane, dimesse, popolare, cheteでなければならない。(248)若しこの中間であれば、同様に言葉も中庸でなければならない」ベンボに拠れば、ダンテは『神曲』においてこの規則を破っている。と言うのもダンテは崇高な主題を選んでおきながら「きわめて低俗で品の無い言葉」を導入したからである。 この例が示しているように、一般の読者はともかくとして、批評家がもっとも好んだのは偉大な文体で書かれた偉大な主題であった。大部分の批評用語はこの偉大さの観念―――品位、荘重、高貴、威厳、壮麗dignita, gravita, altezza, maesta, magnificenza―――に集中している。崇高sublimeという言葉もそれが使われている文脈から見て、18世紀にこの語が担う恐怖という含意とは無縁であったが、同様の意味を持っていた。荘重な文体で書くことは多くの主題―――言うまでもなく卑近な庶民に関する話題―――や「ふくろう」「こうもり」といった多くの言葉を排除することを含んでいった。実際ある批評家は「海」や「太陽」と言った言葉を「海神」とか「時の経過を刻む惑星」といった婉曲な表現に置き換えるよう勧めている。…… 文学批評の中心的概念で多かれ少なかれ視覚芸術における「豊かさ」に対応するのは、内容か形式のいずれにかかわるにせよ、多様性varietaという概念であった。ベンボはボッカチオが『デカメロン』の百の異なる話を説き起こすやり方がいかにも巧みで多様なことを高く評価している。アリオストはその『狂乱のオルランド』におけるテーマの多様性によって大いに賞賛された。聖書でさえ、サヴォナローラによって同じ見地から「その話の多彩さ、意味の豊富さ、登場人物の多様(249)性」をたたえられた。 別の用語グループは快適さpiacevolezzaの観念にかかわるもので、それには「優雅さ」leggiadria、愛らしさvaghezza、甘美さdolcezza、優美さgraziaなどが含まれる。これらの言葉に関して注意すべきもっとも重要な点は、おそらくそれらがしばしばわれわれが「二流の」美と呼ぶ中位文体や、叙事詩よりも抒情詩や、あるいはボッカチオの『デカメロン』などのような低位文体の作品に言及していたことである。同じ形容詞が多くの絵画に用いられた事実は、絵画にも同じ二流と言う意味が暗に含まれていたのではないかという推測を引き起こす。 絵画におけるように、文学の議論に於ても、批評家はたびたび「模倣」imitazioneについて語っている。美術批評や後の時代の文学批評におけるように自然の模倣と言うよりも他の作家の模倣が問題とされた。借用されたものをいかに変化させ変形させるか、ウェルギリウスやホラティウス、キケロの単なる「猿真似」に陥らずにいかに模倣することが出来るのか。この問題―――古代の復興と言うルネサンス全体の運動の中心をなす―――もまた意見が対立した問題であった、がとりわけポリツィアーノとベンボの間では大きく異なっていた。ベンボはキケロのような特定の著述家の模倣を好んだが、それは細部を写し取ると言うことではなく、その本質を吸収し、著者の文体を模倣すべきモデルとして摂取すると言うものであった。一方ポリツィアーノは、彼が「サル」「オウム」「カササギ」と呼ぶ模倣を非難し、キケロではなく自分を表現することこそ重要であると主張した。彼の書簡は、ブルクハルトが指摘したように今日ではルネサンスの「個人主義」の声(250)明のように見えるが、しかしポリツィアーノはあらゆる文学的模倣を拒絶したのではなく「キケロばかりを模倣すること」を否定したのだと言うことも付け加えておくべきだろう。 趣味の多様性 ここまでは主としてルネサンス期の一般的な観念的前提、一般的な趣味の言語について述べてきた。大胆に整理すれば、それは美―自然―理性―古代という公式に要約できるだろう。これらの異なる価値は公式が示唆するような具合に互いに整合するものではないが、当時の人々はそれらをしばしば整合的なものとして扱った。とはいっても、この時代に美意識の相違が存在しなかったと言うわけではない。たとえば、すでに触れたように、模倣をめぐっても意見の食い違いが見られたし、単純さについても異なる見方が存在した。重要なことは、この相違が無意識であったと言う以上に強力な共通の観念的前提の枠組みの中で生じたことである。これらの観念的前提は、「見えない障壁」とも言うべき限界を超えて思考することを難しくした。こうした障壁を越えた観念は、当時の多くの人たちにとって明らかにばかげたものと思われたのである。 ……趣味の相違は、諸個人の間に存在した。この相違は諸芸術間にも存在した。ルネサンス期にはまた趣味の変化が(251)みられたし、それはすでに見たように、次第に豊富さへ関心を高め規則の枠に収まらないようになっていった。この節では三つの大きな相違について論ずる、すなわち異なる地方の住民の間の趣味の相違、異なる社会グループの成員間の趣味の相違、そしてルネサンス運動への対立しあう参加者の間での相違である。 第一に地方間の相違。イタリアの諸地方が諸芸術に対してきわめて非均質的な寄与をなしたことはすでに見た。絵画や建築において異なる地方が独自の様式を持っていたこともまた明らかであるが、それはおそらく趣味の相違に対応している。多くの場合、こうした地方的多様性に関する記述史料は欠落しているが、しかし有名な例外がある。フィレンツェとベネチアの趣味的伝統の対立は、ベネチア派の色彩の強調に対してフィレンツェ派の素描の強調と言う形で論争の主題となった。フィレンツェ側の論客ヴァザーリは、ティツィアーノに大きな関心を払ったが、決して彼をミケランジェロと同格の芸術家とは認めようとしなかった。一方、ベネチア側の論客パオロ・ピーノとルドヴィコ・ドルチェは―――前者は『絵画問答』で、後者は『アレティーノ』でこの論争を対話劇に仕立てている―――ティツィアーノの卓越した偉大さを強調した。 第2に、社会グループ間の相違。たとえば、15世紀前半のフィレンツェにおける貴族の趣味と市民の意識を対比させたフレデリック・アンタルは正しかったのだろうか。この場合若し彼が誤っているとしたら、同様の対立はルネサンス期のイタリア全体について立証することが出来るのだろうか。(252)他の時代と同様、ルネサンス期には趣味の言語は、社会的な行為や振る舞いを評価するのに評価するのに用いられた言語と密接な関連を持っていた。デコールム(適正さ、節度)は美的理念であると同時に社会的理念であった。「優雅さ」は芸術作品を記述する言葉として使われる前に人の品行に対して用いられた言葉であり、マニエーラ(様式、作風)という言葉も元来は「美的な様式」というよりは「良き作法」を意味していた。こうした言葉の使用は、われわれが好んで「時代」の趣味と呼ぶものが特定の社会グループによって作り出されたものであること、またそれはしばしば彼らの社会的な先入観をあらわしていることを示している。たとえば上品な文体で書く場合、実用的な言葉を使うことはデコールムに反すると考えられた。なぜなら著者は職人のような低い身分の人たちの実用的な知識を余り見せすぎてはならなかったからである。新しい言葉を使う事も、「新参者」は上流社会から受け入れられていなかったために、デコールムに反するとされた。詩人ヴィーダはこのアナロジーをはっきりと述べている。「いかなる言葉も、それが芽を出した切り株を確かめるまでは、歌に取り入れてはならない」。ベンボの文学的語彙に関する議論は、彼が1960年代の英国で「上流」言葉と「非上流」言葉として知られていた問題に関心を払っていたことを示している。…… (253)当時の理論家によれば、建築や音楽の異なる様式は異なる社会グループに応じたものであった。たとえばフィラレーテは「それぞれの階層の人間」のために大きさも様式も異なる家を設計できると主張した。ニコロ・ヴィチェンティーノは古い音楽を区別して「凡庸な耳」のための大衆の音楽と「教養ある」耳のための私的な音楽の二種類があるとしている。文学においては文体のヒエラルキーは異なる社会グループと関係していた。アリストテレスは『詩学』の中で悲劇は善良な人間を扱い、喜劇は凡庸な人々を扱うと述べたが、ルネサンス期には彼が言及しているのはそれぞれ貴族と平民のことだと考えられた。格闘高い文体で書かれた文学はエリートのためのエリートについての文学であったのである。 美術や文学の趣味への社会的背景の影響は今日でさえ評価するのが難しいが、15,16世紀についてはなおさらである。一般的な不用意な断言を行うことは賢明ではないだろう。もちろんわれわれは人文主義者や貴族がわれわれが「民衆」文化と呼ぶものにも参加した事実を念頭に置かなければならない。ポリツィアーノは俗謡に楽しみを見出したと述べているし、ロレンツォ・デ・メディチはカーニヴァルの歌を書いた。またナポリの人文主義者ジョヴァンニ・ポンターノは広場で大道歌師cantastorieが歌うのを好んで聴いた。アリオストも大道歌師が歌う騎士道物語を楽しみ、彼の『狂乱のオルランド』はこうした民衆的伝統を取り入れている。その逆に、『狂乱のオルランド』は特定の詩章の諸種の行商本を通じてイタリアの民衆文化の中に浸透していった。 (254)これらのことは留意しなければならないが、しかしそれは文学的趣味が読み手や聞き手の属する社会グループによって変化しなかったことを意味してはいない。アリオストは大道歌師を単純に模倣したのではない。彼は伝統的な騎士道物語をふぇららの宮廷と言う彼自身の環境に適合させた。例えば、彼は彼以前の物語作者のテクストには見出せないアイロニーを持って書いている。彼はベンボの勧めを採用することやウェルギリウスの流儀に従って書くことは否定したが、古代の叙事詩に良く通じていた。一方、行商本も単純にアリオストの詩章を再生産していたわけではなかった。それらの多くは原本に変更を加え大幅に単純化した。これらの打たし、作者、出版社はみな彼らの多種多様な聴衆が何を臨んでいたかを良く知っていたと考えて間違いないだろう。蔵書の遺産目録から分かることは、「低俗な」文体で書かれたボッカチオの『デカメロン』は、特にトスカーナ地方で商人やその妻の間に人気があり、ダンテも、ベンボの批判にもかかわらず、同じような人々の間で広く読まれた。他方、ペトラルカの恋愛詩は、イタリア中の貴族の青年や若い婦人によって読まれた。 ……ルネサンスが少数者の運動であったことは今や明らかである。と言うのも、農民を含めた当時のイタリアの人口の大多数は、若し望んだとしても、これらの文化的革新について知る機会を殆ど持っていなかったからである。しかしながら、この運動に参加するために必要な余暇と手段を持っていた少数者にしても、ルネサンスについて同じ考えを持っていたわけではなかっ(255)た。16世紀のオクスフォード辞典から便利な言葉をよみがえらせると、ルネサンス期のイタリアには「ギリシア人」とともに「トロイア人」が存在した。正確に言うと、とりわけ二つの立場からこの時代の文化的革新を嫌悪する人たちが存在した。 この時代の美術や文学を非難する共通の論拠は、それらが不道徳を誘発すると言うものであった。シエナの聖ベルナルディーノは、『デカメロン』が削除を命じられるよりずっと前にそれを非難した人物の一人であった。教皇エウゲニウス4世はパノルミータの『ヘルマフロディテ』を禁書にし、1431年にボローニャとフェララ、ミラノで公開の焚書に処した。サヴォナローラは「処女マリアを売春婦のような身なりで描く」画家を非難している。ヴァザーリに拠れば、フラ・バルトロメオの名で知られる画家バッチョ・デッラ・ポルタは、「男や女の裸の絵を子供のいる家に飾るのは好ましくない」と言うサヴォナローラの説教に心を動かされて、1497年にフィレンツェで行われた有名な「虚飾の償却」でそれらの絵を火に投じたと言う。ミケランジェロの『最後の晩餐』の裸体の上に加筆された腰布についてはすでに触れた。「トロイア人」の存在は忘れてはならないが、しかし残存するルネサンスの裸体画の数はそれらが次第に劣勢化する戦いを戦っていたことを示している。文学への反動の歴史も同様である。転換点は1559年で、この年に教皇パウルス4世は道徳的見地から多数の著名な本を禁書にした。その中にはポッジョ・ブラッチョリーニの笑話集、マズッチョ・サレルニターノの短編集、ルイジ・プルチとフランチェスコ・ベルニの詩、アレティーノの全作品が含まれていた。 (256)芸術への第二の非難は、それらはしばしば異教の神々を主題としており、そのため偶像崇拝に陥っていると言うものであった。厳格なネーデルラント人の教皇ハドリアヌス6世は、前任者の一人がバチカン宮殿に設置した有名な古代のラオコーン像を見て、「古代人の偶像だ」と冷淡に言い放ったと言われる。しかしながら、異教神話を扱ったこの時代の絵画や詩の数は、イタリア人には異教徒だとする結論を正当化してはいない。神話は寓意的な意味を含んでいると広く信じられていた。(256)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)