2009年4月2日木曜日

社会的枠組み(経済)

社会的枠組み(経済) 他のどの地域よりもイタリアでは都市の規模が大きくその数も多かったという事実は、社会構造の中でのさまざまな「中間層」(職人、商人、法律家など)が重要性を持っていた事をよく説明している。…… 都市がひとたび確立されると、その経済政策によって都市は自らの地位を保つ事が出来た。一般に都市はコンタードと呼ばれる周辺の農村を支配し、農村を犠牲にして都市住民に安価な食(364)料を提供する政策を実施した。そうした事情は、例えばパヴィアに関する研究が示している通りである。コンタードは本来課税されるべき額よりも多くの税金を支払うことを強制され、その事は多くの裕福な農民たちが都市に移住する動機となった。都市の市民たちは法的・政治的特権を享受しており、同じ特権は農村住民には認められなかった。16世紀に妊娠した女性たちはコンタードからルッカの町にやってきて子供を生んだ。市の城壁内で生まれたものに対する特権を子供に与えるのがその目的であった。こうした現象をさして「農村は動物の為の場で、都市は人間の為の場」というイタリアの格言が存在したのに驚く事はない。 勿論こうした政策は、どのようにしてさまざまな都市が本来その都市が生まれた場所で発展したのかという事は説明できない。ルネサンス期のイタリアの主要都市の位置は、一部は自然条件が決定し、一部は古代ローマから受け継いだ交通システムにその多くを負っている。ジェノヴァ、ベネチア、リミニ、ペーザロ、ナポリ、パレルモなどは全て臨海都市であるのに対して、ローマやピサは海岸から少し離れた都市である。パヴィアとクレモナはポー川に、ピサとフィレンツェはアルノ川にそれぞれ沿って存在する。ローマ時代に建設されたエミリア街道は、現在も鉄道がそれに沿って走っているが、ピアチェンツァ、パルマ、モデナ、ボローニャ、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、そしてリミニをつないでいる。 こうした有利な条件もそれだけではルネサンス期イタリアの都市の重要性を説明するのにはまだ不十分である。都市に隣接する地域であれ、より遠い地域であれ、都市以外の場所が求めるものに対応(365)して都市は発展するのである。そうした地域の為にサービスを提供することで都市は発展する。工業化以前のヨーロッパではサービスの三つのタイプ、都市の三つのタイプを区別する事が出来る。 第一に商業都市。普通これはベネチアやその好敵手であるジェノヴァのような港湾都市である。両都市がサービスを提供していた後背地はそれぞれヴェネトとリグーリアよりもはるかに広い地域であった。ジェノヴァは13世紀のような強力な商業力をもはや(特にトルコ人たちが国家の貿易拠点カッファを奪って以降)保持していなかったが、穀物と羊毛貿易でのフランス、スペイン、北アメリカとの経済関係ではそれなりの重要性を保っていた。ベネチアの場合、その経済的後背地はヨーロッパ全域であった。というのも、ベネチアの商人達はヨーロッパと東方(アレッポ、アレクサンドリア、ベイルート、カッファ、コンスタンティノープル、ダマスカスなど)との貿易の主たる仲介商人であり、15世紀末にポルトガル人たちが喜望峰周りのルートを利用し始めるまで彼らには強力な競争相手が居なかったのである。15世紀前半には恐らくベネチアは世界最強の商業都市であり、年間1000万ドゥカートに及ぶ商品を輸出していた。ベネチア人たちは木綿・絹・香辛料(胡椒)を輸入し、見返りとして一部は毛織物(イタリア産とイングランド産)、一部はその目的の為に鋳造された銀貨を輸出した。16世紀初頭にはアレクサンドリアからベネチアに毎年250万ポンドの香辛料がもたらされ、商品は別として、30万ドゥカートの銀貨がその代価として支払われた。香辛料はアウグスブルク、ニュルンベルク、ブリュージ(366)ュなどの商人たちに転売された。 第二に、ミラノもしくはフィレンツェのような手工芸・工業都市が存在した。フィレンツェは並外れた工業都市であり、毛織物工業がその中心であった。15世紀後半のフィレンツェを描いた文章によれば、工房の数が毛織物工業では270、木彫りと象嵌細工が84、絹織物工業が83、金細工が74、石材加工が54であった。毛織物工業を通じてフィレンツェ人たちは貿易に関わり始めた。例えばフィレンツェのカリマーラ組合(美術のパトロン)はフランスとフランドルから布地を輸入して、「完成品」に加工(けばを取り、染色するなど)を施した上で再び輸出していた。毛織物工業はミラノでも重要であったが、この都市が最も良く知られていたのは武器製造業をはじめとする金属加工業であった。ジェノヴァの絹織物は国際的な評価を得ていたのに対して、ヴェネツィアはガラス加工や造船業のほか、1490年ころからは印刷業でも有名であった。アルド・マヌツィオは16世紀のベネチアの印刷業者の中でも最も学識が高く、最も有名であったが、彼以外にも大勢の印刷業者が当時のベネチアにはいたのである。 第三のタイプとして、サービス業に依存する都市がある。都市が提供するサービスのうちで最も利益の大きいものは金融業であった。14世紀から16世紀までイタリア人たちはヨーロッパ全体の銀行業を支配していた。一流の銀行としては、フィレンツェのバルディとペルッツィ、メディチ家があり、16(367)世紀末にはジェノヴァのパッラヴィチーニとスピノーラの両銀行がスペインのフェリペ王に巨額の融資をしていた。一国の首都である都市はまた別種のサービスを提供した。例えば、ナポリとローマは役人たちの都市であって、権力の中心であった。ナポリの場合、この都市が提供する判事・弁護士・徴税吏らの「サービス」を受け入れた後背地はナポリ王国全体であり、アルフォンソ・ダラゴーナ王の統治期には彼の地中海帝国全体がナポリの後背地といえたのである。ローマの場合には、後背地は教会国家であることもあるが、幾つかの機能についてはカトリック世界全体が後背地となった。同時代の批判が指摘しているように、ローマは「キリストに関するものを扱う店」であった。ローマの輸出品の中には免罪符や特免状なども含まれていた。この巨大なビジネスにはマネージメントが必要であり、その点で重要な役割を教皇庁つきの銀行家たちが果たした。そうした銀行家の中にはメディチ家やラファエロに与えたパトロネージで最も良く知られているシエナのアゴスティーノ・キージらがいる。 穀物輸入の重要性が拡大してはいたが、入念に作り上げられたこうした都市構造はイタリア農業の基盤の上に成り立っていた。ポー川流域はとりわけ肥沃な土地であり、ヨーロッパの大平原の一つであった。その肥沃さは、部分的には自然(降雨が農業に都合よく配分されている)に、部分的には人間に負っていた。15世紀の100年間にロンバルディアには数本の運河が掘削され、灌漑事業はかつての未開墾地を耕地に変えた。1500年までにパヴィアとクレモナの間の土地の85%は耕地となった。これは沼沢地と森が今よりもはるかに広がっ(368)ていたこの当時としては、極端に高い比率であった。 ポー川流域よりも南では状況はこれよりも厳しいものであった。トスカーナでは山がちの地形が農業には障害となったが、内陸部の河川の流域は肥沃であった。アルノ川流域は小麦、キアーナ川流域はワイン、ムジェッロは果実、ルッカの周辺地域はオリーブの栽培でよく知られていた。しかしながら14-15世紀にトスカーナでは耕地が放棄される例が増え、あわせて村落の10%が消滅した。更に南の地域では、岩の多い地形と栽培期に降る雨の量が少ない事が農耕にとっての障害となり、ナポリ周辺などの豊かな地域を除いては、南部農業は衰退過程にあった。耕地から放牧地への転換が次第に進み、それに伴って人口も減少した。トマス・モアのイングランドと同様に、羊たちが人間を食べていたのである。 イタリアの大きな都市人口を維持する為には、多くの農場主たちが市場向けに生産を行なう事が必要であった。例えばベネチアに自分たちの食料を作らない人間が16万人ほども集中していた事は、ヴェネトだけでなくマントヴァやマルケ、そしておそらくプーリアまでも農業を商業化してしまう結果をもたらした。イタリアの織物工業はロンバルディアでのタイセイの栽培と、トスカーナだけでなくカンパーニャ・ロマーナ(ローマ周辺の平原地域)や南部での羊での飼育を促進した。 イタリア経済についてのこの簡単な紹介は、経済とルネサンスとの関係という問題に対する序論としての意味しかない。……それは「資本主義」経済であったのか。資本主義の定義はこれまで様々に成されてき(369)たが、この生産様式の持つ二つの特徴を強調する事が有益と思われる。第一の点は少数の企業家の手中に資本が集中すること、第2は経済問題に対する合理的劃計画的アプローチが制度化されることである。そしてまた、商業資本主義、金融資本主義、産業資本主義の三つを区別することも有益であろう。 1428年に18万フィオリーノの遺産を残して死んだアヴェラルド・ディ・ビッチ・デ・メディチ(コジモの祖父)のように、この時代の豊かな企業家の華々しい例を見つけるのはそう難しいことではない。企業家たちが急速に資本を蓄積する事が出来たのは、主要産業の労働者たちの多くがもはやかつてのような独立した職人たちではなかったからである。分業が最も高度に発展していた工業は毛織物業であった。羊毛から完成品の布地が作られるまでを、同時代人たちは25もしくはそれ以上の工程に分け、その工程の多くがそれを専門に受け持つ職人を持っていた。フィレンツェではそうした仕事のうち、打毛・刷毛・梳毛の工程は大きな工房で行なわれたが、そうした工房は「工場」とみなしたくなる程の規模を備えており、労働者たちは日給で給料を支払われていた。紡績工程の多くは在宅の女性たちによって担われていたが、彼女たちにしても原料を供給する企業家に従属していた。ジェノヴァとルッカでは絹織物商人たちは原料だけでなく、紡績機や工房までも紡績工たちに貸与し、織布工には織機を貸与した。19世紀の大規模な生産組織と経営者による直接管理と比べると、このシステムは産業資本主義とは非常に異なったものであるが、企業家が中心的役割を果たし間接的手段を通じてかなりの支配力を行使した事ははっきりしている。 (370)イタリアの都市住民たちの数を数えるメンタリティについて……ここで強調すべき事は、そうした考え方を表現すると同時に奨励もする制度が幾つも存在したということである。……この当時銀行業はイタリアの特産品ともいえるものであった。銀行以外には公益質店があった。これは15世紀後半に教会の奨励で普及した制度であるがこうした質店は金を借りることも貸すこともあり、その場合には定率の理想を支払う事になっていた。公益質店は公債Monte communeをモデルとして作られた。公債制度は14世紀半ばにフィレンツェで設置され、市民を国家に対する投資者とする制度であった。フィレンツェには「婚資基金」制度まで存在した。これは投資者が娘の結婚時に利息とともに投資金を受け取る制度であった。商業会社も存在し、経営に関わることなくそうした会社に投資し、会社が倒産した場合には有限の責任しか負わないことも可能であった。船舶を失う可能性に対して保険をかけることも可能であった。ベネチアはこうした海事保険の大きな中心地であった。一方ジェノヴァでは夫が出産する妻に保険をかけることも出来た。 多くの面で経済体制は伝統的なものにとどまっていた。工業生産と商取引に於ては小規模な工房と家族経営が最も普遍的な形態であった。多くの小作農達は現物で地代を支払っていた。だが、イタリアでは新しい組織形態が並外れて発達していた。中でもフィレンツェ、ローマ、ベネチアといった大都市でそうした現象が見られ、ルネサンスとわれわれが呼ぶことの多くがそこでおきたの(371)である。経済状況と文化状況(特に物質的文化、視覚芸術)との間をつなぐものを探求する事は当然必要である。 そうしたつながりは容易に見つける事が出来るが、あまりにも狭い定義……でそれを叙述するのは容易ではない。細かな点から問題を取り上げると、しばしば芸術が交易ルートをたどって移動するという事が分かっている。ベネチアは中部ヨーロッパに香辛料と同じように芸術作品と芸術家を輸出した。例えばティツィアーノやパリス・ボルドーネはアウグスブルクへ、ヤコポ・デ・バルバリはニュルンベルクへ行っている(デューラーがニュルンベルクからベネチアへ来たのと同じである)。……現在ウフィツィ美術館に所蔵されている有名なポルティナーリ家の祭壇画は、メディチ銀行のブリュージュ支店の支配人によってフィレンツェにもたらされた。 この種の正確な情報はそれ自体興味深いものではあるが、ルネサンスの歴史的説明―――なぜその運動がこの時代にこの特定の社会で生じたのか―――にはそれほどつながらない。富が鍵となる要因であ(372)ろうか、それを購えたからイタリアはルネサンスを持ちえたのか。ここでの問題は時期的な不一致である。1348-49年の破壊的なペストの大流行に続いて経済的後退が起き、そこからの回復は緩慢であった。既に見たように、経済史家ロベルト・ロペスは、この景気後退がルネサンスの為に必要であり、利益の見込める投資先が通常よりも少ないときには、商人達は美術品に投資したと論じた。「不況期と文化への投資」である。しかしながら、パトロネージの研究によれば、商人達が美術品を注文するとき、それを投資の見地から考えていたのではなく、信仰や威信あるいは楽しみの見地から考えていたのである。 経済的諸傾向と文化的諸傾向の間に社会的要因―――生活様式―――を挟み込む必要がある。15-16世紀にフィレンツェとベネチアの人々は虚勢の乱費conspicuous consumptionに対しては以前よりも高い価値を与えるようになった。生活様式におけるこの変化自体が経済的見地から説明できるといえるかもしれない。また企業家から地代生活者への変化は経済後退への適応であって、「不況期と商売への軽蔑」という場合、一種の負け惜しみ現象とも言える。イタリアの経済構造が奢侈品市場の発展に普通以上に有利であったことも言われている。その原因としては富が蓄積されていたことだけでなく、都市消費者の常に変化する集団の間でその富が広く分配されていた事が挙げられる。 このような時代状況の中でステイタスを求める競争が盛んになり、その結果ある家を他の家々から際立たせる為に壮麗な建物を建設する事が一つの戦略となったのである。宗教画像に対するパトロネージの基礎となった信仰心や私的なコレクションの喜びといったものを無視して、ルネサンス(373)美術を単なるステイタス・シンボルの一そろいとして扱うことは非歴史的といえよう。だが当時の美術を人目を引くための消費と全く関係が無いものとして扱うのも同じように非歴史的であろう。そうした消費がどの程度芸術と関係したかは時代によって変化する。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)