パトロン対芸術家(158) この章で論じるのはパトロンと芸術家の関係、つまり彼らの協力関係と衝突、パトロンと芸術家がそれぞれの立場から相手に抱く期待、とりわけ特定の絵画や彫刻作品に対してパトロンやその助言者が及ぼす影響力の範囲の問題である。 美術家はどのようにしてパトロンや注文主を見つけ、又パトロンはどのようにして美術かを獲得したのだろうか。美術家は懸案中の計画を聞きつけると、直接ないしは仲介者を通してパトロンに接近した。例えば1438年に画家ドメニコ・ヴェネツィアーノはピエロ・デ・メディチに次のような手紙を送っている―――「私はコジモ殿(ピエロの父)が祭壇画を描かせる事を決め、しかも立派な作品を望んでおられる事を耳にしました。これは私にとって大変うれしいことですし、若しあなた様の仲(159)介で私がそれを描く事が出来れば、こんなにうれしい事はありません」。 1474年、ミラノ公がパヴィアで僧院内の礼拝堂を絵画で装飾させたいと考えているといううわさがミラノに広まった。このとき、公の代理人は「上手いのも下手なのも、あらゆるミラノの画家達が、われこそはと制作を願い出て、私は全く困り果てました」と描いている。1488年にアルヴィーゼ・ヴィヴァリーニは、ベッリーニ兄弟が制作していたヴェネツィアの政庁宮殿の大評議会広間で自分にも何か描かせて欲しい、と統領dojeに請願を出した。1515年にはティツィアーノも同様の要求を行っている。 これらの場合にも、他の多くの事柄と同様、交友関係が多かれ少なかれ大きな意味を持った。芸術パトロネージも、第9章で論じる広い意味でのパトロン=被保護者システムの一部をなしていたのである。友人や縁故関係の重要性は16世紀の二人のトスカーナの美術家、ジョルジョ・ヴァザーリとバッチョ・バンディネッリの経歴を見れば良く分かる。ヴァザーリがイッポリトおよびアレッサンドロ・デ・メディチのために仕事するようになったのは,彼がこの二人の後援者であった枢機卿シルヴィオ・パッセリーニの遠い親戚であったためである。前述したようにアレッサンドロ公の死によって彼の希望は一度は「吹き飛んでしまった」が、その後ヴァザーリはその後継者のコジモに恒久的に使える事が出来た。バンディネッリも、彼の父親が1494年のメディチ家のフィレンツェ追放以前に同家のために仕事していた関係で、メディチ家と家族的なつながりを持っていた。1513年の(161)メディチ家の復権後、バッチョは、ジョヴァンニ(この直後に教皇レオ10世となる)およびジュリアーノ兄弟に贈り物を贈って接近し、見返りとして仕事の注文を受けた。バンディネッリは、教皇クレメンス7世となるジュリオ・デ・メディチのためにも仕事している。彼は両メディチ教皇の墓碑政策の委嘱を期待し、この目的のためにサルヴィアーティ枢機卿のもとに足繁く通ったためスパイと間違えられ、危うく暗殺されそうになった。 パトロンがどのようにして特定の美術家を選んだのかを知る事は用意では無い。美術に疎いパトロンは、コジモ・デ・メディチやその孫のロレンツォ・イル・マニフィコのような人物に助言を求めることもあった。例えば、カラブリアのアルフォンソ公に彫刻家ジュリアーノ・ダ・マイアーノを推薦したのはロレンツォである。君主達は、スフォルツァ家治下のミラノに置けるように、宮廷の管理のような仲介者を通じて美術家に仕事を依頼することもあった。仕事を希望する美術家が競合した場合、制作量が安くて済むほうを選ぶパトロンも居れば、様式的理由で選択するパトロンもあった。ミラノ公の代理人は、前述のパヴィアの礼拝堂装飾の際に、200ドゥカートを要求する芸術家よりも150ドゥカートで請け負う芸術家のほうを選んだ。しかし、その200年後の新しいミラノ公ロドヴィーコ・スフォルツァにあてた代理人の書簡草稿からは,彼がボッティチェリ、フィチッピーノ・リッピ、ペルジーノ、ギルランダイオを様式的基準に基づいて識別しようとしていた事が分かる。 制作委嘱のための正式なコンクールも、とりわけフィレンツェやヴェネツィアでは良く行われた(162)が、この二つの都市が商人の共和国である事を考えれば驚くことは無い。これらのコンクールのうち最も有名なのは、言うまでも無く1400年のフィレンツェの洗礼堂門扉のコンクール(この時はギベルティがブルネレスキに勝利した)とフィレンツェ大聖堂の大円蓋のコンクール(この時はブルネレスキが勝利)であるが、他にも多くの例がある。例えば、1477年に、ヴェロッキオは枢機卿フォルテグエッリの墓碑委嘱のコンクールでピエロ・ポッライウォーロに勝っている。…… これまでパトロンと美術家の関係について述べてきたので、今度は完成された作品に対して彼らがどのような影響を及ぼしたのかを見てみよう。当時の記録からはパトロンの影響力がかなりの重要性を持っていた事が分かる。「この作品を作れりfecit」という言葉は、中世におけると同様に、引き続きパトロンに関して使われた。…… パトロンと芸術家の相互のかかわり、それぞれの側からの期待についていっそう正確な証拠を提供してくれるのは、残存する契約書である。契約書の内容は六つの項目に関わっている。 一番目は材料である。この問題が重要なのは、絵画に使われる金やラピス・ラズリ、彫刻用のブロンズや大理石が高価に付いたためである。パトロンが材料を提供する場合もあったし、美術家が用意する場合もあった。契約書にはしばしば、使用する材料は良質のものであるべし、と明記されている。アンドレア・デル・サルトのある聖母子画の契約書では、少なくとも5フィオリーノ分の青を使う事が記されているし、ミケランジェロは1501年に着手した有名な『ピエタ』像の契約書では「新しく、純正で真っ白な、筋目の無いカッラーラ産大理石」を使う事を約束している。材料の重視は、顧客が何を買おうとしているかについて手がかりを与えてくれる。レオナルドは『岩窟の聖母』の契約書で作品二十年間の保証を与えている。つまり、若しこの期間に加筆の必要が生じた場合には、画家の負担において行うというものである。しかしレオナルドが、例のぼろぼろ(164)に剥落した『最後の晩餐』の契約の際に同様の保証を与えたかどうかは知られていない。 二番目は、作品の価格の問題で、これには通貨の種別(ドゥカート銀貨、教皇ドゥカートなど)の問題も含まれていた。代金は作品の完成時に支払われることもあれば、制作の進捗に応じて分割払いにされることもあった。いずれの場合にも、価格が前もって決められることは無かったらしい。美術家がパトロンの最良で決めた値段を進んで受け入れた場合もあれば、両者の折り合いがつかないときには、作品の評価を他の美術家にゆだねることもあった。物品による支払いが含まれることもあった。オルヴィエート大聖堂の壁画のためにシニョレッリが結んだ契約書には、一定の金額のほかに、彼に金と青の絵の具、住居とベッドを与える事が記されている。その後の交渉の末、彼は二台のベッドを獲得する事に成功している。 第3は、制作起源の問題である。作品引渡しの期限が漠然としている場合と正確に決められている場合、又美術家が約束を守らない場合に罰則がある場合と無い場合があった。ヴェネツィア国家のジョヴァンニ・ベッリーニへの発注書は「出来るだけ早く」絵を完成するように言明している。1529年のベッカフーミの契約書では,制作期間として「一年、もしくは最大18ヶ月」が与えられている。期限に厳しく、督促の煩い注文主も居た。……(165)四番目は作品の大きさの問題である。作品の大きさが明記されていない場合が驚くほど多いのは、寸法の測定についての16世紀のあいまいさを示しているのであろうが、しかし多くの場合、フレスコ画は特定の壁面に描かれ、彫像は注文主が所有している大理石のブロックから彫られ、特定の壁に設置されたのだから、正確な大きさを記すことは不必要だったのであろう。しかし1514年にミケランジェロが『十字架を持つキリスト』のために交わした契約書では「等身大の」と記されている。…… (166)五番目は、助手の問題。ある種の契約書は美術家個人という世あり美術家集団との間に交わされた。助手の名が挙げられている場合もあるが、これはかっらへの支払いの責任を明確にするためであった。又署名した美術家が作品の全部或いは一部を自らの手で制作する事を明記した契約書もある。例えばラファエッロは祭壇画『聖母戴冠』の契約書で、人物を自分自身の手で描く事を約束している。ペルジーノとシニョレッリは、しかし、オルヴィエート大聖堂のフレスコ画において,人物の「腰から上」だけを描く事を約束している。 最後の問題は、我々にとってもっとも重要な、実際に描かれた主題の問題であるが、契約書自体における記述があいまいなために最後まで難問として残されている。主題が細部まで言葉によって明記されることもあったが、多くの場合にはかなり簡単に記されるだけであった。すでに触れたサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のフレスコ画の契約書で、ジョヴァンニ・トルナブオーニはドメニコ・ギルランダイオに細目に渡って主題の指示を与えている。ドメニコとその助手が礼拝堂の右壁に描くべき主題はマリアの生涯の特定の七つの場面であり、彼らは「前記の全ての場面に……注文者が望むように、人物、建物、城、町、山、丘、平原、岸壁、衣装、動物、鳥、家畜……を、絵の具の価格が常軌を逸しない限りsecundum tamen taxationem colorum描くこと」と定められている。 より一般的な契約書の形式は図像の要点をごく簡略に述べると言うものである。時には正式なラテン語でこうした要点を記述する事でさえ公証人にとっては荷が重すぎたと見え、記録が突然イタリア語に変わる例もある。ギルランダイオの壁画の契約書には「俗語で述べられているとおりにフレスコ(167)で描かれるべしut vulgariter dicitur, posti in fresco」と述べられている。1429年のロレートのある教会堂の契約書では「慣習にのっとりsecondo l’usanza子をひざに抱いた」聖母を描く事と、画家に伝統の遵守を驚くほどはっきり求めている。もっと簡単にスケッチや着彩下絵、雛形に言及するだけのものもあった。…… こうした記述や下図に加えて、美術家の自由裁量や、さらに多くの場合パトロンの要求に関してはっきり言及した例もかなり見られる。コスメ・トゥーラがフェラーラ公とベルリグァルド礼拝堂の装飾に関して結んだ契約には、「殿下を最も喜ばせる物語画で」と書かれている。……(168)イザベッラ・デステはペルジーノに前述の委嘱を行った際、彼に自由裁量の余地を僅かに与えている―――「もしあなたが一枚の絵として人物が多すぎると思うのなら、お好きなように人物を減らしてもかまいません。ただし四人の主要な人物、パラス、ディアナ、ウェヌス、アモルを除いて……。しかしそれ以外の人物は決して加えないように」。一方、ミケランジェロは、時代は下るとは言えまだ例外的なケースとして、自分の思うがままに制作する自由を与えられていたらしい。…… 契約書は、確かに芸術家と注文主の関係についての貴重な証言であるが、両者の関係の全てを語っているわけではない。契約書は計画の意図についての証言を提供してくれるが、歴史家は、計画が興味深ければ深いほど、制作が計画通りに進んだのかどうかを知りたくなる。幾つかの場合には計画通りに進まなかった。例えばアンドレア・デル・サルトの『ハルピュイアの聖母』の場合には、契約書も作品も両方残っているが、しかし両者の間には重大な食い違いが見られる。契約書は二人(169)の天使に言及しているのに、完成された作品には描かれていない。又契約書には福音書記者聖ヨハネとあるのに、完成画では聖フランチェスコに変えられている。こうした変更については注文主との間にやり取りがあったと思われるが、実情は分からない。しかしことは、ある種の文書記録はあまり額面どおり受け取ってはならないと言う事を警告している。この時代の芸術家とパトロンとの間の真の力関係を見出す最も有効な方法は、彼らの間の公然たる衝突、つまり両者の関係に内在していた緊張が表面化した衝突を研究することである。これらの衝突に関する記録は断片的なものであるが、凡その見取り図は描く事が出来よう。 当時の芸術家とパトロンとの間の衝突には二つの理由があった。第1は、それ程詳しく述べる必要もないが、金銭の問題である。これは社会的地位の高い顧客に彼らが支払うべきものを支払わせると言う一般的問題の特殊例である。マンテーナとポリツィアーノとジョスカン・デ・プレはそれぞれ絵と詩と音楽によってパトロン達に彼らの責務を思い起こさせようとしたと言われる。 衝突の第二の理由は作品そのものに関わるもので、それは当時の文化と社会との関係についてずっと多くの事を明らかにしてくれる。芸術家がパトロンの計画を気に入らなかったり、パトロンが完成された作品に不満であった場合には、何が起こったのだろうか。ここにいくつかの例がある。1436年にフィレンツェの大聖堂造営局はパオロ・ウッチェロに、大聖堂の側壁に傭兵隊長ジョン・ホークウッドの騎馬像を描くよう注文したが、その一ヵ月後には「それが注文どおりに描かれていない」quia non est pictus ut decetという理由で取り壊すよう命じている。ウッチェロは一体どんな遠近(170)法の実験をしようとしていたのだろうか。ピエロ・デ・メディチがベノッツォ・ゴッツォリの壁画中に描かれた小さなセラフィムに文句をつけたとき、ゴッツォリは「あなたがお命じになるように直しましょう」と書いている。 しかし一方、両者の衝突は折り合いのつかないこともあった。ヴァザーリは、ピエロ・ディ・コジモがフィレンツェの孤児養育院のために祭壇画を描いたときの話を伝えている。注文者の院長が絵が完成する前に見たいと求めたが、ピエロは拒絶した。そこで注文者が支払いをしないと脅かすと、画家のほうも絵を壊してしまうとやり返した、と言うのである。何者も逆らえない権力者であった教皇ユリウス2世と頑固者のミケランジェロの間でも、システィーナ天井画をめぐって衝突が起こった。ミケランジェロは天井がが完成する前にひそかにローマを去り、フィレンツェに戻ってしまうが、ヴァザーリはミケランジェロの出奔の理由を、「彼が仕事の進行振りを決して見せようとしない事に教皇が腹を立てたこと、またミケランジェロが自分の助手達に不信を抱き、教皇自身が……変装して仕事の様子を見に来るのでは無いかと疑ったため」と説明している。なぜピエロ・ディ・コジモやミケランジェロは作品を完成前に見られるのを嫌がったのであろうか。今日でもある種の芸術家は製作中に素人から肩越しに見られる事を嫌うが、当時の場合には何かしらそれ以上の理由があったはずである。恐らく芸術家は注文主の要求どおりに主題を扱いたくなかったのであろう。完成させるまで作品を注文主に見せないで置けば、注文主はそれを「既成事実」として受け入れ、描きなおしを要求す(171)ることもない、というのが彼等の戦術だったらしい。システィーナ天井画の場合も、ユリウス2世は完成まで長い間待たねばならなかった。 ジョヴァンニ・ベッリーニも他人の意思には容易に従わない画家であった。人文主義者ピエトロ・ベンボは、彼は「自分の描き方に多くの制限がつけられない事を望み,彼自身言っている様に、絵の中を思うがままに漂うのを常とした」と述べている。イザベラ・デステはその書斎のために彼に一枚の神話画を注文した。ベッリーニは神話画を描く事に乗り気ではなかったが、委嘱を失いたくも無かったので、引き延ばし作戦に出ながら、いざべっらが彼との交渉に使った代理人を通じて、別の主題ならそれ程時間が掛からずに仕上げられる、とほのめかした。代理人の一人が「若し妃殿下のために快く仕事するものと確信いたします」と書き送ると、イザベラはここが体面良く折れる頃合と悟り、次のように答えた。「もしジョヴァンニ・ベッリーニが,貴殿がかかれたように、かの物語画を描くのを渋っているのであれば、彼が何らかの物語か古代説話を描くと言う条件で、主題は彼の判断に任せる事にいたします」。実際には、ベッリーニは彼女をさらに妥協させる事に成功し、結局イザベラが受け取ったのはキリストの降誕の絵であった。 この最後の場合、事件の歴史は我々を社会構造の歴史へと導く。ベッリーニが工房を経営していたこと、又彼がヴェネツィアに住んでおり、一方イザベラがマントヴァにいた事が、恐ら(172)く彼に自分の思い通りに振舞う事を許したのであろう。若し彼が宮廷つきの画家であったなら、衝突の結果は全く違ったものになっていたと思われる。イザベラはこの事件から教訓を得たらしく、それから程なくロレンツォ・コスタを恒久的な宮廷画家として雇い上げる事になった。 これらの衝突の例は最も有名で記録も良く残っている例であり、これらの例だけで一般化するには不十分である。しかしこの時代のパトロンと芸術家の力関係が次第に芸術家に有利に変化しつつあり、その結果いっそう大きな様式上の個人主義が進みつつあった事を示す証拠は、他にも存在する。芸術家の立場が強くなるに連れて、パトロンも余り多くの要求をしないようになった。レオナルドに対して、イザベラ・デステははじめから譲歩している。「主題も時期もあなたにお任せいたします」。詩人アンニーバレ・カーロがヴァザーリに宛てた有名な手紙では,詩人と画家の役割を比較しながら画家の自由を認めている。「詩人も画家も他人の構想を扱うよりは自分自身の着想や構想を扱うほうがずっと愛情を込めて熱心に制作するという事を念頭において……主題構想invenzioneについてはあなたに一任します」。とはいっても、こうしたお世辞の後には、やれアドニスの衣は紫色でとか、やれウェヌスに抱きつかれた姿でとかいうかなり細かい指示が続くのである。 カーロはまたカプラローラのファルネーゼ邸の室内装飾のために詳細な装飾プログラムを作成している。彼は、いわば人文主義者の助言者、パトロンと美術家の間の知的仲介者だったのである。人文主義者=助言者と言う仮説は、アビ・ヴァールブルクがボッティチェリの神話画を論じる際―――この場合はポリツィアーノであったが―――提出したものである。すでに見たように、美術家は一般に古典教育を欠いていたので、古代の歴史や神話の場面を描く際には助言を必要としたに違いない。事実、こうした助言が与えられた証拠が幾つか残っている。 もっとも初期のものとして知られる例では、主題は古代神話ではなく聖書のそれであった。すなわたい1424年に、フィレンツェのカリマーラ組合は人文主義者のレオナルド・ブルーにに、フィレンツェ洗礼堂第3門扉「天国の門」のための図像プログラムの作成を依頼した。ブルーニは旧約聖書から20場面を選択した。しかし、彫刻家のギベルティは、その回想にあるように白紙委任を望んだため、ブルーニのプログラムは踏襲されず、門扉には結局10場面のみが表された。 フェラーラでは15世紀中ごろ、人文主義者グァリーノ・ダ・ヴェローナがレオネッロ・デステ侯爵のために女神ムーサイの寓意画のプログラムを提案している。同じ世紀の末、同宮廷の司書であったペッレグリーノ・プリシャーニは、フランチェスコ・デル・コッサによって描かれる、フェラーラのスキファノイア宮殿の有名な占星学的主題の壁画のプログラムに携わっている。15世紀後半のメディチ家のサークルでは、その意味をめぐっていまだに学者の意見が対立しているボッティチェリの『春』の図像プログラムについて、二人の人文主義者―――ポリツィアーノとフィチーノ―――の助言があった(174)といわれているが,直接の証拠は残っていない。若いミケランジェロは、弟子のコンディヴィに寄れば、浮き彫り『ケンタウロスの戦い』をポリツィアーノの教えどおりに造った。「彼はその神話をはじめから終わりまでつぶさに説明してくれた」。 16世紀はじめのマントヴァの宮廷でも、人文主義者が助言者として活動した確実な証拠が残っている。イザベラ・デステが、彼女の書斎とグロットのために一連の異教的な「空想的寓意画」を計画したと(175)き、彼女が助言を求めたのは人文主義者のピエトロ・ベンボとパリーデ・ダ・チェレサーラであった。すでに見たように、イザベラがペルジーノに注文した『愛と貞節の戦い』のためのプログラムを用意したのはこのパリーデであった。 この種の例を付け加える事に、特に16世紀においては難しい事では無い。例えばポッジョ・ア・カイアーノのメディチ荘の装飾プランに携わった人文主義者の司教パオロ・ジョーヴィオやすでに触れたカプラローラのファルネーゼ邸のために装飾プログラムを考えた詩人アンニーバレ・カーロの例がすぐに思い起こされる。古典学者や神学者達は、芸術家に求められようとパトロンに求められようと、又自分達の助言がまともに取り上げられようと取り上げられまいと、絵画や彫刻の図像プログラムの計画に熱心に取り組んだ。彼らは、工房の伝統の中で美術かが教育を受けていない古典神話や古代歴史に関して、美術家の緊急の要請に応じて彼らを助けたのである。(175)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)