2009年4月5日日曜日

Grund 4. Aristoteles in R

アリストテレス主義の伝統における統一性と多様性(62) 中世からルネサンス期へ伝えられたアリストテレス主義哲学は、知的確信が強力な時代に大学で作られた、明確に定義され明瞭に組織されている体系だった。批判者がその中に弱点や不整合を発見すると、スコラ学者は新しい解決法と巧みな議論を持って精力的に応じた。こうして、14世紀後半までには、内的諸問題の多くは<哲学者>自身が提供したものよりも中世の思想化にとって説得的な解答を与えられていた。20世紀の視点からは、中世のアリストテレス主義者が本来の「文書」を元に大きな前進を遂げた哲学の主要な区分として、間違いなく論理学が筆頭に挙げられるだろう。ペトルス・ヒスパヌスの『論理学綱要』―――16世紀初頭にも依然として入門的な学芸科目カリキュラムを支配していた13世紀の初級教科書―――は、少年に論理学を教えるために書かれたものだが、<オルガノン>のどの部分よりもうまく量化の問題を扱っている。この種の技術的進歩は、中世の論理学者をフレーゲ以後の時代の同業者に親しみを覚えさせる存在にしてきたが、内的観点からは、スコラ学の最大の勝利は、もちろんアリストテレス主義の伝統のキリスト教化だった。もっとも偉大なスコラ学者アクイナスは偉大な論理学者ではなかったが、彼が作り上げた哲学的神学は、異教徒のアリストテレスをキリスト教会に奉仕させた。これは、異教的過去の英知を回復すると同時に浄化する必要を強く感じていた文化にとって、計り知れない価値のある贈り物だった。中世のアリストテレス主義者は、自然哲学の状態もやはり改善した。例を一つだけ挙げるなら、 投射運動に関するアリストテレスの信じがたい説明は、明晰さと一般的経験への合致において『自然学』の学説を大いに改善するとともに17世紀における力学の発展へと向かう、新しい分析に席を譲った。さらに、14世紀のパリとオクスフォードの学匠は、アリストテレスが嫌悪を抱いていたことがよく知られていた物理的量の諸問題を取り扱うための新たな方法を提唱した。このように、アリストテレス主義が大学に君臨し、(63)黒死病に続く年月にヨーロッパの隅々にまで広がっていった時代においては、それは、その整合性が変化を許容する、いまだ生長過程にある有機体だったのである。この体系は、ルネサンス期の文化の新たな状況が彼らの信念と実践とをさらに変化させるようアリストテレス主義者に求めた15世紀初めになっても、依然として柔軟性を保っていた。 新たなエネルギーと厄介な朝鮮のとりわけ生気にあふれる源泉が人文主義であり、人文主義がこの時代のアリストテレス主義の性格に及ぼした影響は、(人文主義者がこぞってアリストテレスを捨ててプラトンについたという一般的な見方とは逆に)巨大なものだった。ある観念の古さこそがその価値を表す指標に他ならないという前提に立って、人文主義者は、古代それ自体―――その全体―――を、文化的優越性の地位にまで持ち上げた。そうしたわけで、プラトンは新奇なためにさまざまな方面でもてはやされはしたが、人文主義者の方法論やイデオロギーには、プラトンや誰かほかの古代の哲学者をもっぱら支持するというところはなかったのである。哲学に関心のある人文主義者は、プラトン主義とアリストテレス主義だけでなく、懐疑主義やストア主義の立場をも採用した。そして、アリストテレスの著作は数が多く大きな影響力を持っていたため、15世紀初め以降の人文主義者は、アリストテレス主義のテクストをより明瞭に、正確に、読みやすくするのに多大な時間と精力を傾けた。特に重要なのが、アリストテレスとその古代の注解者のよりよいラテン語訳を生み出すための努力だった。レオナルド・ブルーニが15世紀にアリストテレスの古典主義化に着手し、この作業は、人文主義の中心的課題として、1597年にイザーク・カゾボンのアリストテレス全集を改訂したジューリオ・パーチェの時代以降まで続けられた。この2世紀の間に、いかにしてアリストテレスにより良いラテン語を話させるか、またそうするべきかどうかについて、学者は頻々と議論を戦わせた。ある人々は、ローマの雄弁の至上の模範として広く認められていたキケロを忠実に模倣するラテン語訳アリストテレスを求めた。また他の人々は、古代の遺産の上に築かれた哲学的進歩として中世の用語と概念とを尊重していたために、スコラ学の言語のほうにより多くの有用さを見出した。16世紀の終わりまでに妥協が出現し、新しい文献学的方法を伝統的な哲学の要求に適用して、古代における本来の語法に留意しつ(64)つなお哲学的必要にも配慮した、ギリシア語原文に忠実なラテン語にアリストテレスの本文を翻訳する試みがなされた。哲学のために用いる翻訳の多くは、それだけで読むためにかかれた独立したテクストではなかった。それらは、……向かい合ったページのギリシア語に対応するよう配置されていたのである。より広範なギリシア語研究の進歩を背景にした対訳版テクストが出版されると、アリストテレスの時としてなぞめいた言語の意味を解明し、難読箇所をテクストのより大きな文脈において文意を通じさせることがより容易になった。「アリストテレスの真正な思想」とは何かという問題はいまだに捉えがたく、耐えざる論議の的だが、人文主義者たちはルネサンス期において哲学をこの至福の状態に近づけるのに貢献したのである。 16世紀の間に、アリストテレスへの人文主義的アプローチは徐々に伝統的なスコラ学的方法と融合していったが、もっとも、融合が両者の緊張関係をすべて取り除いたわけではない。しかしながら、大学で何らかの役割を果たしていた少数の人文主義者も哲学教授を務めることはまれだった15世紀には、対立はいっそう激しかった。しかし、人文主義者は、最終的により堅固な地歩を大学の中に確立した。1497年に、パドヴァ大学は、ギリシア語でアリストテレスを教える講座を創設したが、ただし、この初期の段階においては、その機会を利用することのできる学生はほんの一握りしかいなかった。その50年後、ギリシア語による哲学教育は、いくつかの場所、とりわけパリの<王立学院>でより大きな効力を発揮するようになった。スコラ学の賀状であるパリの出版業者は、学生用にアリストテレスの安価なギリシア語刊本を多数印刷した。学生の書き込みが、現存するこのルネサンス期のペーパーバック版学術書の余白や見返しをしばしば埋めている。印刷術発明後の数十年間にパリで出版されたより上級のアリストテレス研究書も、やはり人文主義とその新しいギリシア語の知識からの影響を示している。この新規な流行が広まるに連れて、16世紀後半のイタリアの因習的な注解者でさえ、自分たちの注解の中にギリシア語の語句や文献学的注釈をちりばめるようになった。とはいえ、その同僚には完全に中世的な流儀で哲学を論じる事に固執した人々もいた。ある学者たちは、14世紀以降に著された書物につい(65)ては講義を全く行わず、人文主義的なテクストや技術を一切利用しなかった。人文主義は、ルネサンス期においてスコラ学との戦闘のすべてに勝利を収めたわけではなかったし、哲学者の間でも、二つの運動の継続する競い合いに完全かつ包括的な解決が与えられたわけではなかった。 現在伝存する「アリストテレス文書」のほぼすべてが13世紀末までには利用できるようになっていたが、15世紀初めまでに、人文主義者による古代文献の探索が、この<哲学者>の名を冠した、二編の重要な、しかしそれまではほとんど知られていなかった著作を発掘した―――つまり『力学』と『詩学』である。これらの短い論考はどちらも、その後アリストテレスの論理学以外の著作の印刷刊本の伝統を形成するのに貢献する事になる重要なギリシア語写本の一部として、ベッサリオン枢機卿のために1457年に筆写された。現代の大部分の研究者は『力学』(または『力学問題集』)は偽作で、おそらくはアリストテレスの死後まもなく弟子の一人が書いたと考えている。この作品は、アリストテレスに帰されている文献の中で独特の地位を占めている。というのは、記述の中心が単純な機械であって、まれな事に、滑車、歯車、てこのような機械的効用を生み出す仕掛けについての古代人の思考を垣間見せてくれるからである。実際のところ、『力学』は古代から伝わる最先端の科学技術論考の一つだが、15世紀初めにイタリアでギリシア語の一写本が現れるまで、西ヨーロッパでこれが知られていたという確固たる証拠はない。その後のほぼ百年間、この書物の読者は、主として、その内容にはほとんど関心のない人文主義者の写字生や学者だったが、16世紀が幕を開けると、アルド版アリストテレス全集(1495-98)の中でこれがギリシア語で最初に印刷されるとともに、研究者がより仔細に『力学』を検討し始め、改良された刊本、ラテン語訳、俗語訳、注解への需要を作り出して、この著作がより広範な読者の手に届くようにした。ヴィットーレ・ファウストによる最初のラテン語訳『力学』の8年後に現れたにもかかわらず、ニッコロ・レオニコ・トメオの1525年のラテン語訳がとりわけ大きな影響を及ぼした。大学の内でも外でも、数学者や技師がこの書物の研究と理論的・実際的な諸問題への応用を始めた。パドヴァ大学では、1548年から1610年まで数(66)学教授が『力学』について講義を行った。この系譜に連なる最後の人物は、1592年から1610年にパドヴァで教えたガリレオ・ガリレイだった。ガリレオの『力学』仲介は散逸したが、この古代の論考が与えた刻印は、この偉大な科学者のもっとも多産な時期における仕事にはっきり見て取ることができる。ガリレオの新しい物理学は『力学』にあらわされたこの分野の知見をはるかに凌駕したが、それでも、アリストテレスに関わる事柄を軽蔑していたとはいえ、ガリレオは、この古代の著作を有益だと考え、頻繁にこれに言及し、そこから豊かな着想を引き出した。『力学』を賞賛したのはガリレオばかりではなかった。それを利用した力学・応用数学の権威はほかにも大勢いたのである。 アリストテレスの著作の中で『詩学』ほど『力学』に似ていないものはほかにない。『詩学』は、後者とほぼ同じ時期にヨーロッパ人の意識のうちに入ったが、それが与えた影響はよりいっそう劇的なものだった。中世にはほぼ未知であり、ムールベケのグイレルムスによる翻訳の少数の写本をアヴェロエスのパラフレーズだけが補完するという状況の後で、このアリストテレスの原典の真正な断片は15世紀中葉までに関心を引き始めたが、1508年のアルド版『ギリシア修辞学者集成』にいたるまで出版されなかった。ロレンツォ・ヴァッら(おそらく)、アンジェロ・ポリツィアーノ、エルモラオ・バルバロが『詩学』を読んでおり、その後、1498年にジョルジョ・ヴァッラの欠陥のある翻訳、これに取って代わるアレッサンドロ・パッツィによる1536年の翻訳が続いた。一旦入手可能になると、その衝撃は驚くべきものだった。部分的状態にあるにもかかわらず、『詩学』は、文学理論・批評に関する古典期から伝存する最も包括的な書物であり、すぐに文芸論議を支配するようになった。『詩学』にはアリストテレスの権威と言う刻印があるので、現代の研究者がこの著作の再登場をルネサンス期における文学理論の展開上の鍵となる事件と考えるのも不思議ではないし、これがついにはホラティウスの『詩論』を抜いて、コールリッジとロマン主義者の時代に至るまで文学論を支配したことも当然だった。近代初期の学者は、頻繁かつ長々と『詩学』に注解を施したが、彼らがホラティウスの作った批評的枠組みから徐々にこれをはずしていったのは16世紀後半になってからだったし、学者たちは、詩作について書かれたこれら二つの著(67)作を、まるでそれらの対象が修辞学であるかのような仕方で読み続けた。この著作の主題は哲学者の好みに合うものではなかったが、『詩学』は、文学的な構造・ジャンル・質の問題を、アリストテレスの論理学・形而上学・霊魂論の標準的な道具を持って論じている。出版業者と解釈者がしばしばこれに組み合わせた『弁論術』とともに、『詩学』は、当然人文主義的傾向を持つ思想家に多大な影響を及ぼしたし、大学でも関心を集めた。 『力学』と『詩学』の再発見は、ルネサンス期におけるアリストテレス主義思想の幅広さと生命力とを証明している。「科学革命」を準備した自然哲学者も、ヨーロッパ人の言語表現の慣習を再編成した人文主義者も、長らく中世のスコラ所学派に君臨してきたこの古代スタゲイラの哲学者が残した新しい文献からの影響を被ったのである。アリストテレス主義の統合体が生長を続けるためにこれに劣らず重要だったのが、ギリシア語で書かれたアリストテレス注解の再発見と伝播だった。注解の対象である本文の約10倍のビュザンティオンで、異教徒とキリスト教徒、プラトン主義者とアリストテレス主義者によって著された。24人にものぼる注解者のうち最も重要なのは、アプロディシアスのアレクサンドロス、アンモニオス、シンプリキオス、テミスティオス、ヨアンネス・ピロポノスである。この5人の中で、アリストテレス主義者だったのはアレクサンドロスとテミスティオスだけである。残りの人物は、他の注解者の大多数と同じく、新プラトン主義者であり、異教徒であれキリスト教徒であれ、アリストテレスの哲学をより高次の霊的英知への予備段階とみなしていた。このように、ヴェネツィアのヤコブスが12世紀のビュザンティオンに最後の注解者エペソスのミカエルを訪ねるころよりも遥か前から、新プラトン主義者のアリストテレス学徒は、すでにその哲学を宗教的目的のために応用していたのである。最初のキリスト教徒の注解者ピロポノスは、創造説宇宙論を展開して、529年に『世界の永遠性に関するプロクロス駁論』を著した。最後の異教徒の注解者はオリュンピオドロスであり、6世紀後半566年以降に死んだ。同じ世紀の前半に、ボエティウスは注解文献のラテン語圏ヨーロッパへの伝達を始めていた。中世の学者は数編の注解の(68)存在を知っていたが、そのうち少数はラテン語訳で、より多くはアヴェロエスのようなイスラム哲学者の著作中の言及、断片、要約からの知識だった。古代の注解者は、中世のどの著作家よりも豊富な知識を古典ギリシア思想について持っており、ルネサンス期に注解所が再発見されるとすぐに哲学的言説に再統合された散逸した文献をも読んでいた。とりわけ重要なのは、注解者たちがいくつかの主題について古代にアリストテレスの見解に対して呈された反論を知っていたという点である。注解の再発見、出版、翻訳にはやや時間を要したが、その殆どすべてが、1530年代までにはギリシア語とラテン語とで流布するようになった。こうした注解は、アリストテレスの全著作を網羅しているわけではないが<オルガノン>、『自然学』『霊魂論』といった枢要な書物を論じたものがあり、これらはピエトロ・ポンポナッツィと彼の同僚たちが引き起こした霊魂不死性をめぐる論争のような論議に用いるときに役立つ弾薬となった。 1460年代に至るまで、パドヴァにおけるポンポナッツィの前任者たちは古代の注解者を利用していなかったように思われるが、次の世代の哲学者―――なかんずく、ニコレット・ヴェルニアとアゴスティーノ・ニーフォ―――が、エルモラオ・バルバロらによる新しい翻訳でこれらを参照し始めた。アヴェロエスが霊魂に関する自分の学説を注解者たちから剽窃したというバルバロの非難は、注解への関心を高めるのに一役買ったに違いない。ヴェルニアもニーフォも、アヴェロエスのラテン語訳が西ヨーロッパで入手できるようになって以来絶えず戦わされてきた個人の不死性と知性の単一性とをめぐる大論争に参加する際に、新プラトン主義者および中世の文献とともに注解者を援用した。1492年までヴェルニアは、人間霊魂の肉体との関係、その個別性と不死性についてアヴェロエス的な見解を採用したが、この年に、1504年になって印刷される事になるアヴェロエスへの攻撃を書いた。これは、アルヴェルトゥス・マグヌス、およびフィチーノの翻訳によるプラトンとプロティノスだけでなく、アレクサンドロス、テミスティオス、シンプリキオスからも影響を受けている。テミスティオスは、個々の人間は肉体が死んだ後も生き続ける照明された知性をひとつずつ備えていると言う教説をヴェルニアに与えたし、ヴェルニアは、知性の単一性を退ける点でシンプリキオスとテミスティオスと(69)が一致していると主張した。ヴェルニアの学生だったニーフォも、やはりフィチーノ訳のプロティノスとフィチーノの『エンネアデス』注解を使ったが、シンプリキオスとテミスティオスの理解においては、師と意見を異にする結論に達した。つまり、ニーフォは、この二人は全人類が単一の知性を共有すると考えたと主張したが、アンモニオス、プロティノス、プロクロス、そして他のプラトン主義者たちが霊魂の複数性をとくキリスト教の郷里を信じていた事を認めたのである。ザバレッラの時代、さらにそれ以後も、16世紀の哲学者たちは、これらや関連した論点についてテミスティオス、シンプリキオスや他の注解者に言及した。 宗教においては単性論派のキリスト教徒、しかし哲学においては新プラトン主義者の、6世紀アレクサンドレイアに生きたピロポノスは、ルネサンス期に大きな影響力を振るったもうひとりの重要な注解者である。新プラトン学派の他の哲学者と同じく、ピロポノスも、アリストテレスの論理学・自然哲学の著作に、プラトンの対話編におけるこれら二つの主題についての論議の乏しさを埋め合わせるため目を向けた。これらの主題についてアリストテレスに手本を仰いだとはいえ、ピロポノスは、キリスト教徒の新プラトン主義者として、たとえば世界の永遠性のような特定の論点について、アリストテレスの教条に遠慮なく断固として異義を唱えた。『自然学』の第四巻で、アリストテレスは、自然のうちに真空や虚無の空間が存在する可能性を強く否定した。たとえば、真空を落下する物体は、抵抗にあわなければ、すべて同一の無限の速度で移動する事になるだろうと主張したのである。それ以前の批判者を参考にしつつ、ピロポノスは、アリストテレスの見解に欠陥を見出し、経験と常識とを有効に利用して次の結論に達した。あらゆる物体が真空を移動する同一の速度とは、無限ではなく有限でなければならないと。ピロポノスの『自然学』注解が1535年に出版されると、彼の巧妙な批判は、最終的にアリストテレス主義の自然哲学を焼き尽くす事になる炎に油を注いだ。中世以来、忠実なアリストテレス主義者でさえ、あれこれの論点に冠する始祖の判断に疑義をさしはさんできたのであって、疑いと異論との蓄積が、この体系の最終的な没落に道を開いたのである。ルネサンスがピロポノスを再発見したとき、アリストテレスの死を早め(70)るアリストテレス主義の解義の仕事の一つが新たに手に入るようになった。1504年から1583年の間に、ラテン語と(殆どの場合)ギリシア語で、ピロポノスが『分析論後書』、『カテゴリー論』、『形而上学』、『自然学』、『霊魂論』、『気象論』、『生成消滅論』、『動物発生論』に付した注解が印刷された。ジャンフランチェスコ・ピコ・デッラ・ミランドラが最初に、1520年の『異教徒の学問の空しさの検討』Examen vanitatis doctranae gentiumにおいて、場所と真空についてのピロポノスのアリストテレス反駁を十分に考慮した。16世紀が幕を閉じるころまでには、ガリレオがアリストテレス自然学にいっそう鋭い疑義を呈していたし、その数年後、伝統的な自然哲学の致命的な弱点を暴きたて、自らの新しい科学をその代替物にする事を提案するのである。ガリレオの初期の論考『運動論』のアリストテレス批判には、ピロポノスの注解への言及が含まれている。 ピロポノス、シンプリキオス、テミスティオス、その他の古代の注解者から、ルネサンスがアリストテレス解義者の間に多様さと不和を作り出す必要は無かった事が明らかになる。実際のところ、こうした見解の相違は、アリストテレスの最初期の後継者テオプラステスとストラトンから現れていたのであり、中世に入ると、逍遥学派思想の構造により大きな亀裂が姿を現すのである。ペトルス・アベラルドゥスや「古論理学」の他の学匠たちは、12世紀に唯名論と実在論とをめぐって論議を戦わせた。同じ論争の後期段階が14世紀のスコラ学者たちをわずらわせ、この時期までには、アルベルトゥス・マグヌス、ドゥンス・スコトゥスといった影響力ある博士の追随者たちが明確かつ相反する立場を固辞し、さまざまな問題について、それぞれあるベルトゥス主義者、トマス主義者、スコトゥス主義者となった。パリ、ケルン、プラハ、また他の学問の中心地で、論理学および形而上学の諸論点を巡る戦闘がとりわけ激しくなり、敵対する勢力は、殆ど常に組織別に部隊を展開して行った。ドミニコ会がトマスに忠誠を誓ったとすれば、フランシスコ会はスコトゥスの学説を支持した。パドヴァ大学は、形而上学と神学について、トマス主義とスコトゥス主義との教授職を別々に創設し、この二つの地位を占めた高名な哲学者や神学者(71)はどちらも、宗教改革の敵対関係を含むより幅広い争いに関わった。しかも、同一の大学内で相反するアリストテレス解釈を公式に承認したのはパドヴァだけではない。同じような知的・組織的な葛藤は、ルネサンス前期を経てそれ以後も続き、17世紀の出版業者は、依然として、「トマスの学説による」哲学教科書と「スコトゥスの学説による」教科書との両方に儲けのある市場を見出していたのである。 近代初期に重要性を持っていたもう一つの中世的区分が、北ヨーロッパの哲学者の神学的傾向とイタリアの大学教授の科学的指向との対比である。この分岐の期限は、1277年の断罪に終わるブラバンのシゲルスとトマス・アクイナスの論戦で頂点に達した。パリ大学学芸学部の自然主義的アリストテレス主義者と神学部の保守的な論敵とのよく知られた13世紀の論争にあった。早くも1210年には、アリストテレス自身の著作の多くが禁書処分にあっていたが、この弾圧は、通常のアリストテレス研究の慣習に囚われない、自然学的問題のよりいっそう厄介な分析に刺激を与えた。新しい社会的・知的条件がさまざまな哲学的動機の混合を豊かにするにつれて、神と自然に対する人間の競合する責務は、近代初期からそれ以降へと、学者の想像力を掻き立てた。ルネサンス期のアリストテレス主義における神学的関心と科学的関心との軋轢の継続は、イタリアに無神論を奉じるアリストテレス主義者の集団が居た事を証明するわけではない。しかしながら、哲学者の中に、宗教的・神学的問題には直接関心を持たず、科学的・世俗的動機からアリストテレスを呼んだ人々が居た事は事実である。人間の魂を覗いてみる事は困難だが、宗教改革前後のイタリアの支配的文化状況は、大多数の世俗的アリストテレス主義者が、どの道自分の信仰を哲学に結びつける理由など持ち合わせない敬虔なキリスト教徒だった事を示唆している。彼らは医学への関門としての論理学と自然哲学とを教えるために雇われていたので、職業的義務と個人的霊性との間に強い連関を認めなかったのである。勿論、職業が私的信仰と世俗的義務との乖離を許容するという事実そのものが、世俗化を促進する更なる要因となった。哲学においては、帰結の一つは、イタリアの世俗的アリストテレス主義者が神学に関して何を考えていたかが殆ど明らかになっていないと言うことである。これは、(72)カトリックのスペインやプロテスタントのドイツにおけるアリストテレス主義哲学について知られていることと同じではない。…… プロテスタントとカトリックの両陣営がアリストテレス主義の伝統を賞賛したのは、その規模と整合性が、真理が単一であり自分たちだけに属すると言う双方の確信を満足させたからだった。しかし、ルネサンス期のアリストテレス主義の折衷的実態は、教理上の確信へと至る唯一の排他的経路を手に入れたいという望みを妨げた。近代初期の哲学に適用した場合、「逍遥学派」と「アリストテレス主義」と言う二つの呼称は、教条の一致に対して犯された無数の罪を覆い隠しているのである。若しアリストテレス主義者が始祖の教えをあらゆる点で受け入れている人間のことだとすれば、ルネサンス期には、アリストテレス主義者は一人も居なかった―――この事は中世についても同じになるが。アリストテレスの尤も熱烈な信奉者でさえ、いくつかの論点で異義を唱えていた。それほど忠実ではない人々が、他の―――古代であれ同時代であれ―――哲学者、または個人的経験、または理性の示すところから説得力ある反駁をアリストテレスの見解が受けたときに、よりいっそう自由に振舞った事は言うまでもない。古代の哲学的見解の全領域がより容易に手に入るようになったという事実が近代初期ヨーロッパに与えた巨大な衝撃を考慮に入れるなら、アリストテレスを古代から新たに掘り起こされた他の哲学的遺産と融合しようとするさまざまな試みは、とりわけ注目に値する。ルネサンス期の思想化がアリストテレスの学説をこうした別の材料と混ぜ合わせたとき、そこから生み出された合金の種類は、古代の廃墟に霊感や原料や方法を掘り当てるために新しい人文主義の道具を身につけた哲学者の数と同じくらい多種多様だったのである。彼らが作り出したのは、広い振幅に渡る、さまざまな折衷的アリストテレス主義だった。アリストテレスを賞賛する幾人かのルネサンス期の哲学者は、彼らの千年前にピロポノスがしたように、肝要な論点でプラトン主義やストア主義の見解も採用した。そして、他の哲学者もこのような折衷主義をごく正常なものとみなしたのである。多くの問題についてアリスト(75)テレスは最良の導き手と思われたが、その他の問題については、プラトン、キケロ、アルベルトゥス、アクイナス、スコトゥス、アヴェロエスのうちにより優れた答えが見出されるかもしれない。魔術や占星術のように現代人の目には怪しげに映る信念でさえ、こうした思想が「アリストテレス文書」に閉める文献的基盤は薄弱であるにもかかわらず、ニーフォ、アキッリーニ、ポンポナッツィといった、基本的にアリストテレス主義の道を歩んだルネサンス期の哲学者をひきつけたのである。15.16世紀は、そのうちの何人かはもっとも緩やかな意味でのみアリストテレス主義者と呼ぶことの出来る非正統的思想家に満ち溢れていた。トマスやスコトゥスほど影響力のある思想家はそこにはおらず、デカルトやベイコンほど大胆な思想家も、マキアヴェッリやモンテーニュほど才能のある思想家も居ないが、彼らのうちある人々は、よりつつましい規模で、ルネサンス期の支配的主題の幾つかを反映し、17世紀のいっそう大胆な革新を先取りする、新しい思想を付け加えたのである。
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)