Giovanni Pico della Mirandola Nr.1「この文化時代の最も高貴な遺産」(214) ルネサンス期イタリアの哲学者の中でも、最も有名な人物は恐らくジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラであろう。31歳と言う若さで没し、残した著作も決して多くは無く、その思想は未完に終わったにもかかわらず、彼の名は当時のヨーロッパに知れ渡っていた。「人文主義者の王」と称されたエラスムスは、1516年9月、ドイツの人文主義者ヨハネス・ロイヒリンに宛てて「あなたはアグリコラ、ポリツィアーノ、エルモラオ・バルバロ、ピコが華々しく活躍していた時代のイタリアを訪ねました」と書き送っている。他方、エラスムスの英国の友人であったトマス・モアは、すでに1510年に、ピコのおいで哲学者であったジャンフランチェスコ(1469-1533)によるピコ伝、及びピコの書簡と小論を英訳して刊行していた。 ヤーコプ・ブルクハルトは名著『イタリア・ルネサンスの文化』(1860)において、幾度もピコについて言及している。とりわけ「世界と人間の発見」と題した章の末尾に於ては、ピコの演説『人間の尊厳について』について、この文化時代の最も高貴な遺産の一つと言ってよいものである」と述べ、同作品からの長い引用で締めくくっている。かつてエウジェニオ・ガレンは、ピコの校訂版著作集を編んだ際(1942)『人間の尊厳について』を「真にルネサンスのマニフェストである」と記したが、実際、ジョヴァンニ・ジェンティーレの『ルネサンスの人間の概念』(1916)やエルンスト・カッシーラーの『ルネサンス哲学における個と宇宙』(1927)といった古典的研究から、チャールズ・トリンカウスによるイタリアの人文主義思想における人間論についての大部の研究(1970)まで、ピコの教説はルネサンスの人間観を解釈する上で必須の資料となってきた。また<哲学的平和>の理念は占星術批判など、ピコの思想のさまざまな側面に対する関心は現在に於てもきわめ(216)て高く、近代語訳が次々と刊行され、また多数の研究論文が発表されている。
前半生 ピコは1463年2月24日に北イタリアの小都市ミランドラに生まれた。彼の父ジャンフランチェスコ1世は、ミランドラとコンコルディアの領主であり、ピコはその三男であった。教養豊かな母ジュリアは彼が聖職者の道を歩むことを望み、1477年、14歳のピコは法学で有名なボローニャ大学に入学した。そこでピコは教会法を学んだが、彼の関心は法学よりもむしろ「人文学研究」studia humanitatisや哲学に向かっていた。1478年8月13日に母が没し、それを契機にピコはフェッラーラ大学に登録し(1479)そこで修辞学などの人文学とアリストテレス哲学を学び、また自ら詩作を行った。 1479年から80年までのピコは、短期間であるがロレンツォ・デ・メディチが実質的に支配し、ルネサンス文化が栄華を極めていたフィレンツェに滞在する。この地ではマルシリオ・フィチーノが率いる「プラトン・アカデミー」を中心に、プラトン主義が興隆していた。フィチーノは、すでに『ヘルメス選集』とプラトンの前著作の翻訳を成し遂げており、自らの哲学を展開した大著『プラトン神学―――魂の不滅について』を完成させていた。ピコはフィレンツェ(217)で、フィチーノに加えて、プラトン・アカデミーに集うアンジェロ・ポリツィアーノ(1454-94)、クリストフォロ・ランディーノ(1424-92)、ジロラモ・ベニヴィエーニ(1453-1542)といった人文主義者と知り合った。 ピコは1480年の秋から1482年の夏まで,パドヴァで引き続き哲学、特にアヴェロエス主義的なアリストテレス哲学を学んだ。パドヴァ大学では,後に単一知性論を主張した著作を刊行して司教に撤回を迫られたニコレット・ヴェルニア(1420-99)が教鞭をとっていた。ピコはそのほかにトマス・アクイナスやドゥンス・スコトゥスの流れを汲む講義に出席した。その後一時ミランドラに滞在したが、すぐにミラノ近郊のパヴィアに向かった。翌年までその地で、ジョルジュ・メルラ(1431-94)の修辞学やオッカム派の論理学を学んだ。1482年11月25日にフ(218)ィチーノの『プラトン神学』が刊行されると、すぐにピコはフィチーノにこの著作を求める旨の書簡を送っている。その書簡の中でピコは、プラトン主義とアリストテレス主義を統合するために両哲学を深く知ろうとしていると述べている。 1484年の春に、ピコは北イタリアの諸都市での学問的遍歴を終えてフィレンツェに住居を定め、本格的な哲学研究に着手した。彼は、次第にプラトン哲学に傾倒して行ったが、今まで学んできたアリストテレス哲学を捨ててしまったわけではない。むしろ彼の目的とするところは、1484年12月6日付の、ヴェネツィアの人文主義者エルモラオ・バルバロ(1453-93)宛ての書簡に見て取れるように、両者の哲学を統合することであった。ピコは「最近私は、アリストテレスからアカデメイア派へと転じましたが、脱走兵としてではなく偵察兵としてです」と記している。またピコは、当時の大部分の人文主義者のようにスコラ哲学を軽蔑する事は無く、1485年7月には、自ら進んでスコラ哲学の牙城と言うべきパリ大学神学部を訪れ、ドゥンス・スコトゥス派やオッカム派の講義や討論に出席した。また同地で、ロベール・ガガン(1433-1501)のような人文主義者とも交わった。 遍歴と断罪 ピコがパリを離れ、フィレンツェに戻ったのは1486年4月(3月)の(219)ことである。だが彼は、フィレンツェに腰を落ち着けることなく、五月にはローマに向けて出発した。その理由は、ローマで大規模な哲学的・神学的討論会を開くためであった。ところが、ピコはこの旅の途中、アレッツォという町で、同地の収税吏の妻マルゲリータ・デ・マッロット・デ・メディチを馬に乗せて連れ去ると言うスキャンダルを引き起こし、彼の計画は遅延を余儀なくされた。この事件は、ロレンツォ・デ・メディチの仲介によって大事には至らなかったが、ピコは深い悔恨の情を抱きながら、中部イタリアの都市ペルージャに隠棲した。その後ピコは、ペストを逃れて近隣のフラッタという都市に移り、その間にローマの討論会のための『900の提題』を収集してまとめた。この『提題』には、それまでのピコの研究成果が集約されており、彼の理想である「哲学的平和」pax philosophicaが展開されている。そして、この討論会の開会の辞となるべき演説も作成されたが、これが後に『人間の尊厳について』と呼ばれる著作になる。またペルージャとフラッタに滞在する間にピコは、友人ジロラ(220)モ・ベニヴィエーニの「愛の歌」についての『注解』を執筆した。 ピコは11月の中ごろにローマへと赴き、『900提題』を12月7日に出版し、ただちにイタリアの関係諸機関へ送付した。この討論会は、1487年の公現祭(1月6日)以降に開催されると定められていた。しかしローマでは『提題』に対する疑念の声が高まり、教皇インノケンティウス8世は、2月20日付の勅書で正式に『提題』を検討する委員会を招集した。この委員会の結論は、七つの論題を厳しく断罪し、六つの論題を叱責するものであった。ピコは、この結論を受け入れる代わりに『弁明』を持って答えた(5月31日にナポリで秘密裏に出版)。結局教皇は8月4日付の勅書で『提題』を一括して断罪し、討論会が開催される希望は完全に潰えた。ピコはこの状況の元で身の危険を感じたためか、ひそかにフランスに逃れた。しかし1488年の1月にはグルノーブル近郊で拘束され,パリに連行されてヴァンセンヌ城に幽閉された。しかしロレンツォやパリの友人たちの尽力とフランス王シャルル8世の行為によってすぐに開放され、以後短い生涯を終えるまで、ロレンツォの庇護の下、フィレンツェで哲学と神学の研究に専念することになる。 フィレンツェでの研究の成果としては、「創世記」の冒頭に記されている創造の六日間についての哲学的注解である『ヘプタプルス』や、プラトンとアリストテレスの調和が説かれ、神に関する興味深い思索が見られる『存在者と一者について』がある。また、(221)「詩篇」への幾つかの注釈と、大部の著作『予言占星術駁論』が遺稿として残された。1439年6月18日、教皇アレクサンデル6世によって、ピコは教会からその罪を免ぜられた。そして、翌年11月17日、シャルル8世の軍隊がフィレンツェに入った日に、331歳の生涯を閉じたのである。彼は、晩年心酔したフェッラーラ出身のドミニコ会士ジロラモ・サヴォナローラ(1452-98)の前で息を引き取り、フィレンツェのサン・マルコ修道院に埋葬された。
『人間の尊厳について』(222) ピコがローマでの討論会のために準備した開会演説は、彼が没して二年後の1496年にジャンフランチェスコが編集した『著作集』においてはじめて印刷された。その際にジャンフランチェスコが目次中につけた題名は「あるきわめて優雅な演説」であり、本文中の表題もただ「演説」であった。1557年のバーゼル版全集以降、「人間の尊厳についての演説」と題され、それが人口に膾炙することになる。ピコの意図はともかくも、この題名が受容されていく過程は、この著作が当時の人々に与えた印象を端的に表すものであろう。しかし実際には人間について論じている箇所は冒頭の部分(全体の十分の一)だけである。 さて『人間の尊厳について』は次のような言葉を持って始まっている。「尊敬すべき神父の皆さん、私はアラビア人の記録の中で、サラセン人アブダラが、このいわば世界と言う舞台の中で何が最も驚嘆すべきものに見えるかと尋ねられたとき、人間ほど驚嘆すべきものは見当たらないと答えているのを読みました。この見解には、メルクリウ(223)スのあの『アスクレピウスよ、偉大なる奇跡、それは人間である』という言葉が賛同しています」。 まずピコは、今まで主張されてきたことを列挙しながら、それらに満足していない旨を表明する。すなわち、人間はもろもろの被造物の仲介者であり、上位のものと交わるものであり、下位のものの王であるとか、人間は感覚の鋭敏さ、理性の探求力、英知の光によって自然を解釈するものであるとか、世界の紐帯であるとか、こうした論拠は重要なものではあっても第一義的なものではない。それは人間が万物の系列の中で獲得した、獣だけではなく星辰や超世界的精神(天使)にさえも羨望される地位を十分に説明するものではないのである。以上の発言において留意すべき点は、ピコはここにおいて、宇宙における人間の地位とその本性をめぐって、中世以来の伝統的な議論、とりわけフィチーノの教説に異議を唱えていることである。 フィチーノの宇宙論は、中世の哲学的伝統を背景に、プロティノスから直接的な影響を受けて形成された。すなわち、宇宙は神から物体まで連続する、諸存在のヒエラルキ(224)ア(階層構造)として理解されている。彼は、主著『プラトン神学』(第3巻1-2章)において、存在の諸段階を、神、天使的精神、魂、質、物体の五つに定めている。そして、これら五つの段階は、分離され孤立した存在の重なりとしてではなく、間断の無い一系列を形成するものとして結合されていると述べている。この教説において特徴的な点は、諸存在の連続性と、その中における魂の中間的地位である。宇宙が統一体となるためには<中間の段階>の存在は必須なのであるが、特に5つの段階の真の「中間」としての魂が担っている役割は重要である。 魂は上位の諸存在(神、天使的精神)へと上昇し、また下位の諸存在(質、物体)へと下降することによって、宇宙内の被造物全てを「一」へと結合する。魂は「第3の本質」、あるいは「中間の本質」と呼ばれ、万物を結合し宇宙を統一体とする任務を付与されている。「魂は、あらゆるものを真に結合するものであり、あるものへと移るときも他のものを放棄せず、個別的なものへ移っても常に全体を保有するので、それは正当にも自然の中心、あらゆるものの中間物、世界の連結、万物の面、世界の結び目と紐帯と呼ぶ事が出来るだろう」。フィチーノは、この魂の特徴を「自然の最大の奇跡」と賞賛している。一系列を形成する存在のヒエラルキアにおける魂の「結び目と紐帯」としての、中間者的・媒介者的地位の主張は、しばしばフィチーノにおける人間の卓越性と尊厳の表現とみなされているものなのである。 (225)他方、人間の本性に関してフィチーノは、人間をミクロコスモスと考える古代・中世の伝統を受け継いでいる。彼によれば、魂以外のものは全て「単一的」であるが、魂は同時に「全て」である。魂は、神的な似像と下位の諸事物の概念と範型を所有し、全ての事物の能力を自己のうちに含んでいる。こうしたミクロコスモス的な本性をもつ人間の魂について、フィチーノは『プラトン神学』において次のように述べている。人間の魂は、自分自身の中で植物の生、獣の生、英雄の生、ダイモーンの生、天使の生、神の生をさまざまな仕方で試みる。そして、人間はあらゆるものの生を送るので、そのような仕方であらゆるものになろうと努力する。このことに古代の知者メルクリウス(ヘルメス)・トリスメギストスは驚嘆して次のように言っている。「偉大なる奇跡、それは人間、驚嘆すべく崇敬すべき動物のことであり、彼はあたかも本性的に親戚であるかのようにダイモーンの種族と通じており、あるいは、あたかも自分自身が神であるかのように神へと変化する」。 フィチーノはここで、古代神学者の一人メルクリウスの権威に訴えて(226)居る。前述したように、ピコも『人間の尊厳について』の冒頭において『アスクレピオス』のこの箇所を引用していた。しかし、彼はフィチーノとは異なる根拠をメルクリウスの言葉の中に読み取ろうとしたのである。
宇宙における人間の地位とその本性 ピコは続いて、神による創造の瞬間を描きつつ、彼自身の回答を与えている。それに拠れば、神はこの世界を造った後に人間を創造しようとしたが、新しい息子に贈るべきものは何も残っていなかった。それゆえ神は、人間に何一つ「固有なもの」を与えられなかったがその代わりに他の被造物が持つ性質を全て付与し、世界の中央に置いたのである。そしてこのようにして創造された最初の人間、すなわちアダムに神は次のように話しかけた。「アダムよ、我々は、お前に定まった席も、固有な相貌も、特有な贈り物も与えなかったが、それは、いかなる席、いかなる相貌、いかなる贈り物をおまえ自身が望んだとしても、お前の望みどおりにお前の考えに従って、お前がそれを手に入れ所有するためである」 ピコに拠れば、人間以外の被造物は「限定された本性」を持ち、神によってあらかじめ定められた法のうちに制限されている。他方、人間にはいかなる束縛もなく、自己の「自由意志」arbitriumに従って自己の本性を決定する。換言すれば、人間の本性は「不(227)定なるもの」なのであって、それゆえに人間は望むものを持ち、欲するものになる事が出来るのである。人間には「あらゆる種類の種子とあらゆる種類の生命の芽」が封入されており、彼はそこから自らの生を選択するのである。ピコはこうした人間の本性を「カメレオン」と呼んでいる。 こうしたピコの人間観がフィチーノのものと異なっている事は一目瞭然であろう。ピコはフィチーノのように、人間に対して、宇宙のヒエラルキアにおける「中間物」としての特権的な地位を付与するのではない。むしろこのヒエラルキア内に固定されず、自己の地位を自由に選択する存在とみなす。他方、人間の本性については、伝統的な人間・ミクロコスモス観から離脱し、万物を全てうちに包含するものとしてではなく、一切の規定を欠きあらかじめ定められていないものとして捉える。つまりピコは『人間の尊厳について』において、伝統的な人間観に独自の新しい人間観を対置したのであり、その文脈においてメルクリウスの言葉を理解しなければならない。 他方ピコの別の著作、1489年に刊行された『ヘプタプルス』では、『人間の尊厳について』とは矛盾する、フィチーノのものと類似した人間論が説かれている。こ(228)の「第2序文」によれば、宇宙には三つの世界、すなわち、超世界的(英知的・天使的)世界、天界、月下界(元素界)が存在し、その中に旗の三つの世界にあるもの全てが見出される。ピコは『ヘプタプルス』に於ても人間を「第4の世界」として宇宙のヒエラルキアとは別の存在と定め、この点で『人間の尊厳について』の議論を踏襲しているように思える。だが彼は、宇宙と人間の関係について詳説している別の箇所においては、人間は「新しい被造物、第4の世界と言うよりも、むしろ我々が述べた三つの世界の複合と結合である」と定義しなおしている。そして、ピコは人間を上位の段階と下位の段階を結合する中間的存在とも規定しようとし、人間を「天上的なものと地上的なものの絆と結び目」と呼んでいる。人間は天上的なものと地上的なものの間に平和と同盟を確立する存在なのである。「絆と結び目」と言う表現からして『人間の尊厳について』の冒頭部で退けられた、極めてフィチーノ的な図式がここでは語られている。
新しい人間像 また、人間の本性に関してピコは、人間が持つ「神の類似」とは何かと問い、人間の理性と精神の本性が神のように英知的で、不可視的で、非物体的であること、そして、(229)魂のある部分に「三位一体」の似像が現れていることを示していると答える。しかしピコに拠れば、これらと同一のものが我々のうちよりも天使のうちにおいて、選りすぐれたものとして存在しているのであるから、天使は我々以上に「神の類似」を所有していることになる。人間に固有な尊厳が認められるのは、人間が「自己のうちに全ての本性の実体と全宇宙の充満を、現実に包含している」からなのである。天使も事物全ての形相と概念で満たされて万物を認識するときには、自己のうちにある仕方で万物を包含しているが、それは「現実に」と言うわけではない。人間は、神とは異なる仕方ではあるが神と同様に、万物を認識するだけでなく、自らの実体の完全性へと全世界の本性全てを集め、結合しているのである。 ピコがここで述べているのは、『人間の尊厳について』で批判していた、人間のミクロコスモス的な本性である。実際ピコは、宇宙の諸構成物と人間の諸部分との照応関係を詳しく述べている。すなわち、地、水、火、空気の4元素には人間の身体が、また天界には諸元素よりも神的なスピリトゥス的物体がそれぞれ照応している。さらに、人間の中には植物の生があり、植物におけるのと同様に人間に於ても、養育、成長、(230)産出の役割を果たす。また内的及び外的な獣の感覚があり、天上の理性において有力な魂があり、天使的精神の分有があり、同時に「一」へと合流する本性全ての、あの真に神的な所有がある。「それゆえ、あのメルクリウスの『偉大なる奇跡、それは人間である』という言葉を叫ぶ事が出来るのである」。ピコはここでメルクリウスの言葉を、人間のミクロコスモス性をたたえるものとして引用しており、それが引用されている文脈は『人間の尊厳について』と極めて異なっている。 このようなピコの内部における一種の矛盾については、諸研究者の間に解釈の相違が存在しているが、次のように理解し得るであろう。すなわち『人間の尊厳について』においてピコは伝統的な人間観からの離脱を企てたが、『ヘプタプルス』に見て取れるように、それから完全に自由となり、まったく新しい人間観を提出することはできなかった。その意味では、ピコもまた時代の制約の元で思索を続けていたのであり、諸著作間に見られる矛盾した表現は、彼における思想的相克の証左といいうるべきものだろう。とはいえ、ピコが人間のミクロコスモス的な本性を基盤としつつも、そのさまざまな可能性の中で、自由意志に基づいて自己の本性を実現すると言う、創造的な能力を宿した新しい人間像を提示しようとしたこともまた事実なのである。(230)
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)