フィレンツェ・プラトニズムとクリストフォロ・ランディーノの文芸批評 清瀬卓 1.イタリア・ルネサンスにおける原典批判ecdotica(105) 周知のように15世紀前半のイタリアにあっては、古写本codices vetusti/ antiquissimi蒐集への関心が、特異な昂揚を見た。グァリーノ・ダ・ヴェッローナ(Guarino da Verona, 1374-1460)のコンスタンティノープルへの旅やポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini, 1380-1459)がコンスタンツ公会議(1415-17)に際して修道院を訪ねて古写本を渉猟したことは、つとに名高い。1438-39年のフェッラーラおよびフィレンツェ両公会議に際しても、1453年5月29日のコンスタンティノープル陥落に際しても、たとえばヤーノス・アルヒロプーロス(Janos Argyropoulos, 1415-87)やベッサリオン(Bessarion, 1403?-72)枢機卿などのギリシア人学者がイタリアに渡来し、のち亡命することになったが、その彼らは多数のギリシア語手写本をイタリアにもたらしたのであった。 当時を代表する為政者たち、たとえば教皇ニコラウス5世(Nicolaus V, 1397-1455)、フィレンツェの老コジモ(Cosimo de’ Medici, 1389-1464)、ナポリ王アルフォンソ・ダラゴーナ(Alfonso d’Aragona, 1395-1458)らは、こうした手写本の愛好家であり、彼らパトロンたちのもとに優れた人文主義者(106)たちが数多く集うことによって、蒐集された手写本は研究されることになった。 イタリアの人文主義Umanesimoを最も端的に特徴付けるものとして「ことば」を文体として把握しようとする傾向、換言すれば雄弁術への傾倒が挙げられよう。このような文章スタイルへの過剰ともいえる配慮は、手写本に基づく古典研究Studia humanitatisを開花させる大きな原動力になりはしたが、他方において手写本そのものを批判検討する原典批判textual criticismの発展を阻害する結果ともなった。しかしながら、ギリシア語ラテン語の古典籍を正しく理解しようとして、テクスト校訂の手法すなわちecdoticaを考案、導入した人文主義者がまれだったわけではない。すでにフランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304-74)は古典研究のために、リウィウスLiviusのローマ史『建都以来』Ab urbe conditaを筆写、校訂して、一種の出典批判に先鞭をつけている。中世から伝承された古写本は、写字生の興味と技量によっても、所有者の必要性や趣味によっても、その出来映えは実に多種多様であった。この写字生の読み違いや所有者のさまざまな趣味の違いを考慮に入れながら、フィレンツェ市書記長官コルッチョ・サルターティ(Coluccio Salutati, 1331-1406)は、古典籍解釈上の原則としてまず第一に最も古い手写本のテクストに基づくべきこと、さらには原本を出来るだけ手直ししないことを挙げている。ニッコロ・ニッコリ(Niccolo Niccoli, 1364-1437)は、手写本の問題となる箇所については、さまざまな異なる伝本と比較しながら、一語一語を構成している文字そのものに至るまで吟味すると言うきわめて厳密な文献学的手法を早くも駆使している。 ラテン語の歴史的変遷過程を慣用と語源の面から考究したロレンツォ・ヴァッラ(Lorenzo Valla, 1407-57)は、その研究成果を『ラテン語の簡潔さ』Elegantiaeにまとめると同時に『訂正』EmendationesにおいてはAb urbe condita最初の6巻の正しい読みを、『対照』Collatioと『評語』Annotationesにおいては新約聖書の修正案を提示している。彼は自らのTextual criticismを体系的に述べているわけではないが、特に古書体litterae antiquaeとゴート書体litterae Gothicae/ Longobardae/ modernaeといった書法に対する歴史的認識を踏まえ、手写本の誤った読みがいかにこうした書法に対する無知に由来するものであるかを強調した。つまり正しいテクストの読(107)みは、手写本を歴史上の産物と解釈してはじめて可能となると考えたわけである。 さて、人文主義者たちはこれらの手写本を元に新しいテクストの編纂に取り掛かったが、彼らは手写本の校合に際して、手写本に基づく訂正emendatio ope codicumと熟練に基づく訂正emendatio ope ingeniiの二重の手続きをとった。ところが古写本codex antiquus/codex vetusの取り扱いに不慣れであった彼らは、codexにあくまで依拠する校訂よりも、ずっと容易な、勘を頼りの校訂に走りがちであった。しかも校訂編集者その人の収益に直結したテクスト編纂の仕事には、何よりも迅速さが要求された。このようにして世に新写本codex modernusのみに基づくスタンダード版テクストいわゆる普及版versio vulgataが広く流布して行くにしたがって、テクストの修正はより困難なものになって行く。 こうした傾向は、15世紀の中ごろ、ドイツ人ヨハネス・グーテンベルク(Hohanul Henne Gutenberg, 1394/99-1468)が活版印刷術を発明し普及させて以来、悪化の一途をたどり始める。ヴェネツィア貴族エルモラオ・バルバロ(Ermolao Barbaro, 1453-93)は、大プリニウスの『博物誌』Naturalis Historiaのために、『校閲』Castigationesと題する校定本を刊行した。彼は手写本間の異文については古い読みVetus lectio/antiqua lectioをまず提示し、彼独自の読みは、その箇所の典拠となったギリシアおよびラテン著作家のテクストにまでさかのぼって比較検討したうえで、妥当と判断されるものを注記するという入念な文献学的操作を行った。バルバロの方法をより厳密なものにして、近代文献学の先駆をなした人物は、クリストフォロ・ランディーノに師事したアンジェロ・ポリツィアーノ(Angelo Poliziano, 1454-94)である。彼は定評ある古写本の読み方veterum autoritas codicum、古典作家の証言testimonia scriptorum idoneorum、テクスト文面の意味sensusの三つを基本的手がかりとして、いわゆる親写本archetypusにいたる諸伝本の系統樹を想定し、その上で伝本それぞれの出所および時代の特定を行い、さらにはそれらの特徴を古文書学および書誌学的見地から記述しようとした。このような実証的文献学の手続きを経て、彼独自の完璧な真の読みvera et integra forte lectioは大いなる威力を発揮するにいたったのである。 (108)ペトラルカに始まるこうしたecdoticaの発達は、勿論古典語についての正確な知識と語学的センスを深めるのに寄与するところ大であった。神の存在を証明し、神の偉大さを賛美するための手段としてのみ<ことば>を考えていたスコラ学にあっては、著作家auctoresは即模範作家auctoritasであるがゆえに、その字句の異同について穿鑿することは、俗人の力量をはるかに凌駕することであり、教会の権威に関わる事柄と考えられていた。14世紀Trecentoから15世紀Quattrocentoにいたる新しい<ことば>の発見は、中世のスコラ学の伝統とは異なる俗語詩の伝統から由来すると考えられる。事実ペトラルカはその恋人ラウラに捧げられた詩集『カンツォニエーレ』Rerum vulgarium fragmentaをもって、まず第一に俗語の詩人である。俗語による詩作を通じて培われた<ことば>に対するしなやかな感性は、やがて古典語に対しても等しく洗練の度合いを増したことであろう。幼少のころから古典語を自由自在に操り、ラテン語およびギリシア語による詩作に稀有な天分を発揮したポリツィアーノの場合、そのことは最も端的に現れているといえよう。
(佐藤三夫編『ルネサンスの知の饗宴 ――ヒューマニズムとプラトン主義』、東信堂・1994年)