2009年4月5日日曜日

Istoria Firenziana p1

第二部 メディチ家初期の人々、1434年より1530年まで(65.前史注)第1章 コジモからサヴォナローラへ、1434年より1494年まで1434年10月、コジモのフィレンツェ帰還はメディチ家「支配」の始まりを画する出来事であった。以後1737年までメディチ家の支配は続くことになる。メディチ家の起源――メディチの家柄は元々無名の、ささやかな身分であった。家名の由来さえ明確ではない。本当に医師の末裔であるのか。そうであるとすれば、後に紋章に描かれる「玉模様(パッラ)」を複数の丸薬を示すものと考えることで、一応の説明は付く。だがこの玉模様をビザンチン貨幣あるいは両替商のはかりの分銅とみなす者もいる。それはともかくとして、メディチ家の祖先がフィレンツェの北方約30キロ、アルノ川の右岸を流れてこれに合流するシエーヴェ川に臨む谷間、ムジェッロの出であることは確かである。彼らがいつごろ故郷の山間を出てフィレンツェに定着し、メ(66)ルカート・ヴェッキオ広場で両替商と金貸し業を営むようになったか、これもつまびらかでない。しかし、1201年からこの家系中の一人(キアリッシモ)がコムーネの評議会議員になっており、メディチ家はカリマーラ組合、ついで両替商組合(アルテ)に登録されている。一門の政治的地位の向上は必ずしも急速ではなかった。アルディンゴがプリオーレに就任するのはようやく1291年のことである。この人物はその後96年に「正義の旗手(ゴンファロニエーレ)」となった。そのころになって彼らは独自の両替商会(コンパニーア)を創設し、政治にも積極的に参加するようになる。とりわけアテネ公の専制時代には活発な動きを示した(公はこの家系の一員を死罪に処している)。また諸評議会には決まって一族のものを送り出し(1291年から1343年までに28回市政府に選出される)、カヴァルカンティ、ドナーティ、ルチェッラーイなどの有力家系との縁組もしている。したがってこのころより上層市民(ポポラーニ)の仲間入りを果たしていることになるが、資産と言えばまだささやかなものであった。(1364年に304フィオリーノの課税を受けているが同じときストロッツィ家では2062フィオリーノの税を支払っている)。しかし、一族は性格が粗暴であったために(流血の犯罪に加わることもしばしばで、1342年から60年までの間に5人が死罪になっている)、人に恐れられ、大使などの名誉職には殆ど選ばれていない。要するに1348年のペスト流行までは、政治面でも事業のうえでも二流の地位を占めるに過ぎなかったのである。 1348年にペストが猛威をふるい競争者の多くが消滅した機会を利して、実業界の上層にのし上がったと言うのは十分にありうることである。一門のヴィエーリが両替商アルテに登録したのは13(67:系図、68)48年のことであり、このころから「フィレンツェ銀行業界の指導的存在」(ルーヴァー)となるのである。ヴィエーリは教皇の御用金融業者となって、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ブリュージュに支店を開設する。こうした経済的地位の向上に伴って政治的な進出の機会も開かれていった。1348年から78年までの間に、メディチ一門の人物が19回プリオーレに選出されている。中の一人サルヴェストロは、すでに見たとおり、1378年のチョンピの乱で卓越した役割を演じた。その後メディチ家の有力市民(ポポラーニ)としての声価は庶民の間に定まり、庶民はメディチ家を自分たちの味方、擁護者とみなすようになった。しかしメディチ家の人々は、その農民的な慎重さから、新たな政治階層を分裂させる抗争には距離を置く姿勢を持する。危険で不安定な政治の駆け引きよりも商業活動を好むこうした一族の中にあって、サルヴェストロはその点特殊な例外であったと思われる。 中でも事業に専念したのは、アヴェラルド・ディ・ビッチの子ジョヴァンニ、通称ジョヴァンニ・ディ・ビッち(1360-1429)で、この人物こそがいわばメディチ「王朝」の「始祖」ともなったのである。ジョヴァンニははじめ、一族のヴィエーリから給与を受ける身であったがやがて対等のパートナーとなり、1393年、ヴィエーリが事業から隠退するときにはその出資株の一部を買い取った。97年にはフィレンツェに独自の会社を開き、フィレンツェの他の二名の銀行家と共同でこれを経営する。とはいえ、株式の大半はジョヴァンニの所有だったから、この新会社をメディチ銀行の起源とみなすことが出来るであろう。ジョヴァンニはたちまちにして隆盛を極める銀行の最高責任者という立場に立つが、その隆盛はなかんずくローマ支店の業績によるものであった。ローマ支店は教皇庁と密接な関係を保ち、教皇庁の預金を管理するとともに、これを資本にフィレンツェ,ヴェネツィア、アヴィニョン、ブリュージュ、ロンドンの支店で利殖をはからせたのである。銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチはまた企業家ともなった。1402年、ついで08年に二つの毛織物工場を買収、二人の子コジモとロレンツォを事業に参加させる。各支店の総資本はあわせて二万フィオリーノに上り、利益は莫大なものであった(1397年から1420年までに15万1000フィオリーノ)。収益の四分の三がジョヴァンニのもの隣、以後彼はフィレンツェにおいて注目される銀行家の一人に数えられるようになる。支払った租税の額からそのことは証明されるのであり、1396年には14フィオリーノであったものが1403年に150フィオリーノ、さらに1413年には260フィオリーノ、1427年に397フィオリーノと漸増を示している。この数字は、ジョヴァンニがパンチャーティキ(636フィオリーノ)、パッラ・ストロッツィ(507フィオリーノ)につぐフィレンツェ第三の資産家であったことを意味する。このような経済的地位の向上には、政治舞台への進出が相伴った。1402年以降、ジョヴァンニは何度かプリオーレに、一度はゴンファロニエーレに就任している。そして1408年、フィレンツェ駐在のシエナ大使は、マーゾ・デッリ・アルビッツィ、ニッコロ・ダ・ウッザーノその他の「有力者」と並べて、8人の政治的エリートの一人に彼を数えたのである。しかし、ジョヴァンニは誰にも不安を与えないよう配慮し、対立関係にある党派間の抗争には距離を保つ姿勢を捨てなかった。とはいえ、総利益の半分を生んでいるローマの事業には大いに関心を寄せていたから、当時キリスト教世界を二分していた教会分離の状況のな(70)かでは、1410年教皇に即位したヨハネス23歳の側に立った。ヨハネス23世は1415年のコンスタンツの公会議で退位させられ、長い獄中生活の後、フィレンツェのジョヴァンニ・ディ・ビッチのもとへ身を寄せたのである。ジョヴァンニは皇帝に要求された身代金を支払い、後にヨハネス23世の遺言執行人ともなる。1419年、ドナテッロとミケロッツォに命じて洗礼堂に教皇の墓を造らせたのもジョヴァンニであった。二人の息子コジモとロレンツォに事業をゆだねて1420年に隠退した後は学問に専心し、人文主義者や文学者(ブルーニ、ニッコリ、ポッジョ、マルスッピーニ、トラヴェルサーリ)との交流を深めた。1429年のジョヴァンニの葬儀には、皇帝代理、諸外国大使、フィレンツェ支配層の歴々が参列し、その盛大さはジョヴァンニ・ディ・メディチがフィレンツェ社会に占めていた地位のいかに重要であったかを十分に示している。それにもかかわらずメディチ家の資産――ジョヴァンニ死去の際ロレンツォ・イル・マニフィコが見積もった額は18万フィオリーノ――はバルディ家、ペルッツィ家両「巨人」(ルーヴァー)の富には遠く及ばなかった。たとえばパッラ・ストロッツィのような人は10万フィオリーノの「公債」債権を所有しており、これは年間1000フィオリーノの利――G.ブラッカーによれば「低所得層なら15世帯を維持するに足る額」――を生んでいたのである。しかし、アルビッツィ家が、さらにそれ以前にアルベルティ家やリヌッチーニ家が正解から排除されていたため、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが名誉ある引退を決意したとき、その子コジモには十分に活躍の余地が残されていた。コジモは13歳のときから、父が1402年に買収した毛織物工場の正社員として父に協力、やがて1420年には弟ロレンツォとともに(71)メディチ持ち株会社のリーダーとなっていたが、父の後継者としての地位が決まったときには、フィレンツェにおいて誰よりも注目される若き寡頭政治家の一人とみなされていた(1406年、ピサとフィレンツェの外交交渉の際には、ピサ側から要求された20名の人質の中に加えられている)。
 1434年より1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ ―― コジモはあらゆる点で父の後をつぐにふさわしい人物であった。容貌の醜さ、公衆を前にしての弁舌の不得意、社交嫌いなどが不利な条件となってはいたが、1434年、すでに45歳のコジモには事業に精通した知識と経験があった。その上優れた古典の教育を受けており、ラテン語とギリシア語の知識があった。父親と親しい人文主義者や文人の講義や会話を聞くチャンスもあった。雄弁には掛けていたが説得能力はあり、辛らつな批判精神、人間についての細やかな知識、強固な信仰、農民出の先祖の血を受けたこの上ない慎重さを身に着けていた。政治を動かす隠微な力に対していささかの幻想も抱かず、本心偽装は巧妙を極め、常に単なる一市民として人前に出るよう心がけるとともに、恩顧をもって、味方は元より、危険な相手でなければ敵側の味方まで自分の側にひきつけてしまう能力を持つ人物であった(警戒すべきものに対しては冷酷非情、「腐敗した都市より無住の都市」を好むと言う有名な彼の言葉どおり、国外追放によってこれを排除した)。こうした性格的特長を列挙すれば、そこに「政治から情熱や感情を廃した明敏にして理性的、そして現実主義に徹した」(G.ブラッカー)政治家の、ほぼ完璧な肖像がえられるであろう。 (72)王冠こそ頭に頂かないが、コジモは文字通りの王であった。一見、制度機構を覆す風も見せず先行世代の寡頭政治の方法を継承し、それを完成しながら実質上共和国を君主国へと転化させていったのである。従ってコジモの統治方式とそれ以前何十年かの統治方式との間に形式的にはいささかの断絶も無かった。 コジモはラルガ通りの居館から政治の舵取りをし、自ら実際に要職を占めることはまれにしかなかった。ゴンファロニエーレに三回(1435,39,45年)、特別委員会の成員の一人に7回、警固八人会のメンバーに二回、選挙管理委員に一回なっただけである。その代わり「公債」管理委員にはしばしば就任し、そこから彼の富の一部は生まれたのであった。そして、ある年齢に達すると公務から潔く退く手際のよさ、あるいは巧妙さとも言えるものをも持ち合わせていた。 コジモの統治方式は、N.ルビンシュタインの見事な分析によれば、幾つかの単純な原則に要約される。 その第一は、単なる一市民としての態度を保つと言うこと。第二は政敵を国外追放もしくは豪族リストへの登録(すでに見たとおりこれはあらゆる要職からの追放を意味する)によって排除すること。こうしてバルディ、ペルッツィ、フレスコバルディ、コルシ、ロンディネッリその他の家門、それに人文主義者にして文芸庇護者である清廉の人物パッラ・ストロッツィ、かつて1434年にはコジモのフィレンツェ帰還を援助したその人物まで無力無害の存在にしたのであった。国外追放は被追放者の財産没収を伴ったから、たとえばピッティ家など、コジモと近しい関係を持つ家系は、敗者の犠(73)牲の上に富を増やすことになった。 第三の、そして恐らくもっとも有効な統治原則は、選挙管理委員会に決定的な役割を与えるところにあった。アッコッピアトーレが各評議会の被選挙権者名簿作成を担当していたことはすでに述べた。アッコッピアトーレはコジモが細心の配慮で選んだ者たちであったが、コジモはさらにその任期を延長し、権限を拡大したのである。コジモ自身もその一員であった選挙管理委員会が、メディチ家に対して献身的な忠誠を示したことは言うまでもない。 コジモ<方式>第四の、そして最後の原則は、共和政府の伝統的書記官の上にあってこれら全てを統括し、それらを無力化する特別委員会(バリーア)を増強することである。こうして1438年、一部世論の不満を抑えるために、三年期限のバリーアが設置された。「これは都市政府(シニョリーア)を補佐していたそれぞれ200名、131名の市民からなる二つの評議会に代わるもので、投票,軍事、カタストに代わる税制、疑わしき人物の監視など、あらゆる権限を独占した」(クルーラ)。同じ筋書きが1444年(バリーアが国外追放の10年間延長を決定する)にも、1458年(バリーアは公職担当者を決める抽選を7年間に渡って停止する)にも繰り返される。バリーアの委員は、アッコッピアトーレと同じように忠実な体制奉仕者の中から採用されるので、「共和政体という機構の中にありながら政治を全面的に管理する力」(ルビンシュタイン)をコジモに与えていたのである。 1458年の改革がこうした反対は抑圧政策の総仕上げとなる(これによって反対派は国外追放者の力に頼らざるを得なくなった)。改革は二つの面で行われた。一つは、先に述べたとおりバリ(74)ーアの設置、もう一つは100人の成員からなる新評議会の開設である。100名は全員もと公職にあった人で、勿論コジモの支持者であった。従前の二つの評議会(200人会および131人会)も廃止はされなかったが、これには副次的な役割しか残されなかった。こうして「1434年に始まった改革はほぼ完了する。コジモは、忠実な輩下の手を通じて、国家機構の全体を掌握したのである」(クルーラ)。国外追放や市民権の剥奪は反対派を完全に無力化した。その上政治警察の機能を果たす警固八人会(これは前の政府が設置したもの)によって反政府派の人物は不断の監視下に置かれた。市内でたくまれる陰謀は、「情報収集者」の密なる網の目を通じて、残さずコジモに通報されたのである。反政府派も、ついには政府に同調し、ルーカ・アルビッツィのように、メディチ家の姻戚関係に組み込まれることを望むようになった。コジモはバルディ家の女と結婚していたが、ルーカ・アルビッツィはコジモのいとこを妻とし、そのほかにも幾多の婚姻を通じて、メディチ家の周囲には巨大な閥族が形成されていった。バルディ、ジャンフィリアッツィ、ピッティ、リドルフィ、サルヴィアーティ、セッリストーリ、トルナブオーニなどの家門がそれに数えられる(トルナブオーニ家の女ルクレツィアはコジモの長子ピエーロと結婚、ロレンツォ・イル・マニフィコの母となる)。平民出のメディチ家はこれらの婚姻によって旧貴族家系の仲間入りを果たしたのであるが、それらの門閥同士で互いに縁組しているものもあった(アッチャイウォーリ、アルベルティ、パンドルフィーニ家など)。こうした旧家門に、公務には新参者の富裕商人を加えれば、新しい支配層の一覧表が得られることになる。プッチ家、マルテッリ家、ピッティ家といったポポラーニの家系はわずか数十年(75)の間に隆盛を遂げたものであった。この支配層はメディチ家の権勢を固めるのに十分なほど幅広く、彼らもまたメディチ家とともにその権力から利を受けたのである。手工業者や小企業主など中産市民の人気も新支配層の側にあった。新支配層は、祖先がニ、三世代も前から培ってきたポポロ・ミヌートの好意を我が物として享受したのである。名もないメディチの先祖たちのことも、また一族の一人サルヴェストロがチョンピの乱の始めに果たした役割のことも、庶民たちは忘れていなかった。 コジモは税制の改革をもって一連の事業を完成させる。1443年、50フィオリーノ以下の定額所得に対しては4パーセントと軽く、1500フィオリーノを上回る所得には33パーセントと言う累進課税を、可決させたのである。その後47年に、最低税率は8パーセントに留まっていたのに対し、最高税率は50パーセントにまで上昇した。もっとも、新支配層に親しい人々に対しては、軽減措置や相談ずくの調整がメディチ家に忠実な人々を通じて行われた。その代わり「裁定」は反政府派の人々の税負担を重くすることも出来、その結果、新支配層の敵と目された人の多くが破産の憂き目を見た。敬虔な人文主義者であり学芸の庇護者であったマンネッティもその一人で、彼は15万フィオリーノにのぼる課税を受けた後、国外亡命を余儀なくされた。その間にも、コジモと親しいルーカ・ピッティのような人物は巨額の富を蓄積し、私邸の建設、土地や「公債」債権の取得にそれを投じていたのである(新寡頭体制内部の人々はみなおおむね同じようなことをしていたと言うことが出来る)。従って、当時のある人物の言葉を借りれば、税の徴収は、そのつどコジモの敵対者に突きつけられた「短刀の刃」に他ならなかった。 (76)メディチ家の権勢の基盤は、とりわけ参加の銀行にあり、コジモは父ジョヴァンニ・ディ・ビッチから相続した持ち株会社には何よりも心を配っていた。堅固に組織化された強大なこの会社は、フィレンツェ本店、ローマ、ヴェネツィア、ジュネーブ、アヴィニョン、ブリュージュ、ロンドン、リヨン、バーゼルなどの支店の他、スペインをのぞき、ヨーロッパ各地に出張所や駐在員をおいていた。支店の重要度は勿論それぞれに異なっており、一番高い営業成績を上げていたのはローマ支店である。ローマ支店は教皇庁会計院や教皇庁役職者の預金を主な資金源としており、いわば教皇庁の御用銀行であった。事実各国の支店が取り立てるその地の教皇庁の収入は、すべてローマ支店に入ってきたのである。ローマ支店だけで、メディチ持ち株会社全体の利益総額の三分の一あるいはそれ以上(1435年から51年までの間に8万8千フィオリーノ)の実績を上げていた。ただし、コジモの対ローマ政策が影響して、ローマ支店の教皇庁会計院「預金管理者」としての職能が一時メディチ家から取り上げられたこともある。業績順位でローマ支店に次いだのはヴェネツィア支店であった。しかしこれもフィレンツェ、ヴェネツィア間の紛争が続いた1451年から54年にかけては、明らかな業績不振を示す。1463年に、それまで繁栄していたジュネーヴ支店が閉鎖に追い込まれたのもまた時の対外政策によるものであった。その年、リヨンで定期市が開かれるため、コジモはジュネーヴ支店をリヨンへ移転させなければならなかったのである。ブリュージュ支店は1439年に設置され、営業成績はきわめて良好であった。ブリュージュはイギリス,オランダ,イタリアの通商・金融の合流点になっていたためである。これに比して、共に1446年に開かれたロンドン(77)支店およびアヴィニョン支店の活動は地味なものであった。1440年における持ち株会社全体の資本金は8万8千フィオリーノと見積もられているが、うち7万フィオリーノがメディチ家の出資である。そして、1435年から51年までの利益額は26万フィオリーノを上回っている。コジモはミラノを外交的に援助し、その報酬としてフランチェスコ・スフォルツァから壮大な宮殿の一部を提供されて、1452年、ミラノ支店をそこに開設したが、この支店の利益も加えるならば、コジモの銀行王国が堅固に安定していたことが知られる。にもかかわらず、一対は国際情勢の変化のため、また一つには総支配人ジョヴァンニ・ベンチの後継者たちの経営能力が前任者より劣っていたためにメディチ会社は弱体化の兆しを見せ始めた。ジョヴァンニ・ベンチが1455年に世を去った後、コジモの二人の息子ジョヴァンニとピエーロ(ロレンツォ・イル・マニフィコの父)がこれに代わる。コジモが老齢に達すると、経営を息子たちに任せて、自らは関心を持たなくなってしまったこともまた会社低落の一因であった。1458年、新たに総支配人にすえられたフランチェスコ・サッセッティには前任者ほどの手腕も権威も無かった。メディチ銀行の最盛期は終わったのである。そう入っても総体的に見れば、コジモの事業実績は大きなプラスとなっている。銀行利益のほかに、二つの毛織物会社および絹織物会社の利益が加わるためである。会社の組織は柔軟性に富み、支店は各地に分散、その各支店それぞれが独自の、多様な活動領域を持っていた。各々に固有の法人格があり、仮に支店の一つが株の暴落を示しても、それが会社全体を破産に巻き込むようなことは無かったのである。要するに、コジモが息子ピエーロに残したのは、まだなお大きく強力な銀行、商業の両王国であった。それも(78)ひとえに、コジモが慎重さ、優れた判断力、それに現実感覚を持って経営に当たったからであろう。 コジモが対外政策に適用したのもこの三つの徳である。彼の中心理念は、イタリアに決定的影響力を持つ五大国家(フィレンツェ,ヴェネツィア、ミラノ,ローマ,ナポリ)間の均衡を維持してフィレンツェに平和の時代を保証することであった。 1434年から44年までの間、コジモはミラノのヴィスコンティ家の領土拡大政策の危険に直面しながら、ローマおよびヴェネツィアとの伝統的な盟約に忠実であった。個人的利益と共和国の利益とがそこでは一致していたのである。というのも、ローマ、ヴェネツィア両支店は傘下銀行の中で最も隆盛であり、フィレンツェに身を寄せていた教皇エウゲニウス4世は、1434年、コジモのフィレンツェ帰還の際に決定的な役割を果たしたのであったから。1432年にバーゼルで開かれ37年フェッラーラで継承された、東方教会とローマ教会の統一を図ろうとする公会議が、1439年7月以降フィレンツェで開催されることになったのはそうした事情によるものである。公会議のフィレンツェ開催を永久に記念するため、コジモはベノッツォ・ゴッツォーリに依頼してこれをメディチ宮礼拝堂のフレスコ画に描かせた(1459年)。 フィレンツェが、1440年6月、アンギアーリに侵攻したミラノ軍を撃退、カゼンティーノを併合したり、サン・セポルクロを買収したりすることが出来たのも、背後にロー間、ヴェネツィアとの同盟関係があったからである。 しかしコジモは、個人的にも親しいフランチェスコ・スフォルツァがミラノで権力の座に着くと、(79)1450年、同盟関係の全面的な転換を図った。かつてフィレンツェ市民軍司令官として採用したことのあるフランチェスコに、以後、メディチ銀行ミラノ支店を通じて金融貸付を行うことにしたのである。政府内部にも、一部こうした同盟関係の転換を憤るものはあったが(特にネーリ・カッポーニやジャンノッツォ・マネッティら)、コジモはその反発を無視して、1451年12月、フランチェスオ・スフォルツァとの条約に署名する。この同盟関係は、翌52年、フランス王シャルル7世をはじめジェノヴァやマントヴァにまで拡大され、ヴェネツィア、サヴォワ、シエナ、モンフェッラートを結ぶ同盟に拮抗するものとなる。両陣営の敵対関係は、これといった結果を生むことなく均衡を保った。しかし1453年にコンスタンティノープルが陥落すると、イタリア諸国家は半島内の平和の必要性を認識する。54年にローディの和が結ばれ、翌55年には、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ五国間に協定が成立して永続的な勢力均衡を保証するものとなった。コジモは、ナポリ王国の支配権を巡って争いを続けるアラゴン家とアンジュー家の間に立たされながら常に中立の姿勢を保つと言う犠牲を払って、ローディの和を遵守する。さらに、フランス王ルイ11世の好意を求めることでフィレンツェの安定を図ろうとした。ルイ11世は私的な談話の中で「メディチ家の賢明なる老コジモに統治される多士済々のかの都市フィレンツェに、どれほど賛嘆の思いを抱いているか(P.マリー・ケンドル)を語るのを常としたという。 しかしながら、このように慎重な対外政策も、必ずしもフィレンツェの政治指導者全員の賛同を得られるものではなかった。新しい盟約関係がフィレンツェ共和国よりもむしろメディチ銀行に利をも(80)たらすものであることを、コジモの反対者は指摘せずにはおかなかったのである。この論議は今日に至ってもまだ決着が付いていない。 反面、コジモの文化政策および学芸保護の姿勢を認める点では何の異論も無かったように見受けられる。 当時の学問芸術の発展には、コジモやその一党(ニッコロ・ニッコリ)と同様、反対派の人々(パッラ・ストロッツィやニッコロ・ウッヅァーノ)も貢献している。ギリシアの碩学クリソロラスやアルジロポウロスを招聘、コンスタンチノープルやギリシアからギリシア古典書籍を輸入し、図書館を設立してこれを学者や教養ある人士の自由な利用にまかせたなどは全てこれらの人々の尽力によるものであった。それでも尚、人文主義の誕生や普及にコジモの果たした役割が重要であったことに変わりは無い。侍医の子息マルシリオ・フィチーノの才能の発見などはまさしくコジモの功績である。彼はマルシリオの勉学の費用を引き受けたほか、カレッジの自らの別荘を彼のために開放する。そしてこの別荘がプラトン的アカデミア発祥の地となるのである(このアカデミアについては後に触れることにする)。クリストフォーロ・ランディーノをフィレンツェ「大学(ストゥディオ)」の修辞学教授に登用したのもコジモであるが、「俗語」に対する人文主義者の熱意をよみがえらせたのは、おそらくこのランディーノであったと思われる。コジモはまた、ヨーロッパ全土や近東諸国から購入もしくは手写させた400巻の書籍(のちにはこれにニッコリの蔵書800冊が加わる)をもって図書館を設立した。この図書館の管理を任されたのは後の教皇ニコラウス5世である。図書は始めサン・マルコ修道院に保管され(81)たが、やがてミケロッツォの建築した建物の一室に移され、ここに修道院、フィエーゾレ修道院、ラルガ通りのコジモ邸の蔵書が加わって補完された。さらに古代彫像、宝石、メダルなどコジモの蒐集品を加えなければならない。コジモはまた建築好きでもあった。4万フィオリーノを投じてサン・マルコ修道院を修復させたほか、ブルネレスキに依頼してサン・ロレンツォ教会の修復を行わせている。またラルガ通りの自邸はミケロッツォに建築をゆだね、そのほかカレッジ、カファッジョーロ、トレッビオの各別荘、ミラノの居館、パリのイタリア人学校、エルサレムの病院、フィエーゾレ修道院などを建てた。建築の費用総額は莫大なものである。コジモは彫刻家ドナテッロに対して純粋な好意を寄せ、そのために経済的援助を与えていた(ドナテッロの方でもまたコジモを敬愛し後に彼はその庇護者の傍らに埋葬される栄を担った)。また、サン・マルコ修道院の壁画を描かせた修道士ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレ(通称フラ・アンジェリコ)、教皇の正当な怒りから保護してやったフィリッポ・リッピのほか、気に入りの建築家ミケロッツォを始め、アンドレア・デル・カスターニョ、パオロ通称ウッチェッロ、ベノッツォ・ゴッツォーリらに対しても、経済的な援助を惜しまなかった。 1464年8月1日コジモが世を去ったとき、支持者一党は彼に「祖国の父」の称号を贈った。勿論このような名誉は行き過ぎというものであろう。コジモはフィレンツェ国、ましてやフィレンツェ共和国の創始者などではなかった。それどころか「名称と出生の身分を別にすればすべてにおいて王であった」と教皇ピウス2世が言ったように、共和制の政治的実質を空洞化することにこそ大(82)いに貢献した人物だったのであるから。その観点にだけ立つならば、確かにコジモは、盛運悲運織り交ぜて、三世紀の間フィレンツェに君臨した「王朝」の創始者であった。結局のところ、コジモを「偉大な人物の中に数えるにふさわしい」と評したコミーヌが、正しい見方をしていたと言うことになるであろう。(82)

(中島昭和 渡部容子訳『フィレンツェ史』、白水社・1986年)