2009年4月5日日曜日

イコノグラフィー

イコノグラフィーとは図像の意味を研究すること、つまりルネサンス期のイタリア人が「創意・物語構想」invenzioniとか「物語」istorieと読んだものの内容を研究することである。図像学的・図像解釈学的方法は(多くの場合図像をテクストと照合することによって)図像をテクストであるかのように「読む」試みであり、また意味の異なった諸レベルを区別する試みである。イコノグラフィーは、美術史に対する純粋に形式的なアプローチへの反動として、20世紀初頭にエミール・マール、アビ・ヴァールブルク、エルヴィン・パノフスキーらによって発展させられたが、イコノグラフィーは今度はイメージの「言説的」な側面とされていたもの、還元すれば言語の影響を示す特徴を「形象表現的」な側面を犠牲にして優先する、と言う批判或いはイコノクラスムを引き(260)起こすことになった。その重要性については議論の余地があるとはいえ、ルネサンス美術へのこの種のアプローチは依然として必要不可欠なものである。 美術の社会史にとって、いかなる図像が当時好まれたのかと言う問題は重要であるが、それに答えるのは思うほど容易ではない。例えばルネサンスのイタリア絵画の完全なカタログは存在しないので、サンプル研究に頼るほかは無い。存在するのは年記のある絵画のカタログで、これには1420-1539年の間の2229点のイタリア絵画が含まれている。2033点の作品には主題が記されている。これらのうち1796点は宗教画であり、237点は世俗画で、その内約67%は肖像画である。宗教画のうちでは約半分が聖母マリアを描いたものであり、約四分の一がキリストを主題にしたもの、そして23%が聖人に関するものである(残りは父なる神、三位一体、旧約聖書の場面など)。 こうしたサンプルは信頼に足るものであろうか。そこには二つの問題がある。一つは残存する絵画や年記のある絵画が当時描かれた作品の全体を代表しているわけではない、と言うことである。廃絶されることの無い教会によって委嘱された作品が、個人コレクションのために委嘱された作品よりも保存される度合いが高いことを考えれば、世俗画の13%という数字は低すぎると言えるだろう。この数字は最小値とみなすべきである。特に、年代記のある絵画の数が、1420年代にはたった31点だったのが、1510-19年の10年間には441点と着実に増加していることを考えると、年記のある作品だけを取り出すと言う事も客観性をゆがめていると言えるかもしれない。他の場合と同様、この場合も、ルネサンスの後半期の史料に基づいてこの時代全体を一般化することは危険である。しかしこうした危険を承知した上であれば、統計の数字を用いる事も有益であり、そこから意味を引き出すことが出来るだろう。 現代の読者にとってはキリスト教文化においてキリストの絵が聖母マリアの絵の半分しかなく、諸聖人の図像と比べても僅かに多いだけであるということは驚きであろう。キリストは13世紀には、少なくともフランスではさらに重要性が低かったこと、またルネサンスの前半よりも後半のほうが多く描かれるようになった事も付言しておくべきだろう。少なくともこうした見方に立てば、宗教改革は中世後期の趨勢に対する反動と言うよりもその極点であったと言える。キリストの絵は一般に、その生誕や受難、死や復活を表し、それ以外の主題はまれであった。こうした主題のパターンは明らかに宗教的祭儀と結び付けて説明すべきものである。クリスマスや復活祭は過去に於ても現在でも最大の宗教的年間行事である。さらに「東方三博士magiの礼拝」が「キリストの降誕」から切り離された場面として描かれるのは、この主題がそれ独自の祝祭、つまり公現祭を持っているからである。 この時代のイタリア絵画には数え切れないほどたくさんの聖人が登場する。現代の美術鹿の誰が(あるいはルネサンス期の聖職者の誰が)聖エウスペリオ、聖エウプロ、聖クィリコ、聖セコンディアーノなどの象徴物を確実に特定できるであろうか。これらの聖人はパヴィアにおいてはそれぞれに奉献された教会堂を持っていたのである。どの聖人に一番人気があったのだろうか。先にあげたサン(262)プルにはちょうど100人の聖者が登場する。[当時盛んに取り上げられた聖人。洗礼者聖ヨハネ、聖フランチェスコ、聖カタリナ](264)マリアやキリストや聖人たちのイメージは言うまでも無く信仰上の理由で注文されたものだが、これらはわれわれに物言わぬ大衆の文化と言うものを垣間見させてくれる。とはいえ、この時代に世俗画への関心が、とりわけルネサンス運動に携わった諸サークルの中で次第に高まった事も確かな事実である。フェデリーコ・ゴンザガは、セバスティアーノ・デル・ピオンボに作品を委(265)嘱した手紙で、自分は「聖人画」は望んでおらず、「見て魅力的で美しい絵」を所望していると述べている。彼の考えは時代の傾向を良く示しているように思える。 ……世俗画の多くは肖像画であった。15世紀前半までは世俗的肖像画は比較的少なく、もっぱら聖人像ばかりであった。…… しかし美術史家がもっとも問題としてきたのは物語画のイコノグラフィーについてである。(この「物語画」は古代の神話の場面の事もあれば、古今の歴史のエピソードのこともあり、或いはどちらとも決めがたいものもあった)。ルネサンスの最もよく知られた絵画のいくつかは、こうした古代神話の場面を描いたものである。これらの作品は古代の―――そしてルネサンスの―――人気ある神話の(266)手引きであったオウィディウスの『変身物語』metamorphosesと密接な関係を持っている。例えばティツィアーノの『バッコスとアリアドナ』はオウィディウスの巻8を図解して[いる]……。 主題それ自体が当時の鑑賞者にとってどれほど重要だったのかを言うことは非常に難しい。聖セバスティアヌスやヴィーナスが主題として選ばれたのは、主としてそれ自体のためだったのか、それとも美しい裸体を描く口実としてだったのか。…… 最も興味をそそる記述史料はわれわれが「風景」と呼ぶものに関するものである。と言うのも(267)それは絵の背景に対する自覚の増大、さらには風景をまことの主題とみなすような考え方への転換を示しているからである。…… ルネサンス絵画の幾つかの作品が、文学作品と同様、隠された意味を込めようとしてきたことは明らかである。こうした場合がどれほどあったのか、その意味は何であり、どれのほどの同時代人が(268)それを理解していたのか―――これらは議論を要する問題であるが、明確な答えを出すことは難しい。 ……文学では隠された意味が少なくとも注釈の中で明示される……。当時の人々は文学作品の中に隠された意味を探すのに慣れていた。と言うのも彼らは説教壇から聖書が4つの異なった解釈―――文字通りの意味、寓意的、道徳的、類推的意味―――を持っていることを繰り返し聞かされていたからである。何人かの人文主義者は世俗文学のうちにも隠された意味を探したが、彼らは神学者が聖書に対して行ったように常に周到に寓意的・道徳的意味を識別したわけではなかった。14世紀にはペトラルカ、ボッカチオ、サルターティのいずれもが、古代の神話を「詩的神学」と解釈していた。……注釈者たちはウェルギリウスやオウィディウスのような古代の著述家、或いはペトラルカやアリオストのような当世の詩人の一見世俗的でたわいの無い文面を取り上げて、隠された意味(宗教的・哲学的意味)を説いたのである。……12世紀以来、オウィディウスを(269)「教訓化する」こと、つまりその詩に寓意的解釈を与えることが習慣になった[ボンシニョーレ等]。……アリオストもルドヴィーコ・ドルチェによって同じように寓意的に解釈されている。……これらの解釈は「寓意」allegoryと呼ばれているが、現代的な言い方をすれば「象徴」と言うほうが適切だろう。ボンシニョーレがオウィディウスの登場人物を抽象的な特質の擬人化として解釈しているのに対し、ドルチェはアンジェリカとルッジェーロの行為から人間の本性を一般化しているだけである。 [隠された意味は当時の読者にかなりの訴える力を持っていたものと思われるが、それが作者によって意図されたものなのか、注釈者によって読み込まれたものなのかは、どちらとも受け取れる。こうした印象は、絵のことを考える場合にも念頭におく必要がある。]旧約聖書の場面を描いた作品は……やがて起こるべきことを目に浮か(270)べながら読み取られたらしい。言い換えれば旧約聖書の登場人物は新約聖書の「予型」typeあるいは「予表」figureとして見られていたのである。エヴァとユディトはともに聖母マリアの予型とみなされた。……それに対して、新約聖書の場面はそれ自体のために描かれたが、場合によっては微妙な神学的意味を付け加えられることもあった。…… ここで最後に、議論の多いルネサンスの世俗絵画の問題と、その道徳的・寓意的意味に目を向ける(272)のが無難であろうルネサンスの末期になると、記述史料は時として過剰なくらい豊富で正確になる。例えばヴァザーリの場合には、自分の意図をかなり詳しく説明している。彼は自分が描いた故ロレンツォ・デ・メディチの肖像の背景には、壺、ランプ、その他のものが描かれているが、それらは「大ロレンツォがその卓越した方法によって……彼の光栄とこの素晴らしい都市に光明を齎した事を示している」と書いている。……それに対して、15世紀の絵画は多くの問題をはらんでおり、とりわけボッティチェリの作品は長い間学問的論争の対象となってきた。例えば彼の『春』は花の妖精フローラと「五月」を歌ったオウィディウスの詩『祭事暦』の一場面を描いたものであるが、しかしそこには詩のテクストに述べられていないものが多く見られる。人文主義者は、すでに見たように、しばしば古代の神々を道徳的ないし肉体的特性のシンボルと解釈した。フィチーノは「マルスは迅速を、サトゥルヌスは緩慢を、太陽は神を、ゼウスは法律を、メルクリウスは理性を、としてヴィーナスは人間性を意味する」と書いている。……ボッティチェリの『パラスとケンタウロス』も、パラス・アテネ(:ミネルヴァ)を知恵の寓意、飼いならされたケンタウロスを獣的情熱の寓意として、道徳的に(274)解釈することが出来る。……当時の人々の多くがこの種の寓意的な意味を期待して絵と向き合った。 当時の人々はまた作品の中に隠された政治的意味を読み取ろうとした。……絵画や彫刻にその作者や注文主が意図していなかった意味を投影しないためには、まず文学からはじめることが賢明であろう。文学では隠された政治的意味をはっきりした形で議論できるからである。アリオストの『狂乱のオルランド』の序文では、詩は「優れた君主の賢明さや正義」と「凡愚な王の短気や軽率さ」を対比させることによって政治的なメッセージを伝えることが出来ると述べられている。……マキャヴェリはウェルギリウスを政治の権威として挙げ、新しい君主がすでに権力を確(275)立した君主よりも残酷で在らねばならない証拠としてディドーのアイネイアースへの弁明を引用している。……絵画や彫刻もまた政治的な意味を担っている場合がある。描かれた人物像が外見的な主題とは別の何者かを暗示している場合、それはアレゴリーと言うことになろう。こうしたアレゴリーを解読することは必然的に推論的なものになり、解釈は錯綜することになるが、解釈を試みること自体は時代錯誤ではない。中世と同様、ルネサンスに於ても存命中の人物を「新しい」「第二の」~~と呼ぶことは珍しくなかった。例えば(276)サヴォナローラはフランス王シャルル7世のことを「新しいキュロス」とか「新しいカール大帝」と呼んだ。こうした比ゆは、……旧約=新約聖書の予型論の一種の世俗版といえる。……とりわけ入念な政治的アレゴリーは、ラファエッロが教皇ユリウス2世とレオ10世のためにバチカン宮殿に描いた壁画に見られる。……当時のイタリア人は、ユリウス2世自身を含めて、1494年以降イタリアを侵略した外国人たちをしばしば「蛮族」barbariと読んだが、[『アッティラの撃退』]の壁画は二つの蛮族の侵略を比ゆ的に扱っているのである。ラファエロが描いたのは、教皇レオ3世がサン・ピエトロ大聖堂でカール大帝に戴冠する場面と、教皇レオ4世がサラセン人に対するキリスト教徒の勝利を神に感謝する場面である。同時代との比ゆ的関係を強調するために、ラファエロはこの二人の教皇に彼らと同名のレオ10世の容貌を与えている。しかしこれらの壁画を当時の事件への注解に還元することは誤りであろう。ボッティチェリの『コラの懲罰』と同様、これらの壁画が表している政治的意味は本質的に極めて一般的なもの―――絵画による教皇の権威の正当化―――である。……(277)今日これらの壁画にこめられた政治的メッセージや歴史的比喩が十分な力を持ってわれわれに伝わらないとしたら、その理由のひとつはわれわれの多くが初期中世の教皇史やマカベウス書、民数記に十分親しんでいないからなのである。……当時の人々の作品の読み方や反応について……ラファエロの場合が暗示的であるといえよう。バチカン宮殿は一般大衆には公開されておらず、彼の絵画を目にすることが出来たのは教皇の宮廷の人々だけであった。……同時代の情報通の人々でさえそれらの絵を解読することは難しかった。ヴァザーリはジョルジョーネの伝記の中で、彼の絵の幾つかは理解できないとこぼしている。……(278) たいていの世俗画は恐らくかなりの数の人々にとって理解可能だったに違いない。ギリシア・ローマの歴史の場面は文法学校に通っていた人なら難なく理解することが出来たはずである。文法学校ではオウィディウスについても教えられ、オウィディウスは古代神話の多くの場面を理解する鍵を提供した。15-16世紀には、人文主義的教育が普及するにつれて、こうした絵画を理解する人々の数も増大したものと思われる。宗教画は、聖人の伝説が最早文化の一部ではなくなってしまった現代の観者には困難を感じさせるかもしれないが、定期的に説教を聞き、宗教劇の上演を見ていた当時の人々―――つまり大多数の都市民衆―――にとっては、それを解読することは別に難しいことではなかった。 どのような美術や文学作品が、どのような集団に理解され、どのような心的習性によってそれらが解釈されていたのかを見出そうとすれば、いっそう広い問題、すなわちルネサンス期のイタリア人の世界観の問題に突き当たる。(278)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)