2009年4月5日日曜日

パトロンと注文主(市場の発生)

市場の発生 (187)印刷術の発明は、時と共に文学パトロンの衰退をもたらし、種々のパトロンは印刷業者や無名の読者大衆に取って代わって行った。この時代には、しかし新しいシステムは古いシステムと共存し、相互に影響を与え合った。パトロネージの商品化(即座の現金報酬を当て込んだ著作物の献呈)や複数の人物への献呈の実例も見出せる。マッテオ・バンデッロは彼の短編集の各物語を別々の個人に献呈した。被献呈者の何人かは彼の友人であったが、多くの場合はファルネーゼ家、ゴンザガ家、ス(188)フォルツァ家といった貴族であり,当然彼らからの見返りを期待していたのである。出版業者もまたパトロンを探した。1501年にアルド・マヌツィオがウェルギリウスの有名な八つ折版本を出版したとき、彼はあたかも写本のように見える羊皮紙版を何部か刷り、イザベラ・デステのような重要な人物に贈呈している。 文学史上の発生に伴い、ジョリートやジュンティ一族のような成功した印刷業者=実業家が登場する。印刷本は、当初は機械で「掛かれた」写本と見られていたが、次第に規格化されたサイズと価格を持つ商品と見なされるようになった。1498年にヴェネツィアの印刷業者アルド・マヌツィオが出したカタログははじめて価格を明記し、又1541年のアルディーネのカタログは「フォリオ(紙葉)」「クァルト(四つ折)」などの用語をはじめて用いている。新しい商品の販売は新しい宣伝手段に助けられた。印刷業者は本の巻末に、散文や詩で、読者に他の作品も見に店に来るように呼びかける宣伝文を刷り込んでいる。例えばアリオストの『狂乱のオルランド』の巻末には次のような宣伝文がすられている。「『狂乱のオルランド』や同じ著者の別の作品を買われたい方は、どなたでも、ベネデットおよびアゴスティーノ兄弟のビンドーニ出版社にお立ち寄りください」。ガブリエーレ・ジョリートのように、ルドヴィーコ・ドルチェのような職業的な著述家を雇って、自分のために執筆と翻訳、編集に当たらせていた印刷業者も見られた。16世紀中ごろのヴェネツィアに「売文業者通り」が存在した背景にはこうした事情があった。商業的な回覧新聞avviso―――特にローマではやっ(189)た―――や「職業的劇団」commedia dell’arteが誕生したのも、ちょうど同じ16世紀中ごろである。 視覚芸術に於てもまた、市場システムの発生が見られ、顧客はしばしば仲介人を通じて、「既製の」作品を買うようになった。この美術市場は、パトロンや注文主と言ういっそう重要で良く知られた個人的システムと共存していた。非注文作品を販売していた例は少なくとも14世紀にまで遡る。聖母マリアやキリストの磔刑、洗礼者聖ヨハネに対する需要は非常に高かったため、工房では特定の買い手を念頭におかずにそれらを作る事が出来た。美術作品を他の商品と同じように取り扱う商人も居た。例えば「プラートの商人」フランチェスコ・ダティーニがその一人である。有名な彫像の安価な複製品もすでに15世紀のフィレンツェでは作られていた。 15世紀には、既製の作品がいっそう一般的になる傾向が見られた。フィレンツェ人のバルトロメオ・セッラーリのような何人かの承認は,いまやこうした商品を専門に扱うようになっていた。セッラーリはメディチ家のために古代の大理石彫刻を求めてローマに出かけ、アルフォンソ・ダラゴーナのためにフィレンツェに作品を発注し、ドナテッロやフラ・リッポ・リッピ、デジデリオ・ダ・セッチニャーノに仕事を頼んでいる。彼は又彩飾写本やテラコッタの聖母像、チェスセットや鏡も扱っている。ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチは、アッタヴァンテ・デリ・アッタヴァンティのような写本彩飾画家と、(190)彼らが面識を持たない顧客達―――ウルビーノ公フェデリーコやハンガリー王マッティアス―――の間を取り結ぶ仲介者でもあった。 この時代には複製品の売買も重要性を増した。宗教図像の木版画は印刷術が発明される少し前から造られ始めた。15世紀後半には、1468年の教皇と皇帝の会談のような時事的な主題の木版画も登場するようになる。印刷術の発明後は本の挿絵が重要になった。アルド・マヌツィオはダンテ、ペトラルカ、ボッカチオなどの有名な挿絵入り版を出版している。1470年ごろのフィレンツェでは、デッラ・ロッビア工房が「インプルネータの聖母」の小型レプリカのような、安価で規格化された、恐らくは非注文品の彩陶彫刻を盛んに製造していた。15世紀に発展を見たもう一つの分野は、マヨリカ、つまり絵付錫釉陶器の壷や皿で、ボローニャやウルビーノ、ファエンツァなど各地で生産された。これらのマヨリカは安価なためつつましい職人でさえ買う事が出来た。 16世紀には、美術品の売買はさらに重要なものになった。例えば、イザベラ・デステは他人が注文した絵や彫刻を買い取ろうと算段している。1510年にジョルジョーネが死んだとき、彼女はヴェネツィアの商人に宛てて書いている。   :私どもの得た情報では、画家ゾルゾ・ダ・カステルフランコ(ジョルジョーネ)の遺産の中に、非常に美しくて独創的な夜の絵があるとの事ですが、若しそうであれば、それを入手したいと思います。そこで、ロレンツォ・ダ・パヴィアと誰か絵に理解と判断力のある人を連れ(191)て、それが本当に逸品かどうかを見に行って欲しいのです。もし逸品であればこの絵を私のために入手する手立てを打ち、値段を設定して、私にご一報ください: しかし、答えはジョルジョーネの画室に残されたこの種の二枚の絵は注文によって描かれたものであり、注文主は手放す気は無い、というものであった。ここでも他の場合と同様、イザベラは時代をほんの一歩先取りしている。 その一年後の1511年、今度は画家のほうが注文を受けていない作品をゴンザガ家に売り込もうと働きかけている。ヴィットーレ・カルパッチョはイザベラの夫君マントヴァ侯ジャンフランチェスコ2世にあてて見知らぬ人物に示唆されて、エルサレムを描いた水彩画が手元にあると書いている。「と言う次第で、私の名と作品に殿下の注意を促すべく、こうして手紙を差し上げる事にした次第です」。この言い訳がましい前置きは、こうしたやり方で絵を売り込む事がまだ極めてまれであった事を示している。しかし1535ねんに、 ジャンフランチェスコの息子フェデリコは、120点のフランドル絵画のコレクションを一括して購入している。 イザベラ・デステは、作品の以来をまとめたり既製品の絵画の値踏みをするために代理人を雇ったが、彼らは常勤の専門的美術商ではなかった。……(192)ヴァザーリが語るには、アンドレア・デル・サルトの作品をフランソワ1世に売った「商人達」は、画家に支払った4倍の金額を王から受け取ったという。 16世紀のフィレンツェには非注文品の売却に関する別の事例もある。熱心な収集家オッタヴィアーノ・デ・メディチは別の人間の注文で描かれたアンドレア・デル・サルトの二点の絵を購入している。例えばバンディネッリは『キリストの十字架降下』を描き、それを金工師ジョヴァンニ・ディ・ゴーロの工房に「公開展示した」。ヴェネツィアでも美術市場の記録が残っている。再びベッリーニの『キリストの降誕』に戻るが、ある時点でイザベラ・デステとの交渉が決裂しそうになったとき、画家は彼女に「絵を買いたい人を見つけましたので」(193)と伝えている。ティツィアーノの肖像画はモデルになった人物以外の人間によって買い取られたが、その最初の事例として知られるのは、1536年に「青い服の婦人」を買ったウルビーノ公である。ヴェネツィア居住のカタロニア人、ズアン・ラムは16世紀はじめに画商として活動していたらしい。ヴェネツィアでは聖母被昇天祭の週間に絵の展覧が行われ、パドヴァでは聖アントニオのお祭りの際に絵が展示された。 16世紀には不特定の大衆に売る目的で作られた木版画や銅版画はさらに普及した。何人かの画家はこの新しい表現手段を専門とするようになった。例えば風景版画を専門としたジュリオおよびドメニコ・カンパニョーラや、レオナルドやラファエッロの絵画の銅版複製画を作って彼らの作品を広く世に知らせたマルカントニオ・ライモンディが挙げられる。ヴァルター・ベンヤミン(1936)のような批評家が嘆いた機械的な複製芸術の時代は、それが一般現象と化するよりずっと以前に始まっていたのである。 16世紀中ごろにおいては、作品売買のシステムは個人的なパトロネージ方式と張り合うにはまだ程遠い状態にあった。新しいシステムが支配的になるには、我々は17世紀まで、つまりヴェネツィアの商業的オペラ劇場やオランダ共和国の美術市場の誕生まで待たねばならないだろう。 ルネサンス期のイタリアで芸術が繁栄したのは、フィラレーテが前述のエピグラフで示唆しているように,パトロンのおかげであったのか,それともミケランジェの場合が示すように、パトロンの(194)束縛にもかかわらずであったの、かと言う問題に直接答える事は不可能である。したがって我々が議論しうるのは、パトロネージとイタリアの各地方間における不均等な芸術発展との間のいくらか複雑な関係だけである。 前章では、美術がとりわけフィレンツェとヴェネツィアで繁栄した理由として,これらの都市が自分の町から多くの美術家を生み出した事を指摘した。しかしそれで問題が片付くわけではない。美術家や文学者をよそからひきつけた都市も存在した。ローマがその顕著な例であり、教皇(ニコラウス5世とレオ10世)や枢機卿のパトロネージがそれを例証している。ウルビーノ、マントヴァ、フェララもその町出身の重要な芸術家が殆ど居なかったにもかかわらず、重要な文化中心地となった有名な都市の例である。三つのいずれの都市においても、刺激はパトロンによって、つまり君主かその公妃によって齎された。……イザベラ・デステとその夫君が、ベッリーニ、カルパッチョ、ジョルジョーネ、レオナルド,マンテーニャ、ペルジーノ、ティツィアーノ,その他のマントヴァ外の美術家に作品を依頼した。…… これらの小宮廷では、パトロン達が以前には何も無かった所に芸術を開花させたように思え(195)る。しかしながら、こうした命題は二つの条件付で考える必要があろう。第一に、こうしたパトロネージはフィレンツェやヴェネツィアのような大中心地の芸術に規制したものであり、それらなしには不可能だったと言うことである。第二の問題は君主のパトロネージが長続きしなかったことである。ナポリの君主アルフォンソ・ダラゴーアの例を取ってみよう。彼は多くの分野にわたる熱心なパトロンであった。彼は五人の人文主義者(パノルミータ、ファツィオ、ヴァッラ、デチェンブリオ兄弟)を恒常的に召抱えた。彼は22人からなる聖歌隊を創設し、専属のオルガン奏者に年120ドゥカートの高額の給与を支払った。又ナポリの宮廷に画家ピサネッロを呼び、ミーノ・ダ・フィエーゾレやフランチェスコ・ラウラーナのような彫刻家に仕事を頼んだ。またフランドル製のタピスリーやヴェネツィアのガラス器を購入した。しかし王の死は「ナポリの人文主義者の平和な日々に終焉を齎した」。なぜなら王の息子や後継者は「もはや学者や文化人を手広く支援しなくなり」又ナポリの貴族達はアルフォンソの例に倣おうともパトロネージに関心を払おうともしなかったからである。 アルフォンソとは対照的に、ロレンツォ・デ・メディチはパトロンとして何一つ欠けるものが無かった。フィレンツェに住み、どんな大芸術家ともすぐに会うことが出来たし、芸術家を遠くから招く面倒とも無縁であった。彼は孤立したパトロンではなく、自分の街の大小多数のパトロン達の一人だった。彼のパトロネージの重要性は過去にはやや誇張されすぎた嫌いがある。しかしここで問題なのは彼のパトロネージの範囲ではなく、その容易(196)さである。パトロネージもその構造を持ち、イタリアのある地域では容易であり、別の地域では困難が伴った。 市場の誕生によって、美術家や文学者は、いっそう多くの不安定と引き換えにいっそう大きな自由を得たように思われる。それは複製品の隆盛と大量生産まで引き起こした。それはさらに、主題の多様化と、第1章で述べた様式の個人主義を促進したと考えられる。つまり、美術家は購買者の目をひきつけるために独創的な特性を開拓する必要に迫られたのである。(196)

(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)