霊魂と身体(180) キリスト教中世に対し、ルネサンス期には信仰心が薄れ、異教になじんだとする単純な図式がある。……E.ジルソンによれば、ルネサンスは中世か(181)ら神を差し引いた時代であった。一神教の神が治める中世世界が去って近世は装いも新たに、ヴィーナスやディアナなどの異教神たちが舞台前面に登場した……。 この時代の思想家もまた異教的伝統との関連から、キリスト教信仰の深浅が問われる。本論のマルシリオ・フィチーノ……は聖書に異教的寓意を探す一方で、異教思想にキリスト教徒の神秘的類似性を見出そうとした。……E.H.J.ゴンブリッチはフィチーノの著書や書簡を元に異教神話を主題とするボッティチェリの図像解釈を試み、次のように述べた。古典的表象が新プラトン主義的思想という溶媒の中で形を変えられたことにより、中世までの宗教崇拝の領分であった情感領域を世俗美術―――これ自体はルネサンスに生まれたものではなく、中世にもあった―――に開放する歩みが可能になった、と。近代の宗教感情とその表出は、(182)ルネサンス期にフィチーノら新プラトン主義者の開拓した異教古代への接近法によって、新段階を迎えることになる。 古代神学 通例、キリスト教信仰が異郷古典思想と間に調和を保っている場合、ルネサンス思想にはキリスト教的人文主義の名称が積極的に付与され、これを成し遂げたものはキリスト教的人文主義者と呼ばれる。だが、大著『プラトン神学』を表し、『キリスト教論』を書いたフィチーノがそう呼ばれることはまず無い。むしろ異教の歴史をキリスト教のそれと関連付け、結合しようとするフィチーノのこの努力は往々にして、その信仰心の根本を疑わせてきた……。 フィチーノは、1433年にトスカーナの町フィリーネで生まれ、……1499年にフィレンツェに郊外でなくなった.多くの著述とおびただしい数の書簡執筆、そしてプラトン主義関連の精力的な翻訳活動は、主として共和国の都市国家フィレンツェの市内と郊外のカレッジで行われた。この間、フィレンツェとフィチーノにとって画期的な事が数々起こった。39年には、東西両教会の統合を視野に入れた公会議がフィレンツェで開催された。ヨーロッパ東側はオスマン・トルコの脅威にさらされている時代だった。このとき、ビザンティンの貴顕の士が多数訪れたが、その中には、ギリシアの学者プレトンの異名をとるゲオルギオス・ゲミストスやべっさり音らの姿があった。プラトン主義の発展にとって、意義深い来伊であった。 一説によると、フィチーノのプラトン・アカデミー創設の起源は、反キリスト教の哲学者、このプレトンの同地滞在によるという.50年代後半には、もう一人のギリシア人、アルギュロプロスがフィレンツェ大学に着任し、古代哲学の研究はさらに深化(184)する。 34年から60年間続いたメディチ家の時代が終わり、94年に同家がフィレンツェから追放される。代わって、厳格なドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラが神政政治を敷くことになる。サヴォナローラが火刑死にあう98年までの4年間が神政政治の期間であった。サヴォナローラが激越な悔悛説教を行い、「虚栄の償却」を行っていた期間、およそ30年続いた「プラトン・アカデミー」の活動は下火となっていた。フィチーノは始め、この修道士を支持していたが、最終的には偽預言者として、名を名乗らずに告発した。このアカデミーは大学とは不即不離の関係を有しながら、フィチーノの文化活動の根底をなしており、メディチ家からの理解と支援の賜物であったと目されている。フィチーノの生涯からも、禁欲的なキリスト教的価値観に対する異教文化としてのルネサンス像が浮かんでくる。 時代のみならず彼個人の異教性に着目し、これを際立たせようとする観点は、人文主義や宗教観を巡ってイタリア・ルネサンス思想をアルプス以北の宗教改革思想から区別する、時代の歴史的評価と関わることとなり、またそれゆえに事は重大である。日本ではもっぱら、先の「キリスト教的」という形容句はアルプス北側の世界の話である。たとえば、アンジェロ・コルッチ(1474-1549)のような人文主義者の存在は知られていない。メディチ家出身のローマ教皇たちの秘書だったと紹介すれば、(185)それだけで「キリスト教的」世界と縁遠い学者と即座に反応があるだろう。フィチーノもまた、この教皇たちと繋がっていた。何ゆえフィチーノはキリスト教的自分主義者と呼びがたいのだろうか。宗教改革以前の人物だからであろうか。それともそのような価値付けが無意味な近代の世俗的人間であることを強調したいのだろうか。 彼が生涯を通してプラトンとその伝統を伝える文献の翻訳注解に取り組んだ中で、『聖パウロのローマの信徒への手紙注解』はその最後の仕事となった。未完成のままに残ったとはいえ、同注解が最後の仕事となったことは象徴的である。なぜなら「彼によって古典的根源に帰れとの標語の元にプラトンとパウロとが結ばれ、古代哲学とキリスト教信仰の間の障壁が除かれ」、聖書解釈の新基軸となったからである.その未完の業をある意味では受け継ぎ、発展させたのがジョン・コレット(1466頃―15(19))である。コレットはフィチーノと違い、キリスト教的人文主義者の一人に好んで分類されている。英国ケンブリッジでイタリア帰りの人文主義者たち、グロシンやリナカーの講義を開始した。その後さらに『パウロのコリントの信徒への第一の手紙』の講義が続き、エラスムスのような熱心な受講生を見出していく。 コレットがフィレンツェを訪れたとすれば―――可能性は十分にある―――、そのとき市内ではサヴォナローラの説教が評判になっていたであろうし、フィチーノは主に市外で暮らしていたであろう。コレットがフィチーノから影響を受けたことは著作研究から認められていたものの、具体的関係は必ずしも明瞭ではなかった。だが、近年発見された往復書簡から、面識があったとはいいがたいが、両人が互いを知り、青年コレットが老フィチーノの熱烈な賛美者であった事が判明した。この新発見に基づく研究を発展させて、彼らを比較考察すると、イタリア人は顕著な異教的傾向を持ち、キリスト教教義から逸脱している、と力説されるに至った。ここでは、彼らの相違点の中から、特にマクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)の関係、および人間における身体と霊魂の関係に考察を加えることで、フィチーノ思想の非キリスト教的所以を見ておこう。
哲学の役割(187) 一般的に、人間を肉体と霊魂、心身の統一体として理解するのはヘブライ的・キリスト教的伝統であり、霊魂にのみまことの人間を認めるのはプラトン的伝統であった。勿論両伝統間の交流を否定するのは正しくない。ミクロコスモスとしての人間観はギリシア以来の長い伝統を持ち、中世のキリスト教思想にも流入する。トマス・アクイナスによれば、人間がそのようであるのは、物体的(質料的)身体、植物的および感覚的能力、理性的霊魂を有するからであった。これは万物の創始者である神の人間と「存在の階梯」との間の類似をいっそう推進したのはジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラであり、またコレットであった。コレットはピコからも学ぶところがあった。そのコレットの『パウロのコリントの信徒への第一の手紙解説』によると、人間はミクロコスモスで全宇宙の要約であるから、その霊的能力では9階級の天使に似ている。こうして人間はその身体のうちのよりすぐれた部位では天に、その最下等な部位では月下の世界に相似している事になる。身体は霊魂と一如であり、マクロコスモスたる宇宙のヒエラルキアに対応する場所がある。 ところがフィチーノにあっては、しばしばプラトン風に霊魂だけが問題になり、身体が全的人間から切り離されてしまう。そのためフィチーノは霊魂の先在にさえ言及しているように思われる。それは『プラトン神学』冒頭で言われるように、「闇と薄暗い牢獄」に降りてきたかのようである。フィチーノの思想では、宇宙のヒエラルキアはもっぱら人間霊魂の種々の部分に反映されるだけで身体が抜け落ちている以上、ピコ、さらにコレットとは大きな隔たりを示す。彼らは従ってフィチーノと違い、「フィチーノの先在や霊魂のみが真の自己とする異端説」に陥らずにすんだというわけである。フィチーノは肉体から霊魂が分離されて、つまり身体およびその諸感覚の惑いから精神(知性)が浄められて神を認識する事が出来るとみなした。 ここで重要になるのが哲学の役割であり、哲学者のあり方である。道徳哲学は魂を身体への情熱から、思弁哲学は理性を感覚から切り離してくれる。プラトンが『パイドン』(64A)で言うように身体からの霊魂の解放が死であり、このような死について思索(189)する―――いわゆる「死の訓練」のこと―――のが哲学者であった。それはパウロにも類似の表現が見出されるものの、この場合はキリストと共によみがえるために罪を超越することに力点があり、霊(魂)のみで生きて神の認識を得るために肉(身体)を超越しようとしているのでは決して無い。フィチーノは現世に於てもそのような死が可能であると信じていただけでなく、少数のものには神との神秘的合一も起こりうると考えていた。これに対しコレットは分離を認めなかった。1311年のヴィエンヌ公会議を持って教会の教義に迎えられて久しい、霊魂は身体の形相であるというアリストテレス説がこの分離を排除していたからである。「実際のところ、フィチーノが「身体からの霊魂の」解放vacatioを弁護する際に、そのアリストテレス説を否定したのはまさにこのためであった。そしてこの分離は、霊魂の不滅を証明するために不可欠な論拠として、フィチーノにより強調されている。 (190)さて、かつてのオリゲネスなどのように、「先在や霊魂のみが真の自己とする異端説」をフィチーノは真剣に受け止めていたのだろうか。あるいはそのため、同時代おマッテオ・パルミエーリのように異端的傾向は否みがたいと見られたのだろうか。確かにその種の逸話に欠けていないといっても、フィチーノは現世における身体活動を無視したわけではまったく無かった。また、キリスト教徒として復活に言及するとき、それが肉体を伴うことに代わりは無かった。キリスト教の立場からプラトン思想に対してなされた厳しい批判の一つにその輪廻説があるが、フィチーノがプラトンを弁護するために持ち出した考えは、これをプラトンによる肉体復活の予言と見る予型論的解釈であった。 『プラトン神学』冒頭は極めてプラトン的、かつ大変印象的である。だが、ここには修辞的側面が無いとは言えないだろう。フィチーノの弟子であり、そのパトロンでもあったロレンツォ・デ・メディチの死にも類似の文学的比喩は見られる。フィチーノにあっては人間霊魂の独自性を強調するために、すなわちプラトンが言っているように身体とは完全に無関係に行いうる自己運動を際立たせるために、巧みな文飾がなされているようにも解釈されるのである。
キリスト教神学と異教思想の関連性―――旧研究上の問題点 (191)近年のフィチーノとコレットの比較研究を介して、特殊な問い、霊魂と肉体、精神と身体の関係性からキリスト教徒異教の間の相違を見てきた。次に、フィチーノ研究の草創期に立ち返り、この古くて新しい問題をさらに検討しよう。 フィチーノ研究の嚆矢となる論文を執筆した一人はF.プッチノッティである。彼によれば、フィチーノにおける生の3段解説はおおよそ次のようになる。フィチーノは18歳から30歳まではキケロ、ボエティウス、アウグスティヌス、ダンテ、ペトラルカから受け継いだ道徳的・実践的プラトン主義の只中に居た。30歳から40歳までの10年間は、新のプラトン主義とアレクサンドレイア学派の思潮、キリスト教の知恵と異教精神、本物の哲学とむなしい空想との間にあって『プラトン神学』の中で示されているように、キリスト教と異教思想が一致できるものと思っていた。この無理した和解は彼の心の非常な苦悩を招来した。1473年40歳で司祭となり亡くなる6(192)6歳までははじめの哲学的立場に戻った。聖職者になるまでの10年間の苦闘を表す作品が『プラトン神学』と魔術論の『三重の生について』であり、『キリスト教論』はこれからの分岐点となった。 この見解に対して、A.コンティは各著作の年次的位置づけの不正確さや、聖職叙任以後の作品に見られる基本思想に以前との相違が観られないことを説得的に提示した。『プラトン神学』同様に『キリスト教論』においてもフィチーノは変わりなく、プラトンがゾロアスター、ヘルメス・トリスメギストス、オルフェウスら古代神学者からそれぞれの神学の奥義を集め、フィロンやヌメニオスたちがこれを理解していたこと、そしてこの両人同様、プロティノス、プロクロス、イアンブリコスといった新プラトン主義の哲学者たちは、福音書記者ヨハネやディオニュシオス・アレオパギテスらからキリスト教の奥義を取り出したことを主張した。また、ルネサンスの哲学者はそのキリスト教教義を古代神学者やプラトンから理解しようと努めただけでなく、双方の類似性を信じても居たという。 19世紀半ばころまでのフィチーノ研究を振り返ると、哲学史上、アレクサンドレイアの新プラトン主義をプラトン自体からの逸脱とみなす傾向が顕著であり、フィチーノはシンクレティズムの哲学者としてマイナーに位置づけられてきた。これは特にアルプス以北の歴史家の見方であった。それに対し、イタリア統一時代のアルプス(193)以南のイタリアの研究者は、同郷のルネサンス期の哲学者に占星術や魔術に惹かれた面があったとしても、フィチーノはギリシア哲学の正当な理解者、伝達者にして独創的な思想家であり、敬虔なキリスト教徒であったと力説した。このような立場のL.ガレオッティの詳細な論文は、その後の研究の深化によって正されなければならない箇所を含むとはいえ、同国人の誇りとしてのフィチーノ像を描いていて、国家統一前夜の時代的雰囲気を十分に映し出している。 カトリック国イタリアの研究者は『フィチーノ伝』を執筆した、同時代人のジョ(194)ヴァンニ・コルシの表現に長い間振り回されてきた。「異教徒からキリストの兵士となった」という一文がそれである。プッチノッティに対するコンティの反論と細くにもかかわらず、回心自体があったと受け止められてきた。宗教史家ヴェルンレは、回心して後に若き日の『ルクレティウス注釈』を焼き捨てたということであると述べ、次のように指摘した。「こうして彼は、以前プラトンと新プラトン主義者の著述を翻訳したように、いまやキリスト教的プラトン主義者、ディオニュシオス・アレオパギテスの訳に取り組んだ。そのアレオパギテスの名の下に5世紀にプラトン的思考が教会の中に入り込んできた。最後に彼は講義で使徒パウロの書簡を解明したが、パウロの弟子はアレオパギテスと目されていた。このことはまったく厳密にキリスト教的ルネサンスの誕生の日なのである」。ヴェルンレはフィチーノの回心を認めて始めて、彼に「キリスト教的」という形容句を許すようである。 だが、フィチーノの異教文化への熱意は実際には晩年になっても冷めることはなかった。彼はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の賛辞会員として生を終え、やがてここには彼の半身像が飾られることになる。ガレオッティの好論文は、聖堂内のフィチーノ像を、その向かい側にあるダンテが描かれた絵と比較することから書き始められている。ここに若い頃来た時、双方の控えめな記念作はガレオッティの好奇心を書きたてたという。(194)
(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)