2009年4月5日日曜日

パトロンと注文主(建築、音楽、文学)

建築、音楽、文学(175) 建築家は画家や彫刻家のように自分の手で仕事をしたわけでは無いので、建築はそれらとは別に考察する必要があるだろう。建築家が用意したのは設計図だけだったから、パトロンが積極的に計画に関与する場合には、彼らの役割は減少した。フィラレーテの建築論には、理想論として、お抱え建築(176)家のプランを全て熱心に受け入れてくれる君主の姿が描き出されている。しかし、実際にはパトロンはしばしば建築過程に干渉し、或いは少なくとも介入しようとした。パトロンの何人かは建築理論を研究した。例えば、アルフォンソ・ダラゴーナは、ナポリの凱旋門のプランが議論されていたとき、ウィトルウィウスの『建築書』の写本を求めている。ウルビーノ公のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは、著者自身によって献呈されたフランチェスコ・ディ・ジョルジョの建築論の写本を所有していた。エルコレ・デステは、自分の宮殿の再建方法を決める前に、ロレンツォ・デ・メディチからアルベルティの『建築論』を借り受けている。コジモ・デ・メディチを称えたある賛辞は、彼が自分自身のやり方でmore suo教会堂と邸宅を建てようとした、と述べている。コジモの孫ロレンツォになると、彼自身がアマチュア建築家になり、1491年のフィレンツェ大聖堂のファサードのためのコンクールに設計図を提出することさえしている。…… 音楽の場合にはパトロネージを受けたり雇い上げられたのは演奏家であったが、それはまさに彼らの演奏がつかの間のものだったからである。パトロンには三つの主要なタイプ―――教会、都市、宮廷―――があった。 教会は、特別に気前が良かったわけではないが、歌手の重要なパトロンであった。歌手はミサや宗教儀式に不可欠で、オルガニストと同様、あらゆるときに必要とされた。聖歌隊の指揮者には……(177)現在では作曲家として知られる人たちが含まれていた。 都市もまた音楽家を恒常的に雇い上げた。例えば、トランペット奏者は、国家元首の訪問や大宗教祭典のような都市的行事に必要とされた。最良の都市的ポストはヴェネツィアに見出される。サン・マルコ聖堂は統領の礼拝堂であり,したがってその聖歌隊指揮者は市民的に_(つまり政治的に)任命された。この職席は1491年にフランス人のピエール・ド・フォッシスのために設けられた。……16世紀のヴェネツィアの音楽的重要性はその比較的潤沢な都市的パトロネージに負う所が大きかったと言えよう。 宮廷のパトロネージは、三つの主要なタイプのうちで最も不安定なものであったが、しかし極めて大きな名声の可能性を提供した。ある種の君主は彼等の専属聖歌隊に非常に大きな関心を寄せた。ミラノ公が1472年に聖歌隊の創設を決めたとき、彼はそれを最良のものにするために労をいとわなかった。彼はナポリ駐在大使に宛てた書簡で、当地の何人かの歌手を説得してミラノにつれてこられるように指示している。大使は歌手達と交渉し、公の名に於てではなく彼自身の名に於て彼らに「良い聖職禄と良い報酬」を約束するよう命じられた。「とりわけ、王や他の人たちが、歌手を引き抜こうとしているのが我々である事を覚ることの無いように、くれぐれも注意され(178)たい」。しかしこの直後に外交上の障壁が生じたらしい。1474年までに公は……おそらくジョスカン・デ・プレを獲得している。ミラノ公は引き続きその礼拝堂つき聖歌隊を大切に保護し、聖歌隊は公に従ってパヴィアやヴィジェヴァーノ、さらに公国の国境外まで旅しなければならなかった。一方アルフォンソ・・ダラゴーナは狩りに行くときにさえ聖歌隊を連れて行ったという。 イザベラ・デステは絵画と同じように音楽にも関心を寄せ、フロットラ(複成部の世俗歌曲)の二人の作曲家が彼女の宮廷で活躍した。音楽にさらに大きな関心を寄せたのは教皇レオ10世である。彼は自ら演奏し、自ら作曲した。…… 四番目の種類のパトロネージも忘れるべきではないだろう。音楽家は個人に私的に使える事によ(180)っても経歴を作る事が出来た。例えばウィラールトはヴェネツィアの貴婦人ポッリッセナ・ペコリーナや貴族マルコ・トリヴィザーノのために音楽界を組織している。オルガン奏者のカヴァッツォーニは,一時、人文主義者のピエトロ・ベンボに仕えていた。 以上の全ての場合、音楽家が雇われたのは彼らが歌や演奏に優れていたためなのか、或いは作曲や創作に優れていたためなのかを区別するのは難しい。作曲活動に関する記録は僅かしか残されていない。幾つかの曲は個人に捧げられ、彼らの栄誉をたたえて作られている。……1484-94年にフィレンツェに滞在したハインリヒ・イザークは、恐らくメディチ家のために器楽曲『パッレ、パッレ』―――メディチ家の紋章であり、同家を支持する民衆の合図の叫び―――を作曲した。又彼はロレンツォ・イル・マニフィコの死に際してポリツィアーノが作った哀悼詩に曲をつけている。宮廷の祝典には新しい曲が必要とされた。…… パトロンが音楽家に何を望んでいたかは、1500年ごろにフェララ公エルコレ・デステにあてて書かれた代理人の手紙に生き生きと表れている。公は、二人の候補者ハインリヒ・イザークとジョスカン・デ・プレのいずれを宮廷音楽家として雇うか、選択を迫られていたのである。   :歌手イザークは…作曲に掛けては迅速極まりない上に人の意向に従順な人物です。私には彼のほうがジョスカンよりも殿下に使えるのにずっと適しているように思われます。なぜなら、彼は同僚よりも一歩抜きん出ていますし、しばしば新しい曲を作るからです。ジョスカンがよりすぐれた作曲家であることは確かですが、彼は、人から頼まれても、気が向いたときにしか作曲をしません。それに彼は200ドゥカートを要求していますが、イザークは120ドゥカートで満足するはずです。: 要するにジョスカンがよりすぐれた作曲家であると言う事実が認められても、それは最も重要な判断基準にはならなかったと言うことである。社会史家にとってパトロネージに関するこれ以上に示唆的な資料を見つけることは難しいだろう。 文学や学問の場合には、大抵の著述家が他に生活手段を持つアマチュアであり、又大部分の学者が大学教授であったため、パトロネージはそれほど必要とされなかった。パトロネージが最も必要とされたのは、それに当てはまらない場合、つまり著述家が貧しかったり、若くて無名であり、研究を望んでいた場合である。幾つかの場合には、援助の手が差し伸べられた。例えば、ロレンツォ・デ・メディチはポリツィアーノの研究を支援したし、ランディーノはある公証人から、グァリーノはあるヴェネツィア貴族から学資の援助を受けた。ギリシア人の枢機卿ベッサリオンは、フラヴィオ・ビオンド、ポッジョ・ブラッチョリーニ、バルトロメオ・プラティーナといった学者の寛大で先見性に富んだパトロンであったと同時に、同じギリシア人のヤノス・ラスカリスの研究にも資金を提供している。……しかしながらこうした例は多くは無く、実際にはこの種のパトロネージの欠如のためにどれほど多くの有能な人材が無に帰したか知れないのである。 人文主義者は、教皇庁や国家の役人として出世する事が出来た。これは、一つには特定の教皇(ニコラウス5世やレオ10世)や君主(アルフォンソ1世)が彼らの業績を高く買っていたためであり、一つには彼らの特技、とりわけ優雅で説得力あるラテン文を各技術が行政に必要だったからである。ローマとフィレンツェの政府の書記局は多くの人文主義者を擁していた。 すでに名を成した著述家はしばしば宮廷のパトロネージを受ける機会に恵まれた。というのも、君主は名声に関心があり、詩人の才能によって名声を高める事が出来ると考えたからである。しかし詩人の才能は作品にばかりでなく、特定の地位を得るためにライヴァルの候補者を打ち負かそうとする陰謀にも使われた。ホラティウスやウェルギリウスはマエケナス(古代ローマの芸術パトロン)を通してしかアウグストゥスに接近する事が出来なかったが、ルネサンス期のイタリアの場合には多くの仲介者を通してしかパトロンに近づけなかった。パノルミータ自身、パトロンを見出すまで(183)には何度も袋小路に迷い込んだ。彼はまずフィレンツェでパトロンを見出そうと試み1425年にコジモ・デ・メディチに詩を捧げた。次にマントヴァを試みるが、そこにはヴィットリーノ・ダ・フェルトレがすでにおり、彼以外の人文主義者を必要としていない事が分かる。次にヴェローナを試みたが、ここでもグァリーノによって同じ結果を見た。そして最後に、ミラノの大司教の援助で、漸くこの町の宮廷詩人の地位を得るのである。 実際の宮廷詩人、或いはそうなりたいと望んでいた詩人は―――ウェルギリウスの例に倣って―――君主をたたえる叙事詩を書く必要があった。人文主義者のフランチェスコ・フィレルフォはミラノの支配者スフォルツァ家をたたえて『スフォルツィアード』を書いた。……。 宮廷の歴史家も15世紀には特に新しい君主から彼らをたたえる事を要求された。アルフォンソ・ダラゴーナはライバルの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラとバルトロメオ・ファツィオの二人に歴史の編纂を依頼している。ロドヴィーコ・スフォルツァはミラノ史の(184)執筆を貴族ベルナルディーノ・コリオに委嘱した。マキャヴェリの『フィレンツェ史』はメディチ家出身の教皇クレメンス7世によって委嘱され、彼は「卑しき下僕」と言う献辞を持ってそれを同教皇に捧げている。…… 支配者は又実際的な理由から自然科学のパトロンとしても振舞った。すでに見たように、だ・ヴィンチはミラノの宮廷に芸術家としてよりも軍事技師として赴いた。……数学理論の著者フラ・ルカ・パチョーリはミラノ公とウルビーノ公の庇護を受けている。しかし彼は、僧侶としてはパトロンに頼っては居ない。多くの「科学者」は大学の教師か医師業によって生計を立てていたので、パトロンに頼る必要はなかったのである。 文学的な趣味を持っていたり特定の著述家をひいきにしていたパトロンは、直接的な有用性の無い作品でも注文する事があった。コジモ・デ・メディチは哲学者のフィチーノにフィレンツェ郊外のカレッジに農地を与えて、プラトンや他の古代の著作家の翻訳を奨励した。ポリツィアーノは、ロレンツォ・イル・マニフィコの弟のジュリアーノが参加した騎馬試合をたたえる詩を書いた。画家や音楽家と同様、詩人も祝祭の催し物の準備を手助けした。ポリツィアーノはマントヴァの宮廷に仕えていたとき、結婚式のために彼の有名な劇『オルフェオ』を書いている。彼は又ロレンツ(185)ォ・デ・メディチに無心の詩を書き、自分の服が如何にみすぼらしいかを訴えている。詩による嘆願は昔からあった文学ジャンルであるが、その存在は当時の文化にとって、又個々の著述家の生活においてパトロネージが如何に重要であったかを思い起こさせてくれる。 画家の場合と同様、宮廷のパトロネージは作家に社会的地位を提供した。それは又、必要なときには社会的保護を与えた。例えば、詩人セラフィーノ・ダクィラは枢機卿アスカーニオ・スフォルツァの保護を受けていたが、一時ローマに出てパトロンなしの生活を送った。ところが、彼の風刺詩が原因で暗殺者に襲われた。傷が言えると、彼は「保護者なしにいる事は危険かつ不面目な事と考えて」枢機卿の元に戻ったのである。 ヴェネツィアには公認歴史家の例が見られたが、著述家にとって都市のパトロネージは実質的には存在しなかった。彼らの選択は教会か宮廷、或いは個人のパトロンに限られていた。例えば、パドヴァの貴族アルヴィーゼ・コルナーロは劇作家のアンジェロ・ベオルコ、の著作活動やその収集と出版を援助している。フランチェスコ・バルバロやベルナルド・ベンボ(ピエトロの父で、彼自身優れた著述家)のようなヴェネツィアの貴族は学者に対するパトロネージを義務と考えていた。教会はいっそう安定した保護を与えたが、アルベルティ、ポリツィアーノ,アリオストと言った、その経歴から見て聖職者とはいい難い著述家たちまで、こぞって聖職禄を得ようとしている。完璧な宮廷人カスティリオーネは司教として生涯を終え、その友人のピエトロ・ベンボは枢機卿になった。 (187)パトロンの保護によって生計を建てることの難しさは、靴職人の息子から身を起こしたアレティーノの経歴に典型的に示されている。彼は最初、富裕で教養ある銀行家アゴスティーノ・キージの庇護を受け、ついで枢機卿ジュリオ・デ・メディチ、さらにマントヴァ侯フェデリーコ・ゴンザガや傭兵隊長ジョヴァンニ・デ・メディチの庇護を受けている。数多くのパトロンを持つ事によってアレティーノの自由は増大したが、同時に愛顧を失う危険も増した。そこでアレティーノは戦略を変えた。1527年、彼はヴェネツィアに移住し、そこで統領アンドレア・グリッティの庇護や多くの貴族の贈与を受けはしたものの、彼はあくまで自分自身の独立性を維持し続けた。アレティーノがこうする事が出来たのは、その傑出した文学的才能と自己宣伝によるばかりでなく、市場の誕生にもよるものであった。(187)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)