2009年4月2日木曜日

アリストテレス主義と政治的ヒューマニズム

第2章 1400年代フィレンツェ史論 アリストテレス主義と政治的ヒューマニズム(70)[クリステラーに拠れば]「フマニタス研究は一哲学学科、つまり道徳学を含むが、定義上、数学と天文学・医学・法律学・神学と同じく、論理学・自然哲学・形而上学とを除外する。この明々白々の事実がルネサンス・ヒューマニズムを、哲学・科学、またはその時代の学問全体と同一視しようとする、再三再四の試みに反する紛れも無い証拠を提供していると私には思われる。……若し我々が聖トマス・アクイナスをギリシャ哲学者アリストテレスに負っていると言う理由でヒューマニストと呼ぶなら、(ヒューマニストと区別される)非常に役立つ特質を失う」。彼の場合、このヒューマニズム観とともに、哲学ではアリストテレス主義よりもプラトン主義が認識の基本にある。…… ルネサンスの政治と文化を見ていく際に、「歴史的」ヒューマニズム論とともに、……「市民的ヒューマニズム」……は自由な共和政治への市民の積極的参加を前提とし、その影響は……アメリカ合衆国の新生に至るのである。従って本概念は政治的色彩の濃いものであり、「政治的」ヒューマニズムという風に名づける事も出来よう。 ルネサンスの共和主義が古代からの「復活」なのか、それとも中世からの途切れる事の無い伝統にあるのかに関しては議論がある。ウイットによれば、古代の共和主義的伝統の回復にこそルネサンスの新しさがあり、中世と(71)違っている。その境目は14世紀である。……これに対しスキナーはルネサンスにおける共和政の議論を古代の文献でなく,中世のレトリック書に求める。知られていたローマの歴史家サルスティウスの重要性を指摘する一方、自由の共和政的概念がようやくよみがえるのは、1400年代初期と言うウイットの見解は大げさな主張と否定される。…… フマニタスの解釈 [『ルネサンス・ヒューマニズムの中世的基盤』の著者]ウルマンは中世史家として、その起源の主要な一つが叙任権闘争にあり、その過程の中で着目されたローマ法研究の昌興を見逃さない。法研究をヒューマニズムの始まりとみなすのは、G・フォークトがムッサートをその先駆者の一人として取り上げて以来の事であり、……ウ(72)ルマンがヒューマニズムを徹底した世俗化と捉える点で、教父文学に端を発するキリスト教の伝統にこそイタリア・ヒューマニズムの真骨頂を見るG.トッファニンの特異な説とは好対照を成している。トッファニンに従えば,13世紀のアヴェロエス主義にこうする運動こそがヒューマニズムの表意であり,その頂点はフィチーノにある。従って彼にはプラトン的・新プラトン的思惟はカトリック性からも重要である。……ウルマンはクリステラーと異なり、今日の「人文学」にフマニタス研究を置き換えるのは間違っていると指摘する。そしてフマニタスは端的に「人間性」であって、ローマ法、更に聖書ウルガータの中での使われ方が問われ、ヨーロッパ人になじみの言葉であったとする。……。 この言葉に注目したのは、一般人が受洗による更新の故にキリスト教的人間、新たな被造物になり、他方、王は塗油によりキリストの競技者、キリストの影像になった中世前半のキリスト教社会が、叙任権闘争を契機に大きく変質した事による。闘争の象徴的事件、カノッサ事件はローマ的・教会的起源から独立したいかなる法体系をも有さなかった王権側の弱点にあったが、皮肉な事に教会側の法への訴えは相手の王権側の法への関心を呼び覚まし、ローマ法を政治目的に充用する事が行なわれる事となった。それは支配者の教皇権つまり教会的ヒエラルキーからの自立を促し、政体レベルでの世俗化の過程が(73)始まった。ローマ法は俗人によって俗人の為に作られ、キリスト教徒はいかなる関係も無く、主に油を注がれしもの、神の恩寵による王など、何も知らなかった。尚、12世紀早期にローマ法とその原理が急速に受容された背景にはウルガータがあり、このラテン語聖書にはローマ法の用語法、理念が多量に含まれていた。…… これを核としてウルマンは、政治の世俗化が社会に拡大し、個人の人間性の再生が行なわれたとする。受洗による更新renovatioを強調する点で、ブルダッハの説が想起されるけれども、ブルダッハのようにこれがRenaissanceと Reformationの起源とはしない。寧ろ教会的再生が否定されていく世俗化の進行をルネサンスと捉えている。キリスト教以前の自然人の再生、パウロ的「新被造物」の再生、最人間化なのである。世俗化といっても異教化の意味ではない。自然と恩寵、人間性とキリスト教的特性の均衡が取れていると見る。 アリストテレス哲学の意義 次にウルマンの著書中の二点に注目しておきたい。一点はルネサンスにおけるアリストテレス哲学のありようであり、もう一点は、文学的・美的・哲学的ヒューマニズムは,端的に人間性の復活から出発して政治的ヒューマニズムにとっては、二義的なヒューマニズムに過ぎないと言う見方である。実はこの二点はウルマンの中では密接に繋がり、その事はひいては15世紀後半のフィレンツェ史解釈にも連動する。…… (74)アリストテレス哲学のありようとはどういうことか。ウルマンは第2章「政治の世俗化」に続く「社会の中の世俗主義」の章において、数多くのその具体例をあげた後で次のように記す。自然的なもの、人間的なもの、世俗的なものが固有の内的価値を見出し、強度の集中研究に値するとみなされるようになり、13世紀のアリストテレス哲学受容のための最肥沃な土壌が提供された、と。ウルマンによると、この世にのみ関心を抱くアリストテレス哲学はその『政治学』で、市民の集合である国家は、政治的生き物である人間と同様に自然の創造であると規定しているが、当時の人はこの哲学をキリスト教と対立させようとはしなかった。 その典型は、聖人となったアリストテレスそのものたるトマスであり、教会の領分と世俗の領分とを分かち、「恩寵が自然を仕上げる」とした。世俗領域において人間の本性を巡る学問上の議論があったが、その学問の中にあって玉座を占めるのは政治学であって、トマスはこれを最主要なる学と呼んだ。彼にとり、人間のあらゆる知的な研究の中で最も主要なものが政治学であるのは、これが人間社会の、つまり国家の構築と活動とを助けるからであった。社会集合には洗礼を受けて再生したものの集まりたる教会と、再生していないものの集まり、特に一国民の成員によって形成されるような政治的集まりとがある。トマスは自然の人間を復興させたが故に、その理論はルネサンス・ヒューマニズムの先触れとなった。…… こうしてルネサンス・ヒューマニズムは、元来政治的に動機付けられ、社会的に方向づけられた現象であって、ヒ(75)ューマニズムの文学的・文化的・教育的特色などは、それの政治的概念に続くもの、それの結果に過ぎない。ヒューマニズムをこれら3特色で捉えるのは史的発展から切り離して、いわば真空の中で考察しているからである。…… 解釈上の問題点 ウルマンの中では、アリストテレス哲学のトマスによる需要から政治的ヒューマニズムの確立へと継起している。一方でまた、彼のヒューマニズムは中世からの連続性を主張しながらも、古代思想との関連を重視する市民的ヒューマニズムと近接している点で注目に値しよう。…… ウルマンのいう政治的ヒューマニズムとフィレンツェ・ルネサンスにおけるプラトン主義の関連性[について]。彼は中世前半(9-11世紀前半)の世界観は端的にプラトン哲学に基づき(中世後半のアリストテレス世界観との明確な対比)、15世紀後半、再びこの哲学が活発となるのは、市民中心の共和主義志向が後退した事と相関係しているとみ、その象徴としてフィチーノとそ(76)の『プラトン神学』を挙げているからである。 このような解釈はウルマンに限らず、実証史家の間にさえ見られる。近年、サルターティ研究で専門書を物したウイットはその末尾で、サルターティは新プラトン主義の流行に嫌悪感を抱いた事だろうと推測している。またG・A・ブルッカーは、プラトン主義を貴族社会の雰囲気に相応しい「非公式のイデオロギー」と評している。E.コクレインによれば、現実への無関心は歴史への無関心になって現れ、ロレンツォ・デ・メディチとフィチーノの時代には「無歴史的精神」が漂っていると言う。本章では15世紀のこの「イズム」変遷に注目したい。 バロンの市民的ヒューマニズム論 バロン理論とレオナルド・ブルーニ 「すべての死んだイズムの中で最も有害なのは、ヒューマニズムである」とD/ヘイは言っている。…… (77)時間の経過とともにメディチ家の先見的傾向が高まる15世紀フィレンツェの政治史を考察するとき、今日ではバロン著『初期イタリア・ルネサンスの危機―――古典主義と専制政治との時代における市民的ヒューマニズムと共和主義的自由』を抜きにして語る事は、ほぼ不可能であろう。…… バロンはその長い研究生活において、殆ど常にブルーニを中心に14世紀と15世紀の歴史を考察対象にしてきた。そして15世紀早期のヒューマニストの、歴史上の重要な役割と意義を変わることなく主張し続けた。このことは15世紀が、つまりイタリア・ルネサンスの盛期がヨーロッパの政治と文化の双方において特筆すべき時代であった事を、バロンが強く認識していた事に他ならない。ゲッツへの献辞はその確言であった。…… バロンが使ったcivic humanismは、特に15世紀前半の時代を表すキーワードとなった。……1402年ミラノの専制君主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティの侵攻に対し、共和政の都市国家フィレンツェが同公の休止により幸運にも勝利を勝ち取った結果、市民中心の共和政治が発展して「フィレンツェの自由」が謳われ、俗語による学芸が栄える事になるとバロンは力説した。……(78) この危機の時に「新カエサル」との戦いを選んだ事は、フィレンツェがイタリアの他の都市国家とは異なる道を歩んだ事を意味した。この一回限りな、驚くべき体験を通して、1300年代のヒューマニストの、半修道士的な孤独な生活理念とは違う、古代の諸特徴が発見されるに至った。こうして市民的ヒューマニズムの誕生する素地が出来上がる。「古代人のフマニタスへの愛なしに、またそれによって教育される覚悟なしには、ヒューマニズムなどありえない。ギリシャやローマの市民の活動的・政治的生活の価値と理念に感ずる心なしに、市民的ヒューマニズムは生まれ得なかったろう」。 戦勝のもたらした異常な熱気の中から、市民的ヒューマニズムの代表作,レオナルド・ブルーニの『フィレンツェ頌』と『フィレンツェ史』とが生まれたとバロンは見た。 『フィレンツェ頌』はアテネ市民がペルシア王の専制からギリシャの諸ポリスを解放したとたたえる、アリスティデースの『パナテナイコン』に範を仰ぎながら、フィレンツェに受け継がれた都市国家の自由を強調する。ここではフィレンツェは「新アテナイ」となる。従ってブルクハルトが『世界史的考察』などで述べた感慨、フィレンツェのみがアテネと肩を並べる事ができると言う意識が、既にルネサンスに芽生えていた事になるであろう。 また『フィレンツェ史』はジャンガレアッツォとの戦闘直後に書かれたわけではないが……、ここではフィレンツェ(79)はローマ共和政的伝統の後継者である。ローマ帝国の衰退は自由を断念して、ローマが皇帝に仕え始めた時期に遡る。フィレンツェの起源がローマの自由な共和政時代にある、と指摘するブルーニにとり、ローマ帝国の消滅は痛ましい悲劇とはなりえない。いな、寧ろコムーネの勃興に必要な史的前提となる。中世の年代記作者の考えと違い、最早「ローマ帝国」は永久に不滅でなくとも良い。無理な「帝権の推移」でなくともよい。コムーネの勃興と自由の展開が、1250年のフェデリコ2世の死による帝国の滅亡によるのであれば、これはフィレンツェ共和国の歴史の始まりとして冷静に見つめなければならない。ウェルギリウスがうたった「終わりなき帝国」は最早ありえなくなった。それゆえブルーニには中世も意味のある時代となり、『フィレンツェ史』は、サンティーニが言うように、「全中世の正当化」にもなっている。……(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)