2009年4月7日火曜日

Die Zeit

過渡的・混合的性格の時代としてのルネサンス(ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス) 中世とルネサンスの間に境界線を引く事が困難なのは、理論的に「闇―光」というような有名な反律が既にその学問的価値の多くを失ってしまったからである。実際、ルネサンスは明らかに二つの側面を持っている。一方では、中世の終わりであり頂点である。もう一方では、近代の始まりであり、玄関である。確かに「歴史の連続性」の根本的起源は、それぞれ隔離した世界のような、確固とした各時代から湧き出る。当然の事ながら、各時(193)代に優先した真の特徴とか差異を過小視するような極端に走るべきではない。「ルネサンス」という言葉は不運な言葉であるかも知れぬが、中世とルネサンスは、二つの異なったものであることは否定できない。しかしそれだからといって百科全書派のように、二つの間に大きな溝を作ったり、皮相的コントラストを示したりすべきではない。ルネサンスは、近接した過去―中世―と完全に決裂したものでも、未来に向かって突然に飛躍したものでもなく、歴史的過程の結果であって、その真正な根源は中世の土壌の中に求められるべきものである。(一) 中世とルネサンスの連続性―中世に関する最近のー研究は、中世についての数多の古い見解を修正した。実際、以前あれほど酷く、無責任に中傷された中世は今や、それ自身の文化的・社会政治的特質によって、再評価されるようになった。さらに、最後には、中性はルネサンスに取り不可欠な準備段階であると考えられた。そして、芸術・文学・思想において、さらにはその後近代が直面せねばならなかった深刻な社会・政治・宗教的危機は、すでに中世に生起していたものとされるに至った。マティングリーMattinglyはルネサンスをブルジョワ文化の結果と考え、政治面(他の方面にも適用できる)に冠しては、ファーガソンFergusonの年代区分(1300-1600)に賛同していない。そして、トインビーのように、11世紀、イタリア・コンミューンの始まりに、その起源を求めることに一種の正しい論理があると考えるに至っている。また、ルネサンスの政治史をフランス革命にまで伸ばす人もいる。更にバラクラフG. Baracloughは彼特有の知的大胆さで、ルネサンスを排斥し、独特な「中世」を、1789年つまりペトラルカからヴォルテールまでの時代に広げている。マティングリーの穏健な意見に戻れば、西欧の政治史のドラマ全体は国家の成立である。ルネサンスはその「ドラマの一幕」、すなわち、統一的・階層的・精神的なキリスト教(194)社会から異質的な独立自治国家の世俗的社会である近代ヨーロッパへの転換の危機的段階であるとみなされねばならない。ルネサンス期における基本的人間像は、ベイカーBakerの言う「惰性の原理」に従って、古代および中世に依存している。これは人間の学における思想の歴史の連続性を示すものであって、そこではルネサンスは「過去と未来に向かって」広がっている、と彼は断言するのである。ホイジンガは、この問題を広くかつ独創的に論じている。彼は示唆に富んだ言葉で、ルネサンスを「日曜日の衣装(晴れ着)」と呼ぶ。この言葉は、中世と近代の間に置かれ、それ自身の内部に転換的要素と言う大きな異質性を持つルネサンスの表面性、および臨時的性格を現すものである。更に中世と近代のアンチテーゼにおいて、ホイジンガは疑いなくルネサンスを中世の側に置く。かような断定は、中世のあらゆる重要な思想形態がルネサンスの間、生き残ったと言う根拠に基づくものである。実際あらゆる知的なものを規定する権威の原理は、ルネサンスに存続し、ルネサンスはその殆ど盲目的ともいえる、古代の範例に対する尊敬において、「権威の文化」である。美・礼服・美徳についての永久的価値基準が指標となるべく求められる。中でもイタリア文芸ルネサンスの「四人の世俗的博士」(ヴァイスが呼ぶように)――サンナザロSannazaro、カスティリオーネCastiglione、アリオストAriosto、マキャベリ――は、具体的な生きている個々人ではなく、ルネサンスの理想の人格化、「抽象的な理想的典型」を描く。例えば、君主、宮廷人、知識人=人文主義者など。サンナザロの牧人たちも、アリオストの騎士同様、完全に虚構の世界に住んでいる。カスティリオーネの宮廷人は、現実を理想化したモデルである。かの有名な「万能人」までも、中世から取られた理想なのである。 同様な事が、新知識の獲得についてもいえる。ルネサンスは論理的証明や権威の証明によって、既存の知識を堅固なものとする事に努力する。いまだ表明されていない知識の追求は、デカルトと彼の時代以来の方向転換となろう、実際に、進歩の概念はルネサンス的概念ではない。宇宙論的には、コペルニクスの存在にもかかわらず(195)(ガリレオは17世紀)、地球中心説が17世紀の後半まで続く。最後に、ホイジンガの意見によれば、社会学的には、社会的責任感の殆ど全面的な欠如、中世的概念が存続した身分観、他人に対する奉仕観によって、ルネサンスが近世より中世的であるばかりか、この社会的特徴に於ても、中世に比し後退している事を示している。 明らかに、中世史家達の断言(多かれ少なかれ、論議の対象になったり、認めがたい点があるかもしれないが)の中の、ある発言とか細部に関わりなく、中世的要素がルネサンスの中に生き残っているという重要な基本的見解は全く否定できないものである。そして、おのずから、中世と近代が交差するルネサンス内部のこういった曖昧さとか矛盾とかいうものは全て、いわゆるルネサンス像がごく少数の教養ある人々により作られたものであると言う事実を見抜けばたやすく説明できる。確かに、このような少数派は時代とともに重要性を増していったが、状況を支配するようになるのは、ポール・アザールPaul Hazardが納得の行くよう証明したように、ずっとあと、17世紀末のことである。16世紀には、この知的エリート、また理想主義的少数派は、大多数の人々の持つまだ圧倒的に中世的なヴィジョンに従って、しばしば妥協しなければならない。そして、このような少数派の人々の人格の内面に深く入り込んでいくと、彼らも心理学的な二重性の状態で分裂しており、彼等の学問的・哲学的宗教的思想といったものはまだ統一されていず、異なった段階で同居しているのがわかっる。それゆえ、彼等の精神的矛盾が後代の歴史家達に、ルネサンス人たちの知的かつ宗教的誠実性についての問題を提起した動機となったのである。ペトラルカのような人物の内的葛藤は、ルネサンス精神史全体に横たわり、ボッカチオ、ポンポナッツィ、ピコ、ミケランジェロそしてガリレオ自身にも見られる。(ニ)殆ど全てのギリシア・ラテンの古典文化とキリスト教の始原的要素が実際に西欧文明に付与されたことに加(195)え、比較的新しい、一連の諸要素が付加された事はルネサンス人文主義運動の結果と考えられる。 文体の洗練は明らかな業績であり、文法書や辞書が数多く書かれた。写本を発見し、それを刊行するだけで満足せず、比較分類し、異動を明らかにしながら研究した。こういった仕事から、きわめて価値のある新しい種々の学問が生まれた。例えば、文献学、古代言語研究学、原典および、原典批評、古代の歴史と地理である。 大学は多数存在したけれど、ルネサンス人文主義は、大学でよりも、芸術・文学・哲学同好者が集まるきわめて生彩ある名称を持つ、数多くの協会や学会で発達した。最後に、ルネサンスの真の新しさは、前に指摘したように、その単なる内容よりも、新しい見方、またその強調する点にある。自らを古代世界の刷新者と考え、彼らはギリシア・ラテンの古典文献を土台として文法・修辞学・歴史・詩・倫理学などのカリキュラムを定めた(Studia humanitatis)。 典型的なのは人間の価値を主張することである。刷新された教育を通して人間の理想が追及される。余りに強調されすぎるきらいはあるが、ブルクハルトがたくみに述べているような、個人主義が人間の理想の主要な点であった。この点に関し、偉大な人文主義者であり、教育者であるヴェルギリウス、サルターティ、マネッティ、ピコ、フィチーノ、――もっとも重要な人々のうち、ほんの数人を挙げただけであるが――達が書いた著作を読めば、彼等の持つルネサンスのヴィジョンが全て中世とキリスト教に連なっていることを完全に納得できる。それらにはなんら革命的な所はなく、その根拠はキリスト教の教義上、完全に正統である。