2009年4月5日日曜日

Grund 3 basica Istorica intellecta p2

 (11)アリストテレスによる学問の言説の支配が中世・ルネサンス期の西ヨーロッパを統一したとすれば、ヨーロッパに別種の結合力を与えたのは、アリストテレスが執筆したギリシア語ではなく翻訳者の用いたラテン語だった。12世紀に起こった知的爆発の決定的要因の一つは、アリストテレスがラテン語訳されたことにあったのである。とりわけ16世紀には、ギリシア語著述家の幾人か―――数人の哲学者を含む―――が俗語への翻訳者を招き寄せたが、その期間もずっとラテン語が学問の公用語だった。イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語英語、またその他の近代語が本格的な哲学において通常用いられる言葉となったのは16世紀中葉以降のことに過ぎない。カントでさえ、批判書以前の著作の大部分をラテン語で書いたのであり、そのあとでようやく近代ドイツ語の哲学的語彙の形成に着手したのである。ブルーノ、モンテーニュ、デカルト、ホッブズ、カント以前には、哲学者はラテン語を書き、読み、しばしば話しさえした。15世紀とそれ以降の人文主義運動は、ますます多くの哲学者にプラトンやアリストテレスをギリシア語で読みこなす能力を与えたが、どれほど熟練したギリシア語使いでも、自分の思考を表現するときにはラテン語を用い続けた。この学問の共通語は、パリとローマだけでなく、アバディーンとクラクフ、ストックホルムとプラハを結びつけた。オックスフォードのドゥンス・スコトゥスも、フィレンツェのマルシリオ・フィチーノも、サラマンカのフランシスコ・スアレスも、遠い異国の地に住む同僚たちとのこの言語上の絆を利用することが出来た。この便利な慣習は、哲学研究の<再生>が仕事を終えた後にようやく消滅した。 ヨーロッパのもう一つの統一性は、中世・近代初期の教育制度である。12世紀末までに、パリとボローニャでは学生と教師が大学を組織していた。13世紀には、抵抗がないわけではなかったが、アリストテレスが大学の中に確固たる地位を占め、哲学が興隆した。これにより、17世紀中葉、さらにその後に至るまでこの科目を支配した制度上・カリキュラム上の構造が確立した。新設の大学は、二つのモデル、つまり北ヨーロッパのパリ大学とイタリアのボローニャ大学(12)に基づいて発展し広がっていった。これら二つの計画の数多い構造上・組織上の相違点の中で、哲学史にとって特に重要なのは、パリではまず予備的な学芸科目の学位を与えて、学生はそれから上級の法学・医学・進学の学部へと進んだのに対し、ボローニャでは学芸科目と医学は同じ学位課程の一部であり、普通「学芸科目および医学の」学位と呼ばれる資格を与えたという点にある。この文脈では「学芸科目」とはほぼ哲学をさしており、絵画や詩、あるいは現在の「教養科目」を指すのでさえない。この「学芸科目」という用語は、幾何学、数学、音楽、天文学、文法学、その他の科目を含んでいたが、学芸課程の根幹は、アリストテレスの著作が定義する哲学の諸分野から成り立っていた。パリや北ヨーロッパの殆どの大学では、哲学および関連する学芸科目は神学の為の予備教育とみなされていた。これこそが、中世の偉大な神学者―――ボナヴェントゥラ、アクイナス、スコトゥス、オッカム―――が哲学を学びかつ教えたカリキュラムだったのである。イタリアの慣行はこれとはまったく違っていた。イタリアの哲学研究は、医学や法学を研究するための準備段階だった。「アリストテレス文書」の論理学と自然哲学は「前=医学」カリキュラムの役割を果たし、医学を志す学生に、彼の職業に役立つと考えられた技術的科目を教えるためのものだったのである。こうして自然哲学に焦点を絞ったために、イタリアの大学ではトレント公会議の後まで正式の神学研究が殆ど行われなかった。 このように、北ヨーロッパでも南ヨーロッパでも、中世・ルネサンス期の大学における哲学とは、原則として学生に医学・法学・神学と言う上級の科目に進むための用意を授ける用意とされた「一般教育」計画の一環だった―――とはいえ、学芸科目のカリキュラムで学業をやめ、これら上級学部に進まなかった学生も大勢いたのだが。しかしながら、哲学に関心を抱いていた人々は教授と学生だけではなかった。とりわけ15世紀末に、私的研究として、あるいは勃興しつつあった様々なアカデミーで、また宮廷文化の一部として、哲学はさほどスコラ的ではない場所でも発展していった。最も、体系的な哲学教育と大部分の独創的な哲学的詩作が行われたのは、やはり大学においてだった。ルネサンス期の知的活動は、哲学でも他の領域でも、この枢軸的な中世的期間を中心に展開し続けた。大学と教授たちの哲学へのアプ(13)ローチは変化したが、それでも、研究の対象となった文献、教育の方法、基本的動機において、彼らは中世の慣習の多くを保持したのである。 アリストテレスが西ヨーロッパで広く知られるのとほぼ時を同じくして、大学で読まれる中心的なアリストテレスの著作に対する大量の解釈・注解がそれに続いた。注解、提要、討論される問題、難解な章句の解義―――これらのあるものは新たに書かれ、あるものはギリシア語・アラビア語・ヘブライ語の書物から翻訳された―――が、年を経るごとに増加した。14世紀までには、古代リュケイオンのアリストテレスの後継者らにちなんで「逍遥学術文書」と称されるようになった、膨大なラテン語文献が蓄積されていた。とりわけ数の多かったのは、ロバート・グロステスト、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクイナス、アエギディウス・ロマヌス、ウィリアム・オッカムのような中世の学匠が大学の指定教科書のいくつかに付した注解だった。これらの著述家は、近代初期に至るまで依然として参照され、後半に利用された。それらよりもさらに重要で、同じく長い生命を保ったのが、アヴェロエスが「アリストテレス文書」のほぼ全体に付した、網羅的かつ中初的な注解と解義だった―――これもやはり、ルネサンス期の哲学的水域に流れていた中世の力強い潮流の一例である。古代のアリストテレス注解者たちは、そのうちほんの2,3の注解に過ぎない。1490年以降の40年間に、アレクサンドロス、テミスティオス、アンモニオス、ピロポノス、シンプリキオスといったギリシアの注解者の解釈が、よく知られていたアヴェロエス、アルベルトゥス、トマスの見解にアリストテレスの提示した諸問題に新しい回答を与えるよう促した。ルネサンス哲学における主要な革新は、それまで知られていなかった古代ギリシア・ローマの文献の多くが大いに利用しやすくなったことである。12世紀以降もギリシア語・アラビア語・ヘブライ語の資料は西ヨーロッパに移入され続けたもののの、その後の二百年間には、新しい古典哲学文献の出現は減少した。ところが、15世紀の幕開けと同時に、主(14)としてギリシア旅行から貴重な写本を携えて母国に帰ってきたイタリア人学者らの努力により、それまでは西ヨーロッパに道のギリシア語文献が前例のない分量で流入してきた。彼らの「再発見」の仕事の大部分は、1453年にトルコ人がコンスタンティのポリスを征服して、この都市の生きたビュザンティオン文化の残存を破壊するよりも前になされたのである。これ以前にも、ペトラルカの世代は、古典研究への復興した関心を促進して、哲学文献を含む未知のラテン語文献の探索を刺激し、これらをより広く伝播させた。アリストテレスはその殆どが中世の読者の手の届くところにあったが、古代の他の哲学者たちは、大きな修道院や学校の図書室にそれほど良く集められていたわけではない。ソクラテス以前の哲学者、プラトン学は、ストア学派、エピクロス学派、懐疑学派、神プラトン主義者は、主として間接の経路を通じて知られていた。たとえば、古代の懐疑主義はアウグスティヌスの批判『アカデメイア学派駁論』で研究できたし、新プラトン主義は何人かのキリスト教著述家において高い地位を占めていた。しかし、アリストテレス以外の哲学者のギリシア語原典を直接広く入手できるようにしたのは、ルネサンス期の功績だった。 ルネサンス期以来、プラトンは、ヨーロッパ哲学の父祖の一人として、少なくともアリストテレスに匹敵するか、しばしばそれを上回る存在と考えられてきた。事実、ロマン主義の時代以降、重要な哲学者や他の領域の主導的思想家が、アリストテレスよりもむしろプラトンとその後継者たちに霊感の源泉を求めてきたのである。中世とルネサンス初期の間のプラトンに関する直接の知識の乏しさ……ラテン語訳を手に入れることが出来たのは『メノン』『パイドン』『ティマイオス』の一部分、『パルメニデス』の断片に過ぎなかった。主要な図書館の殆どで少なくともその一部を読むことのできた『ティマイオス』を除けば、ラテン語訳されたこれら少数のプラトンの著作でさえ、見かけることはまれだった。もっとも、ロジャー・ベイコン、トマス・アクイナス、その他少数の人々はこれを利用している。『国家』、『テアイテトス』、『饗宴』のような重要で(最終的に)影響力を振るった対話編が、15世紀まではまったく手に入らなかった。この世紀になって(15)ようやく、伝存するプラトン文書」が全てラテン語を読む学者共同体の共有の財産となったのである。レオナルド・ブルーニらが15世紀はじめに少数の対話編をラテン語訳したが、しかし、偉大な貢献を果たしたのは、1469年までにプラトンの全著作を自ら翻訳ないしは改訳し終え、1484年に最初に印刷させた、マルシリオ・フィチーノである。フィチーノの仕事のような努力によって、徐々に、伝統的なアリストテレス主義の枠組みが許したものよりも幅の広い哲学観を持つことが出来るようになった。1499年には、プラトンの対話編を直接読める人間は殆ど一人も居なかったが、それから1世紀のうちに、プラトンの全作品が、プラトンを解釈した伝存する古代文献の大部分と共に印刷されていた。これら全てのものは、当然、プラトン主義ないしは新プラトン主義の流儀による独自の思弁を促進した。 何世紀にもわたる分析、歴史学的・文献学的研究の結果、現代の学者は、プラトン主義的哲学の様々な種類を選り分けるようになったし、プラトンの見解を師ソクラテスの見解から、また彼の後継者たち―――アカデメイア学派、中期プラトン学派、新プラトン主義者―――の教説から区別しようとしている。プラトン主義のように豊かな伝統については、解釈の対立が依然として激しくかつ頻繁に起こっているが、それでもたとえば、プラトンとプロティノスの間に数世紀の時間と多くの教説の隔たりがあったことなど、いくつかの区分が一般に認められるようになっている。ところが、ルネサンス期は、プラトンの教説と新プラトン主義者の教説との間に大きな懸隔を認めなかったこのカテゴリーの混同は、膨大な新プラトン主義文献―――「プラトン文書」の数倍の分量に上る―――がやはり知られるようになった15世紀には、とりわけ深遠な影響を与えた。フィチーノはまた、直接の伝承によっては中世にほぼあるいはまったく知られていなかった、ポルピュリオス、イアンブリコス、プロクロス、シュネシオス、さらに他の新プラトン主義者たちの論考や注解を翻訳した。フィチーノのようなルネサンス期の思想家は、こうした重要な文献を、エジプトの神トートがギリシア化したヘルメス・トリスメギス(16)トスが作者と誤って考えられたために『ヘルメス選集』と呼ばれた、半ば哲学的な宗教的文献と結びつけた。このヘルメスは、モーセとほぼ同じ時代に生きたと思われていたので、その教えは、モーセがシナイ山で受けたより尊い啓示を補完し、プラトンとプロティノスにおいて頂点に達した異教的英知を聖別する、「古代神学」の源泉とみなされた。ラクタンティウスやアウグスティヌスのような教父が確証していたこの誤った系譜は、イザーク・カゾボンが17世紀はじめにその誤謬を証明した後でさえも,哲学や他の学問分野の歴史記述に深い影響を残すことになる。オルペウスが作者とされた賛歌集、ピュタゴラスに帰された様々な文書、ゾロアスターとマギに関連があるという『カルデア人の神託』『シビュラの託宣』と称されるユダヤ教=キリスト教の予言集、その他の偽書が、プラトンや新プラトン主義者の真作と現在認められているテクストと同じ迫力を持って、ルネサンス期の読者には語りかけたのである。 現在と同じようにルネサンス期においても、これらより遥かに断片的な状態にあったのが、プラトン主義・アリストテレス主義の伝統から独立した思想的・制度的特徴を持つ、他の古代哲学の諸学派である。今日でも、我々がストア学派、エピクロス学派、懐疑学派について知っている事柄の多くは、彼らの論敵やいい加減な編纂者が伝えた間接の情報に過ぎない。とはいえ、人文主義者たちは、キケロがこれらの諸学派をアカデメイアとリュケイオンのライバルとして真剣に受け止めていたという事実に当然感銘を受けたのであり、ルネサンス期が我々に残した不完全な情報でさえ、豊かな哲学的遺産なのである。現代の我々の知識は部分的なものだとは言え、ルネサンス期がこうした多様で互いに独立した伝統を同化し、さらに、科学革命に刺激を与えたエピクロス主義や近代初期の道徳哲学に深い影響を及ぼしたストア主義のような強力な新しい思弁の潮流を生み出したことは、その後のヨーロッパ哲学の展開にとって決定的なことだった。この過程において鍵になった出来事が、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の再発見である。この古代末期の集成は、批判的洞察には乏しいが、入手可能な他の典拠に比べれば、近代初期の学者の関心を引く、何人かの古代の哲学者に関する情報と誤った情報とがぎっしり詰め込まれていた。デモクリトスとレウキッポスからエピクロスに(17)至る古代原子論を伝えるディオゲネスの詳細な記述は、アリストテレスの自然学に飽き足りない16,17世紀の思想家が、この資料を使って、ピエール・ガッサンディやロバート・ボイルといった科学革命の担い手が唱導したような整合する自然の哲学を作り出すことを可能にした。ディオゲネスによるその他の哲学学派の叙述、例えばソクラテス以前の様々な系統についての記述は、プラトンとアリストテレスからシンプリキオスに至る他の主要な類似した情報源を補完したり、時には異説を提示したりした。同じように、キケロやセネカのようなローマの著述かも古代ストア学派に関して中世にいくらかの知識を伝えていたが、こうしたローマ人はストア学派のある側面、とりわけ自然学と論理学には余り言及していなかったために、ストア思想へのより包括的なアプローチは、ディオゲネス、セクストス・エンペイリコス、哲学的価値と共に歴史的価値をも備えた他のギリシア語文献が再発見されるのを待つほかなかったのである。 古代哲学の復活は、懐疑主義の場合ことのほか劇的だった。この批判的で反教条的な思考法は、古代においてかなり重要だったが、その影響は中世になって消えてしまった。懐疑主義について知られていたわずかな事実も、哲学とは信条の媒体でそれを弱めるものではないと考えていた大多数の中世の思想家たちには、殆ど注目されなかった。しかしながら、15世紀に入ると、古代から伝わる懐疑主義の二人の最も重要なギリシアの権威が、再びヨーロッパの良心を動揺させ始めた。どちらも哲学的な深みのある思想家ではなかったが、両者とも新しいデータを提供し、ルネサンス期の思想家たちが新鮮な思想を用いて有益で新規な哲学の方法を作り出すことを可能にした。ディオゲネス・ラエルティオスは、懐疑諸学派の学説誌的資料を与え、ピュロン伝でその創設者の一人を描いた。古代末期に古代懐疑主義の諸学派についての情報を収集したセクストス・エンペイリコスは、いっそう詳細な記述を行った。セクストスとディオゲネスの著作が再発見され、キケロの『アカデミカ』のような良く知られた文献とあわせて読まれると、哲学に新しいエネルギーが現れた。モンテーニュの時代までには、懐疑主義は、デカルトやその後継者たちのために準備されたルネサンス期の遺産の中で主要な勢力となるほど強大になっていたのである。(18)ルネサンスが復活させたのは、完全なテクストだけでなく、その他のやり方ではうまく描くことの出来ない哲学的見解の輪郭を―――まったく不十分にではあるが―――描写することを学者に許した、多種多様な典拠から取られた断片的資料でもあった。ギリシアのストア学派の思想化の原典は、プラトンやアリストテレスのような規模では伝存しなかったために、たとえばクリュシッポスの論理学について知るためには、ディオゲネス、ガレノス、セクストスを繙かねばならず、またゼノンの倫理学説を明らかにするには、キケロ、プルタルコス、セネカを読まねばならなかった。最も革新的で影響力のあった古代哲学者、つまりストア学派のみならずソクラテス以前の哲学、エピクロス学派、懐疑学派、新プラトン主義者などについても、同じ手続きを踏む必要があった。ルネサンス期はこうした推理作業に要する文献学と歴史学の道具を発見ないしは再発見しなければならなかったので、世に知られない人文主義の学者―――セクストスを翻訳したジャンティアン・エルヴェ、あるいはストバイオスの『抜粋集(エクロガイ)』のギリシア語テクストを最初に公刊したヴィレム・カンテル―――の先駆的労苦は、確かに我々の記憶と賞賛を受けるに値するのである。構成の人々が当然視するようになった古代の哲学的残存を最初に校訂し、編纂し、翻訳し、印刷し、流布させたのは、彼らだった。タレスとその後継者たちがヨーロッパ哲学の父祖だとすれば、ルネサンス期の人文主義の学者は、ヨーロッパ哲学が古典的形態で再生するのを助けた産婆だったのである。
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)