2009年4月5日日曜日

Grund 4. Aristotelian in R -Bruni 

 ルネサンス期のアリストテレス主義者(75) <Leonardo Bruni> レオナルド・ブルーニは、ペトラルカがいまだ存命中の1370年にアレッツォで生まれたが、まだ若い頃にフィレンツェに出てきた。[1444年没]彼の初期の教育は、中世の標準的範例に沿ったものだったが、フィレンツェに移ってから、この都市の人文主義者=書記官長コルッチョ・サルターティと、ルネサンス期イタリアの最初の世代のギリシア学者たちがギリシア語を学んだビュザンティオンの学者マヌエル・クリュソロラスとの影響を受けた。サルターティを中心とする人々に奨励されて、ブルーには、数編のギリシア語の著作の翻訳に取り掛かった。そこには、1405年のプラトンの『パイドン』、1409年までに訳された『ソクラテスの弁明』と(76)『クリトン』、1409年の『ゴルギアス』が含まれるが、その後は、どの対話編も新たに全文訳する事は無かった。もっとも、1426年にそれまで翻訳した対話編をまとめて一冊にし、その中に『パイドロス』の抜粋を加えるとともに、『弁明』と『クリトン』を改訂している。さらに、1426年には『書簡集』を、1435年には『饗宴』の一部分を翻訳した。これらの作品のさまざまな特徴がブルーニの関心を引いた。ブルーニはこれらを、ソクラテスの生涯の歴史的典拠、修辞学を倫理学のために利用する際の教育的範例、またキリスト教兵士のための哲学的武装とみなしていたのである。この最後の動機は、彼の政治的・社会的態度に増幅されて、ブルーニに―――とりわけ後期の翻訳において―――プラトンの見解が不快に思われるときにはそっらを隠蔽または変形させる原因となった。 最も重要なプラトンの翻訳を終え、ローマや他の土地で教皇秘書官を十年間務めた後で、ブルーニは1415年にフィレンツェに帰って『フィレンツェ人の歴史』の執筆を始め、さらにキケロの伝記を書き始めた。そのすぐ後、1416年に、彼は最初のアリストテレスの翻訳『ニコマコス倫理学』を完成した。尤も、その3年前にはアリストテレスに関心を向けていたかもしれない。古典主義的なラテン語に翻訳されたアリストテレスは、1406年のロベルト・ロッシ訳の『分析論後書』とともに出現し始めていた。1520年代には、この翻訳は、その最初の時期を完了する事になる。『ニコマコス倫理学』に続き、ブルーには、1420年に『家政学』、1437-38年に『政治学』の翻訳を加えた。1425年ごろブルーニは、独創性に欠けるが影響力を振るった『道徳哲学入門』を執筆した。これは、プラトンとソクラテスを無視し、キケロがその沿革を描いた競合する倫理体系よりもアリストテレス主義の体系を優先している。より興味深い『アリストテレス伝』が、ブルーニがフィレンツェの書記官長の地位にのぼりつめてから2年後、1429年に現れた。このように、ブルーニが「市民的人文主義者」としての頂点を極めたのは、彼の哲学上の好みがプラトンからアリストテレスへと移った後の事だった。成熟期のブルーニの思想は、プラトンに主要な恩恵を被っていない。ブルーニの『アリストテレス伝』は、この哲学者を、富と財産に恵まれ、晩年のペトラルカが忌避した政治的・社会的激務に没(77)頭する人物として描いている。世俗的で活動的なアリストテレスは、禁欲的なプラトンよりも、ブルーニの求めるものに適合していた。プラトンの『国家』は、女性と財産の共有を提唱してブルーニの不安を掻き立てたし、『ゴルギアス』は、共和政治に必要不可欠とブルーニが考えていた修辞学を罵倒したし、プラトンの哲学の流儀は、整合性に欠け、教育には向いていないと思われた。道徳哲学に関する記録に残っているブルーニの最後の言明―――ラウロ・クイリーニ宛の1441年の書簡―――で、彼は「観想的生活は人間の適切な生き方ではない」と書いて、同胞のフィレンツェ市民が追求する活動的生活の地位を高めるために、アリストテレスの見解を歪曲するところにまで至ったのである。 さらに、アリストテレスの散逸した「顕教的」著作へのキケロの賛辞を、伝存する「秘教的」著作に結びつける事によって、アリストテレスの散文に対するこの偉大な弁論家の賞賛を誤用する事も、ブルーニの利害にかなっていた。『ニコマコス倫理学』の序文で、ブルーニが、<哲学者>は「常に雄弁を追及し、英知を弁論術に結び付けていた」と書いたとき、ブルーニのギリシア語の能力が、哲学の修辞学への従属を恐れてアリストテレスの雄弁への関心を否定した人々には耳を貸そうとしない人文主義者の読者層に、この託宣をよりいっそう信じやすいものに仕立てたのである。このような見解や他の見解を喧伝する事により、ブルーニは、後世に長く生き続ける事になる人文主義的アリストテレス主義の伝統を創始した。15世紀の他の偉大なアリストテレス翻訳者は、ブルーニがイタリア人として享受していた文化的近接性という利点を持たずにラテン語を習得した、ギリシア人だった。これと同じ文化的状況が、ブルーニを、オクスフォードの「計算学者」の支配するイングランドからイタリアに南下してきたばかりの論理学・自然学の技術的厳格さには辛抱できない、生まれながらのスコラ学の仇敵にした。粗野な北方の哲学は不毛であり、その言語は奇妙だと考える点で、ブルーニは、ペトラルカやヴァッらと意見を同じくしていた。野蛮なマートン学寮の博士たちの名前―――スワインズヘッド、ヘイツベリー、ダンブルトン―――自体が、彼らの新語を交えたラテン語と論理学的隠語が古典主義者の目に不快なのと同様に、イタリア人の耳には不快に響いた。彼の時代と土地の性格のために、ブルーニのアリストテレスは、中(78)世の大学の<哲学者>とは全く違った姿をまとわざるを得なかったのである。 宗教を大きな例外とするならば、ブルーニは、幾つかの点で、スワインズヘッドよりもキケロとの間に哲学的な共通点をより多く持っていた。フィレンツェの書記官長として、彼もやはりキケロの国事への献身を共有していたし、この古代の英雄と同じく、自分の雄弁の才能と修辞学の技量を政治的目的のために利用したのである。この点において、当時のアリストテレス主義的思想家の中で唯一の存在ではなかったが、ブルーニは、確かに異例だったし、アリストテレス主義哲学に忠誠を誓うと動じにキケロの弁論術的政治を模倣するために、ブルーニは、キケロの型紙に合わせてアリストテレスを裁断する必要があった―――とりわけ、活動的生活と観想的生活とをめぐる古来の論争でバランスの取れた立場を見つけようとする際には。間違いなく、ブルーニは、「アリストテレス文書」のより広い範囲にわたる哲学から得たのとおなじくらい多くのものを、キケロの書簡、演説、弁論術に関する論考、倫理学的著作に負っている。ブルーニの哲学的視野は狭く、ゆがんだ、個人化されたものだったが、この観点から、彼は、15世紀フィレンツェの市民に依然として説得力をもって訴えるアリストテレスを―――特に『ニコマコス倫理学』、『家政学』、『政治学』の著書を―――目にしたのである。 この三篇の著作で、アリストテレスは、ブルーニが自分の時代に意義を持つと考えた個人的家庭的・市民的徳を教示している。トマス・アクイナスも々教えを13世紀に有益なものにしていたが、しかしながら、トマスは独身の修道士であり、ブルーニが結婚した俗人かつ市民として直面したものとは異なった義務と機会を備えた、宗教的共同体の規律の中で生きたのである。「天使的博士」と呼ばれたトマスは、永遠の相の下に定められた経歴の中で、聖人の地位と哲学的栄光とを獲得したが、一方、ブルーニは、フィレンツェの商業と政治技術の刻々変化する現世的秩序の中で政治的・経済的任務に直面する事によって、大きな名声とともに書記官長職を勝ち取った。ブルーニの文脈においては、『家政学』―――家庭または財産の管理についての著作―――は、新しい意味と価値を獲得した。近代初期の家庭の、夫婦、子供、使用人の変わりつつある役割に悩む俗人にとって、ブルーニが『家族の事柄について』De re familiariと読んだ書物の翻訳は(79)大いに興味のあるもので、莫大な成功を勝ち得たのである。頑固な大学の哲学者の間での事を別とすれば、ブルーニの新しい翻訳と注解は、すぐに中世の翻訳をしのぎ、16世紀に至るまで標準版となった。現存する写本(二百種以上)と初期刊本(15種の揺籃期本)に徴してみるならば、たとえばレオン・バッティスタ・アルベルティの俗語による書き下ろしの著作『家族について』よりも、遥かに大きな人気を博した。現代の学者は概して『家政学』を偽作とみなしてきたし、アリストテレスの新作と考えていた中世の読者もこれを熱心には読まなかった。しかし、ルネサンス期には、ブルーニの翻訳に美的な魅力があり、イタリア都市国家のますます世俗化する背景が新しい読者層を創出したために、『家政学』は広範な影響力を獲得し、女性の地位、富、結婚、事業に関する重要な新しい態度にアリストテレスからの認可の刻印を与えた。それまで大学人にとってほどほどの興味しかなかった著作が、ブルーニがよりよいラテン語に置き換えた後では、幅広い読者層―――現代的な意味での「公衆」―――を見出したのである。15世紀の大部分を通じて、大学は、アリストテレス研究における人文主義的新機軸全般に疑いの目を向けたように、ブルーニ訳の『家政学』に対しても警戒を怠らなかった。しかし、教授たちでさえ、徐々に考えを変え、16世紀には、この著作もアリストテレス主義体系の他の部分も、新たな人文主義風の装いによって最も良く知られるようになった。 『家政学』第1巻の著者は、「家政学と政治学とが異なっている」ことの説明から叙述を始めている。……中世の翻訳者の意図は、古典的語法、統辞法をさほど顧慮せず、ラテン語を一字一句ギリシア語に対応させるところにあった。古代のラテン語著作家はoeconomicusとpoliticusという単語を使ってはいるが、ブルーニは、これらが異例な用語であり、ローマ人の精神には異質なギリシア語からの借用語であること、その語源がラテン語ではなく、それゆえ、ギリシア語を知らないラテン語やイタリア語の読者からは直感的反応を引き出しえない事を知っていた。その(80)かわりに、ブルーニは、中世の翻訳者の言語よりも遥かに古典期のありように近いラテン語で、『家政学』の冒頭の概念的区分を正確に反映する別の表現を選んだのである。しかしながら、ブルーニの使った語句がキケロとリウィウスにとってキー・タームだったというまさにその理由で、それらは、アリストテレスが決して想像出来なかったであろうギリシアとローマとの政治的関心の共通性を含意する事になった。言い方を変えれば、ゴート人の野蛮な用法に汚されない純粋な本来の形態で古典語を使おうとするブルーニの願望が、古代の様々な時代・土地の区別を余り強く意識しない、古代世界に対するひとつの願望を奨励することとなったのである。この展望は、ブルーニの政治的必要に応える限りで、イデオロギー的なものだった。『家政学』を例に取れば、キケロ的な語彙がアリストテレスの思想を共和制フィレンツェにとってより好ましいものにするなら、そのほうが良い。一方、ブルーニの展望は歴史学的なものでもあった。つまり、ブルーニは、誠実に、中世の無知が覆い隠していた過去の正確な姿を追い求めていたからである。ルネサンス哲学にとっての肝要な問題点は、ブルーニの歴史学的計画がその長所に特有の欠陥を供えていたということ、そして、その長所が何よりも文献学的なものだったというところにある。人文主義が構想した形での古典的政治劇の登場人物にアリストテレスをしたてようとしたために、ブルーニは、幾つかの点で時代錯誤的なローマ化された台本を書いた。ラテン語の用法への忠実さにおいて、彼の使ったres familiaris はyconomicaよりも遥かにすぐれていたが、にもかかわらず、後者は、ローマの現実を喚起しないギリシア語的なラテン語だと言うまさにその理由によって、アリストテレスにより忠実だったのである。 Yconomica(家政学)、 oligarchia(寡頭政)、 democratia(民主政)といった単語は、現代の読者には見慣れたものだが、これらはブルーニの人文主義者としての感受性を幾つかの点で逆なでした。第一に、権威ある古典的用法から離れている点で。第二に、辞書的・語源的な難解さの点で。最後に、見た目に醜いと言う点で。この最後の判断は、権威の原理を美学の領域にまで延長した事から生じた。その領域では、模倣と言う人文主義的規範が、古典的模範を真似る際の成功(81)の度合いを測る事によって、文学的な、また他の形態の創造行為を統御していた。<模倣>(ミーメーシス)は、中世にも良く知られていた古来の概念だが、ペトラルカ、ブルーニ、ヴァッラの様な人文主義者は、中世の思想化が手にしていた乏しい歴史的洞察を疑いなく豊かにするような新しい規範を、その表現に対して確立したのである。彼らの新たな美学的歴史主義の帰結のひとつは、どんな古代の文献もそれに相当する「暗黒時代」の産物よりも美しいだろうという想定だった。もうひとつの帰結は、哲学の翻訳を含めた同時代の良質の著作は優越する古典的基準に従うべきだと言う、そこから導かれた確信にあった。キケロの説得力あふれる演説を耳にし、プラトンの対話編の優雅さを目にしたブルーニや他の人文主義者たちは、あらゆる言語が、哲学的言語さえもが、それ自体よきものとしてだけでなく、修辞学的目的への手段としても、美を目指すべきだと結論したのである。 こうした新しい態度が生んだ最初の重要な哲学的産物が、ブルーニによる『ニコマコス倫理学』のラテン語訳だった。この翻訳の序文は、それまでの翻訳に対する挑発的批判を含むと同時にアリストテレスの散文の美しさを強調し、中性の翻訳者の粗野な仕掛けを使わなくともラテン語がギリシア語原文を正確に再現できる事を主張している。すぐさま反論があり、ブルーニは、およそ十年後に、大きな影響を振るった論考『正確な翻訳法について』でこれに応答したが、その数年後またしても、スペイン人の聖職者カルタヘナのアルフォンソ(アロンソ)からより猛烈な攻撃を受けた。この「『倫理学』論争」で最も頻繁に議論された論点は、ギリシア語の用語tagathonに対するブルーニの誤解―――この珍しいつづりを、アリストテレスが単に「善」を意味したに過ぎない箇所で、ブルーニは「最高善」という意味に取った―――と、ブルーニがクリュソロラスから学んだ、翻訳者は単語に頭を悩ますより前に意味を移すべきだと言う規則の再定式化だった。より深いレベルでは、ブルーニとアルフォンソや他の批判者との論争は、言語とテクストの関係に関わっていた。ギリシア語を知らないアルフォンソは、アリストテレスのテクストが時間と場所に制限されない真理を表現しており、それゆえ、いかなる特定の言語にも縛られないと考えたが、ブルーニも他の人文主義者も、あらゆるテクストを、そ(82)れがたまたま架かれた特定の言語の偶然的な人工的産物とみなした。ブルーニにとって、アリストテレスの忠実な翻訳とは、そのギリシア語原文に対する忠実さだけでなく、他の古代文献に見出されるラテン語の規範に対する忠実さを要求していた。しかしながら、アルフォンソにとっては、こうした学問的・文学的責務は所与のテクストに不完全に表現されている真理に無関係なものだった。彼は、翻訳のまことの対象が<ラティオ>ratio、つまり歴史と文献学とを超越する超時間的構造だと論じたのである。ブルーには、翻訳をこれとは全く違った仕方で考え、それを、処理される二つの項が両方とも歴史的な個体の中に埋もれている<ギリシア語>から<ラテン語>への移行とみなしていた。この理由により、ブルーニは、あるテクストが出現したより広い文化的文脈を完全に習得する事を翻訳者に求めた。アリストテレスを完全に理解するためには、アリストテレスや他のギリシア人が話した言語とともに、彼が生きた世界を知らなければならないのである。 古代文献を読むためのこの新しいやり方は、翻訳の方法だけでなく、解釈の様態にも変化をもたらした。中世の注解者が、大概、ある哲学文献に述べられている、或いは含意されている概念的問題の直接的集合に対象を限定していたのに対し、ブルーには、注解の範囲を拡大して、読者がテクストをより広い歴史的・文献学的視野で眺めるための手助けをした。……16世紀までに、アリストテレス解義の中世的様式と人文主義的様式との融合によって、ブルーニの流儀による広い文献学的注解は、伝統的な哲学的様式の注釈と融合した。ブルーニは、独創的な哲学者でもなく、いかなる種類の偉大な精神の持ち主でもなかったが、解義者・翻訳者としての彼の仕事は、他の学問領域は度外視するとしても、哲学の読解と著述に巨大な変化を生む一因となった。ブルーニは、哲学が必然的に歴史学・修辞学・文献学と結びついていると考える一方で、科学的・形而上学的・認識論的論点には殆ど或いは全(83)く好奇心を示さなかったタイプのルネサンス期の哲学者を代表している。アリストテレス主義の伝統のこうした枢軸的関心に興味を持たなかったとはいえ、ブルーニは、彼の時代においては重要なアリストテレス主義者だった。ルネサンス期のアリストテレス主義をその多様性においてあまさず把握しようとするなら、我々はブルーニの哲学の流儀を考慮に入れなくてはならない。(83)
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)