2009年4月2日木曜日

世界観、その主な特徴(人間観)

人間観(308) 人間の肉体の構成に関する古典的な考え方や、人間を四つの個性(胆汁質、多血質、粘液質、憂鬱質)に分類する考えかたをこの時代の著作家たちは真剣に受け取っており、それは医学史においては重要な考え方であった。この考え方は芸術とも関連があった。一例を挙げれば、霊感とは神が与えた狂乱であるというプラトンの概念に従って、偉大なる人物は全て憂鬱質であるとする議論(それはアリストテレスが書いたテクストからきている)をフィチーノが支持したことがある。創造的な人々ingeniosiは憂鬱質であると同時にきちがいじみたfuriosiところさえある、と彼は論じている。フィチーノはもっぱら詩人の事を考えて論じているのだが、ヴァザーリはこの考え方を美術家たちにも適用しており、そのことでボヘミアンの神話を作り出す一助となった。 (309)ここでの主要なテーマは…ブルクハルトによって発見された……ルネサンス期の個人主義という問題である。ブルクハルトはその書の中でももっとも頻繁に引用された部分のひとつで次のように書いている。「中世においては人は自らを種族、国民、党派、家族、ギルドの一員とのみ認識しており、何らかの一般的なカテゴリーを通してのみ自らを認識していた。イタリアではじめてこのベールが風の中に吹き払われる。人は精神的な「個人」となり、自らを個人として認識する」。ブルクハルトはさらに、名声への欲望やそれを達成する手段、新しい嘲笑の意識などを全て「個人の発展」と言う項目で論じている。この「全てを一括する用語」を使っていることに対して彼は厳しく批判されてきた。ところが実際には、ブルクハルトは自分が打ち出した解釈に対して次第に懐疑的になって行った。…… ブルクハルトに対する批判に反論を加えるのは困難である。と言うのも、この時代の都市に暮らすイタリア人たちは、特定の家系あるいはギルドの一員であることを極めて強く意識していたからである。しかしそれでも個人主義もしくはそれに類似した何らかの考え(310)方がここでは必要である。……個人と言う観念は自然に生まれるものではない。それは社会的な形成物であり、社会的な歴史を持つものである。実際のところ、特定の文化を理解しようとするならば、その文化の中で通用する個人の概念を理解することが必要である。……それこそが部外者がある文化に入り込むための良い方法なのである。s ルネサンス期のイタリアで、少なくともエリートの間で、通用していた個人の概念を問題とする場合、ブルクハルトが特に関心を抱いた自己意識と自己主張を区別し、さらにその両者を独自の個性と言う概念とも区別することが役に立つであろう。 独自の個性と言う概念は絵画や著作における個人のスタイルと言う考え方と見合っており……、ウルビーノの宮廷で詩人ベルナルド・アッコルティは「唯一無二のアレッツォ人」というあだ名で通っていた。…… 自己主張に関して……名声を切望することはルネサンス期に(311)生まれた新しい現象であるとブルクハルトは論じた。オランダの歴史かホイジンガはその現象が「それ以前の時代の騎士の名誉欲と本質的には同じもの」であると反駁した。名声への欲求が中世の騎士たちの主要な動機のひとつであった事を騎士道小説は示唆しており、したがってブルクハルトが指摘したことは名声の栄光から軍事的な意味をなくしたと言うことでしかないともいえる。とはいえ、この時代のイタリア文学の中で自己を主張する言葉が数多く使われていることは注目に値する。そうした言葉としては競争concertazione, concorrenza、対抗emulazione、栄光gloria、羨望invidia、名誉onore、屈辱vergogna、価値valoreなどがある。そして……この時代の個人の価値に言及する場合にきわめて重要な意味を持つ概念であり、[運命を正反対の概念とする]力量virtuという言葉がある。たとえば人文主義者レオン・バッティスタ・アルベルティによる家族に関する対話編のような特定のテクストの中に、この種の言葉が並外れた頻度で出現する場合、心理学者ならばそのテクストの著者が平均以上の達成要求を持っていた可能性があると述べるであろう。また、アルベルティの経歴にはこの説に反駁する材料は皆無である。フィレンツェの人々が成功に対して普通以上の関心を持っていたことは、ライバルを屈服させるテーマが多い当時の短編小説、美術家同士の競争がコンクールとして制度化されたこと、美術家のコミュニティ内で交わされた辛らつな言葉とねたみの言葉や、少なくともこの都市が残した驚くべき創造性の記録からも分かるであろう。 (312)いずれにせよ自己主張はトスカーナの人間像の中でも重要な部分であった。人文主義者ブルーにとアルベルティはともに人生を競争として描いている。「競争で走ろうとしない者や、スタートはしても疲れてしまって中途であきらめるものが居る」とブルーには書いている。アルベルティは人生をボートレースにたとえて、商品を得るものは少数に過ぎない、とする。「かくして人間の障害の中で名誉や栄光を求めて競い合うとき、自らに優れた船を用意すること、その人の力量や才能を発揮させる機会を与えること、そして第一人者になる為に努力することはまことに有益である、と私には思える」。ダ・ヴィンチは画家たちに集団で絵を描く事を進めている。その理由は「健全なる羨望の念」が上達の為の刺激になる、というのである。この種の競争に反対する議論としてはシエナ出身の教皇ピウス2世の例がある「諸君主の宮廷では他人を蹴落とし、自分自身を引き上げる為に最大の努力が払われている」と彼は不満を述べている。 競争が自己意識の発展を促すと考えてもそれほど不合理ではないだろうし、この種の個人主義の例がトスカーナでは他の何処よりも豊富である点も興味深い。「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の古典的な文言を引用した者たちの中にフィチーノが居るが、この言葉は本来の意味より世俗的な解釈を与えられながらも、この時代には真剣に受け取られていた。 自己意識の最も直接的な証拠は自伝、より正確には一人称で書かれた日記や日誌に現れた自己意識である。こう(313)した日記の類はフィレンツェだけでも百点ほどが現存している。この種の著作物をフィレンツェでは「リコルダンツァ」と読んだが、それは「備忘録」とでも訳すことが出来るだろうか。出納簿としても、都市の年代記としても何がしかの意味を持つとともに、家族の動向にも焦点が合わされているが、しかしそれを書いた個人に関しても多くの事を明らかにする……。[さまざまな問題を扱った]覚書は自己意識を表現する事を意識して掛かれなかったにしても、それを書くことで自己意識を作り出すきっかけになったかも知れない。…… 自伝だけがルネサンス期のイタリア人たちの自己意識の唯一の証拠ではない。絵画もそうである。肖像画は家族集団の中で掲げられ、その作成は家族の為に依頼されたが、自画像はまた別のものである。自画像の大半はそれとして描かれたものではなく、他の題材にささげられた絵の片隅に画家が姿(315)を現す形のものであった。……だが16世紀のうちには……厳密な意味での自画像を描くが形が現れる。この時代に作られるようになった鏡の重要性をこうした画家たちは思い起こさせる。鏡は自己意識の発展を促す上で大きな役割を果たしたものと思われる。…… 自己意識の証拠は数々の作法書からも得ることが出来る。そうした作法書の中でもカスティリオーネの『宮廷人』1528、ジョヴァンニ・デラ・カーサの『ガラテーオ』(1558)、ステファノ・グァッツォの『市民の会話』などが良く知られ……この三つの著作は全て……「日常生活において以下に自らを提示するか」を教えるマニュアルであり、公の場において自らの社会的役割を優雅に演じる術についての教則本なのである。その人独特の振舞い方よりもよきマナーに従う事をこうした作法書は教え込んでいるが、もし自己意識そのものが存在しなければ作法書も意味がなくなるし、作法書は読者に対して自己意識を喚起する役割を果たした。カスティリオーネは「どんな言葉であれ行為であれ、何の苦労も無く、事実上何も考えずに語られ、為されている」用に見せるために、ある種の「さりげなさ」(316)を身につける事をすすめている。だが、この種の自然さは習い覚える必要がある事を彼は認めている。それはわざとらしさを隠す技術なのであり、その点でカスティリオーネは宮廷人と画家を比較している。彼が非常に問題にする「優美さ」と言うものこそ、既に見たように、この時代の美術批評の中心的概念であった。カスティリオーネを宮廷人たちの中の画家と呼ぶか、もしくは彼の友人ラファエロを画家たちの中の宮廷人と呼ぶか、それを決めるのは難しい。しかしこの二つの領域の間に存在するつながりは極めて明瞭である。同じようなことがピコの『人間の尊厳について』の中でもはっきりと述べられている。この書の中でピコは、人間に対して神に次のように語らせている。「汝自身の創造者のごとく、汝の求める形に汝自身を作るが良い」。「人間の条件」を論じた著述家たちは人間の尊厳と言うテーマを好んで取り上げた。人間の尊厳に関するピコの論説をルネサンスを象徴するものとし、中世を象徴するものとして教皇イノケンティウス3世の人間の悲惨に関する論説を対比させたくなる誘惑に駆られる。だが、人間の尊厳と悲惨さはいずれも中世及びルネサンスの著述家たちがともに認識していたものであった。人間の尊厳の理由となった論点の多く(人間の肉体の美しさ、その直立した姿勢など)は古典古代期やルネサンス期と同様に中世に於てもありふれた議論であった。尊厳と悲惨と言う二つのテーマは互いに矛盾すると言うよりも、互いに補足的なものとして理解されていた」。 (317)この時代に知識人の間で人間に対する信頼感が強くなったと言う点を明らかに示すような論調の変化が存在するように思われるのも同様な事情からである。ロレンツォ・ヴァッラは持ち前の大胆さで霊魂を「人―神」homo deusと呼び、天国への霊魂の上昇をローマの言葉を使って「勝利」としている。ピエトロ・ポンポナッツィは、ほぼ完璧な理性を達成することに成功した少数の人々が神々の一人として数えるに値するものと主張している。画家や君主といった現実の人間に対して「神々しい」や「英雄的な(=神人的な)」などの形容詞が使われる事が増えた。……ヴァザーリはラファエッロを「死すべき運命の神」と描写しているし、メディチ家の「英雄たち」について語っても居る。マッテオ・バンデッロは「英雄的なゴンザーガ家」や「輝かしいヒロイン」であるイゼベッラ・デステについて言及している。……「神のごときミケランジェロ」という良く知られた呼び方が生まれた……。 人間の尊厳(実際には神聖さ)に対するこうした考え方は諸芸術にも影響を与えた。たとえば教皇インノケンティウス3世が人体を嫌悪すべきものとしたのに対して、ルネサンス期の著作家たちはそれを賞賛し、人文主義者アゴスティーノ・ニーフォは「人間以外の何ものも美とは呼べない」として人(318)体の均整を擁護することまでしている。「人間」と言う言葉で彼は女性を想定しており、アラゴン家のジャンヌという特定の女性を考えているのである。こうした見解が表明されている社会においては理想化された人体が描かれるであろうと考えるのは当然である。(これも理想化された)人体から建築の均整観が派生することも人間の尊厳と言う前提にその多くを負っている。また「英雄的」という言葉が文学において過剰に使われたこの時期には、所謂「壮大様式」grand mannerが美術に於ても支配的であった。美術の趣味の変化を説明しようと望むならば、世界観のより広い変化に注目しなければならないのである。 この時代の著作に良く見られるもう一つの人間のイメージは、理性的で計算をする慎重な動物のイメージである。「理性」ragioneと「合理的な」ragionevoleという言葉は繰り返し使われたが、それは肯定的なニュアンスを含んでいた。この二つの言葉は多様な意味を持つが、理性と言う観念が中心にある。Ragionareという動詞には、「話す」と言う意味があるが、話す能力こそ動物に対する人間の優越を示す理性のしるしである、とこの時代には考えられていた。理性の意味の一つが「計算」であり、商人たちは会計簿を「理性の書」libri della ragioneと呼んでいた。もう一つの意味は「裁判」である。パドヴァの「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」は「理性の館」と言うよりも法廷であった。裁判には計測が含まれる。それは古典時代やルネサンス期のはかりのイメージが司法に与えられている事を思い出させる。理性には「比例」あるいは「比率」と言う意味もある。マネッティによるブルネレスキ伝の中で、良く知られた遠近法の初期の定義が述(319)べられている。それによれば、遠近法とは物体の遠近に応じてその大きさを「理性によって」たがえて描く手法、とされている。この言い方は「割合に応じて」もしくは「比例して」と翻訳可能である。 イタリアの都市生活において、計算をする習慣は重要なものであった。算術はかなり広く知られており、フィレンツェやその他いずれの都市でも「そろばん学校」が教えられていた。13世紀の文書の中には正確な数字に対する非常なこだわりが見られるものがある。パルマのフラ・サリンべーネの年代記がそうであるし、ボンヴェジーノ・デッラ・リーヴァの「ミラノの偉大なる事物」に関する論文は市内にある噴水・店舗・聖堂のリストを作り上げると同時に、ミラノ市民が毎日平らげる穀物のトン数まで計算している。計数にこだわるこうしたメンタリティの証拠は、ジョヴァンニ・ヴィッラーニによるフィレンツェの年代記の中の統計数字が雄弁に示すように、14世紀には更に多くなる。そして15-16世紀にはそれ以上にそうした証拠は増える。フィレンツェとベネチアでは特に、輸出入・人口・物価の統計に関心が払われた。複式簿記方は広く普及した。1427年の資産台帳は、フィレンツェの統治下にあったトスカーナの25万の家系の一つ一つについて査定をしたものだが、計数にこだわるメンタリティを表現すると同時に奨励もしていた。時間は「貴重な」ものとみなされ、それは注意深く「消費」されるべきであって、「浪費」されてはならないものであった。……同じようにジョヴァンニ・ルチェッライは自分の家族に「時間を倹(320)約する」ことを勧めている。「というのも、それこそがわれわれにとってもっとも貴重なものであるからである」。時間は合理的な計画の対象となった。人文主義者の学校教師であったヴィットリーノ・ダ・フェルトレは学生たちの為に時間割を作成している。彫刻家ポンポニオ・ガウリコは人生を無為に浪費しない為に、子供のときから自らの生涯を計画していたと述べている。 理性、倹約masserizia、計算などが重視されるとともに、「慎重な」prudente、「注意深く」pensatamente「予見する」antevedereといった言葉が良く使われるようになる。合理的という事はしばしば有用であることと同じ意味とされた。そして功利主義的なアプローチはこの時代のかなりの著作家たちに特徴的に見られることである。たとえばヴぁっらの対話編『快楽について』の中で、対話者の一人人文主義者パノリミータは効用utilitasの倫理を擁護している。この15世紀のジェレミー・ベンサムは、あらゆる行為は苦痛と快楽の計算の上に成立している、と語る。パノルミータは著者であるヴァッラの見解を代弁しているのではないのかもしれない。だが、ここで問題とすべきなのは誰がそう考えたかではなく、この時代に何が考えられえたかと言うことなのである。有用性を強調する姿勢は、アルベルティの家族論からマキャヴェリの「君主論」にいたるまで、この時代の文書の中に繰り返し現れる。『君主論』では「臣下の有用性」について論じられ、寛大さ、哀れみ、冷酷さを「賢明に使い分ける」必要性が述べられている。またフィラレーテは彼の理想の都市スフォルツィンダを、ベンサムなら高く評価したであろう様な、功利主義的なユートピアとして想像している。そこでは死刑は廃止されている。と言うのも、犯罪者は死ぬ代わりに厳し(321)い労働刑を果たすことでコミュニティにとって更に有用な存在となるからである。とはいえこの刑罰に犯罪を制止するだけの過酷さが備えられていると言う条件も付されている。 計算は人間同士の関係に影響を与えた。人間を会計簿のように見ることはグィッチャルディーニの考察の中にはっきりと示されている。…… イタリア人(少なくとも上流層の成人男性)は自分自身を制御した者を操る事に対する関心がある事を認めていた。(それは「資本主義の時代」の真実がどのようなものであれ、この時代のヨーロッパの他の地域では見られないことであった)。アルベルティによる家族に関する対話編の中で人文主義者リオナルドは「魂のさまざまな感情を抑え、コントロールすること」が良いことであると論じている。またグィッチャルディーニは欲望を満足させることよりもそれを制御することのほうが大きな快楽が得られる、と言明している。社会学者ノルベルト・エリアスが……(322)示唆しているように、自己抑制が文明であるとすれば、美術や文学が無かったとしても、ルネサンス期のイタリア人たちはヨーロッパで最も文明化した人々として描かれるだけの権利を持っている(322)。(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)