2009年4月2日木曜日

レトリックと公的・私的書簡

レトリックと公的・私的書簡演説理論と書簡作成術(61) 古代の演説理論が書簡作成術、時には「公文書作成」とも翻訳可能な学術と密接に関わるからであり、史料上からも無視できない意義を有している。書簡術が演説技法に負っていた事は、1140年ごろ、ある逸名のボローニャの書簡作成者が書簡の事を、十分に送り手の感情を表現しながら、調和が取れ、明確に書かれた部分から成り立つ演説と読んだ事からも知られる。 中世では概して公文書は読まれていた。たとえば、激しい叙任権闘争期に、グレゴリウス7世(イルデブランド・ディ・ソアナ)の書簡は力強い声で朗々と読み上げられていた事を想像してみなければならない。…… 書簡とレトリックの関連性には、公的書簡と私的書簡、公書と私信を区別して取り組む必要があろう。伝統的、形式的な公的書簡―――その無味乾燥な、装飾なき文体stilus humilisは書簡作成術と同一視され、13世紀はじめ(62)までに書簡文のみならず、歴史叙述をも左右した―――に対し、私信は表現と内容が多様、豊富で、文学の一ジャンルの名に値する。ルネサンス・ヒューマニズムはその様な書簡文学をおびただしく生み出した。この文学の中で、ルネサンスを特徴付ける「世界と人間の発見」が生き生きと眼前に展開される。またヒューマニストは熱心に私信を書くだけでなく、収集にも精を出した。彼等の間でいかに書簡が好まれ、求められていたかは、リバニオスの書簡が15世紀にラテン偽書により倍化されたという事実が教えてくれるところである。ルネサンス文献学は中世の偽文書を暴いたが、他方でこれを生産さえしたのである。 そこで中世の書簡作成術と私信形式の書簡文学がいかなる関係にあるかが問われよう。ヒューマニストたちは、或いは公証人課程を取ったり、或いは法学を修得したり、あるいはヒューマニズム教育(中世の中等教育と変わらず、書簡の書き方に力を入れる。またヒューマニストは書簡作成のマニュアル化に努める)を受けたりして、それぞれの学習時代を有している。そして一方では公職在職中に外交書簡などの公文書を認め、他方では個人的に種々の感慨を私信につづった。 また、公的と私的の間を巡って……フィレンツェ共和国書記官長スカラが認めた、ローマ教皇大使の為の信任状が、時の教皇パウルス2世の機嫌を損ねたのは、ひとえに中生来の伝統的な用語法でなかったからである。……このような事例から、書簡一般に関する考察には歴史的視点に基づく研究が不可欠である。 書簡作成術が法規にうたわれて、15世紀末に至るまで公的書簡を支配し続ける一方で、文学的価値を持った私信の時代はペトラルカの『親交書簡集』(1345)から始まるとされる。これは弁論作家ではなく、書簡作家であるキケロとの出会いに刺激されたからである。…… 弁論の分析に比較すると、古代では書簡理論は余り練り上げられなかったように思われる。それに古代人は書簡を基本的に会話の類と見、打ち解けた文体としての表現を好んだ。古代の実例に影響されて、ペトラルカは(64)演説形式でなく、会話形式としての書簡作成に本格的乗り出した。R.G.ウイットは、ペトラルカ以前に既にジェリ・ダレッツォの指針に見られる新傾向を指摘し、セネカやプリニウスの書簡の丹念な研究が影響を与えたと言う。新たな書簡表現の導入者が誰であれ、古代の書簡文学から刺激を受けた事に変わりは無い。それでも、書簡における新機軸が開始されようとも、演説理論に基づく書簡技法は一気になくなりはしなかった。ルネサンス世紀でさえも、伝統的な書簡説の影響は色濃く残っていた。エラスムスがその『書簡の書き方』で、中世来のレトリック三方法による決まりに、新たな第4の方法「親密な類」を導入したのは、依然として旧形式が残存していた表れでもあろう。 書簡作成術の発展と法・公証の関連 書簡作成に演説各部が応用された最初の有名な資料は、10世紀半ば過ぎのノヴァラのグンゾによるライヘナウ修道士たちあて書簡である。グンゾの書簡はこれを5部分、演説には無かったものの、付加された出だしの挨拶、序言、陳述、論証、締めくくりの規則に従って書いた。この手法は後の手引書に広く見られる事になる。また種々の挨拶や助言だけの実例集も現れ、実用に供された。 一般的に11世紀後半のアルベリコ・デ・モンテ・カッシーノが書簡作成術の創始者と見られている。各部は挨拶、助言、陳述、論証、締めくくりである。アルベリコは演説の各部をキケロからでなく、セビリアのイドルスから、ことに挨拶はヴィクトリアヌスから得たらしい。アルベリコがその名の示すとおり、修道院付属の学校で知(65)られているモンテ・カッシーノ出身であった事は、書簡作成術が社会の必要に答えるべく、学習情大いに重要であった事を物語る。彼に取り書簡作成術はサルスティウスからの引用に見られるように,文法やそのほかの自由科目をも含む、広範な学問領域を著していた。 12世紀に入ると、レトリックの特別部門である書簡作成術はその様な全体枠から分離され、同時代の法学や医学と同様に専門家、特殊化された。注目に値するのは、ボローニャがその書簡作成術教育の中心地であった事である。この術は公証術取得を目指すものや、法律を学んでいる学生には将来の職業に役立つ科目と考えられた。このボローニャで書簡作成術を修め、フェデリーコ2世(1250没)の悲運な廷臣詩人として知られる人が、前述のヴィネイスである。…… ダンテとの交流で周知の詩人ジョヴァンニ・デル・ヴィルジーリオは5編の詩的書簡からなる『ディアフォヌス』を編んだ。これは14世紀始めのボローニャの知的・社会的文息を伝えている。…… ダンテの師と目され、フィレンツェ書記局ではサルターティの先輩に当たる公証人にブルネット・ラティーニがいる。ジョヴァンニヴィッラーニはこのラティーニにフィレンツェの有能な市民として高い評価を与えている。(66)ラティーニは偉大な哲学者であり、立派に話す事に於ても、同様に立派に書く事に於てもレトリックの最高の師であった、と記す。そしてラティーニ自身が『宝典』の中で、レトリック教師と戸弁論家の違いに関し、次のように述べている。レトリック教師はレトリック術の規則と決まりに従って学問を教えるものであり、弁論家はその学課を学んだ後に、話すこと書くことにおいてこれを用いるものであるとし、優れた先人にペトルス・デ・ヴィネイスの名を挙げる。 ラティーニの『宝典』は、……『ニコマコス倫理学』のイタリア語訳を利用したと考えられている。レオナルド・ブルーニが『ニコマコス倫理学』をギリシャ語原典からラテン語に訳する事になるが、アルデロッティの[1243のイタリア語訳]は需要があり、コムーネの市民に少なからぬ影響を及ぼした。…… ボローニャ大学は12式から法律教育で名声をほしいままにする。はじめはローマ法で名を挙げたが、やがては教会法でも学に志すものを魅惑した。同世紀半ばまでにはイタリア人は文法、アリストテレスの論理学、神学を修める為にフランスへ,フランス人はローマ法を学ぶ為にボローニャへ赴く事になる。フランスは書簡作成術では影響を受ける側であったが、1180年ごろには、フランス人の手になる最初の『オルレアン風書簡作成術』が世に出た。同世紀末には、同じくフランス人作者による書簡作成術の重要な手引書が三冊、次々に現れた。作者の一人はボローニャで教鞭を取るに至った。13世紀に入ると当地の書簡作成術は黄金時代を迎える事になる。…… (67)忘れてならないのは、同大学の法律学校が、元来はレトリック学校として機能し、14世紀の遅い時期でも、時にはレトリックの学生は法律を勉強し、時には公証術の教師は法律のテキストを講義したと言う事実である。レトリックが特化された書簡作成術を介して、法と公証術に深く連関しているのである。学習した後に世に出た公証人と、彼らより更に法学部で専門的に修学した法律家、裁判官はともに、都市国家フィレンツェでは同一の組合に所属し、緊密な社会集団を構成した。ヴィッラーニは1330年のフィレンツェについて、80人の司法家にたいし600人の公証人が居ると書いた。同大学規約ではレトリックの術の重要性が謳われるとともに、文書を作成する職務、公証人職にも言及が為され、この教育のために怠りが無い、と記されている。 勿論公証人はイタリア社会に忽然と現れたのではない。……コムーネとしてフィレンツェが発展し、社会が複雑化すると、公証人や法律家の必要性はいっそう高まった。彼らは学生としてローマ法やレトリックを学ぶ課程の中で古代の歴史を身近に感じ、上昇する共和制都市国家における役人としての自らの生を、歴史的なローマ共和政の人間と重ね合わせた。ここに15世紀前半のフィレンツェにおいて「市民的ヒューマニズム」が誕生し、独自の史的展開を遂げる前提が立ち現れる。(67) (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)