2009年4月7日火曜日

Menschen-wuerde /

ルネサンスにおける「人間の尊厳」の問題 佐藤三夫(55) 1.『人間の尊厳』の問題の断絶論と連続論 「人間の尊厳」という主題が問題になるのは、ジュール・ミシュレーやヤーコプ・ブルクハルトなどが想像したように「世界と人間の発見」がなされたいわゆるルネサンス期以後のことではない。それは人間にとって言わばノアの洪水以前的な主題である。実際、ポール・オスカー・クリステラーがその「人間の尊厳」に関する論文において指摘しているように、技芸の発明者としての人間の称賛は、プロメテウスの神話やソフォクレスの『アンティゴネー』の二番目のコーラスなどにおいて述べられていたように、古代ギリシア文学においてすでに親しいものであったし、またいわゆるヘルメス文書の中には「人間は大いなる奇跡である」と主張されていた。ソクラテスは「汝自らを知れ」というアポロンの神託をその哲学のモットーとし、プラトンは宇宙における中間者としての人間の役割を重視して愛知の意義を究明し、初期のストア主義者たちは宇宙を神と人間との共同体と考えていた。キケロやセネカは主として人間の道徳哲学に関心を持った。 他方『旧約聖書』によれば、神は自分にかたどって人間を作り、「地を従わせよ、海の魚、天の鳥、地上を這うものをつかさどれ」と言われたと言う。クリステラーによれば、「初期のキリスト教思想は、人類の救済とキリストの受肉への強調でもって、人間の尊厳に少なくとも暗黙の承認を与えていた。この概念はさらに教父たちの(56)中の幾人かによって、特にラクタンティウスとアウグスティヌスによって発展させられた。」 それでは一体、ルネサンスにおける「人間の尊厳」の問題は、古代や中世におけるその問題の単なる延長線上に位置していたのであろうか。一方ではそうだと言う説があるし、他方では否と言うべきだとする説もある。まず否という説を明瞭に述べた典型的な例として、我々はブルクハルトの『イタリアにおけるルネサンスの文化』を上げることが出来るであろう。彼はその所の「世界と人間の発見」と題された章(第4章)の中で、『ルネサンスの文化は、初めて人間の完全な内実をそっくりそのまま発見して、それを明るみに出すことによって、世界の発見にさらに大きな功績を加える』とし、この時代が個人主義を発展させ、それを個性的なものの多面的な認識へと導くことを述べている。そして人格の発展とそれに結びついた人格の認識に関して、「この二つの大きな現象の間に、我々が古代文学の影響を移さなければならなかったのは、個性的なものならびに普遍的に人間的なものの認識と描写の仕方が、本質的に、この媒体によって色づけられ規定されるからである。しかし認識の力は、時代と国民の中にあったのである」と言っている。 ブルクハルトによって特徴付けられた問題に関してその哲学的形式を明確にしたのは、ジョヴァンニ・ジェンティーレの『ルネサンスにおける人間の概念』という論文である。そこにおいて彼は次のように言っている、「哲学的な問題は、一方では、現実の超越的な原理として理解された神に対する人間の地位に関係している。そしてその問題は、ルネサンスにおいてある自然主義的な解決を受け入れる。なぜなら、人間生活にある内在的な目的があてがわれるからである。だが他方、その問題は、自然に対する人間の地位に関わっている。人間は、古代哲学によって自然と混合され混同されていたのである。そしてその問題は、この点に関して前の問題の解決と反対の解決を受け入れる。すなわち、人間を超越的な神に再び結びつけることによって、より下位の自然に対する人間の自律の権利を要求する解決である。そうしたことから、人は一方で否定しながら、他方で不死を再び主張するようになったのである」。 またクリステラー自身、慎重な表現はとっているが、ルネサンスにおける人間の尊厳の問題を中世におけるそれの単なる延長において連続せるものとして考えているわけではない。即ち、彼はこう言っている、「中世のキリスト教的伝統においては……人間の尊厳は、主として神にかたどって作られ救いに到達しうる被造物としてのその身分にあるのであった。そして自然的存在としてのそれ自身の価値にあるとは余りみなされなかった。この自然的価値は、古代哲学によって示唆された用語で屡々承認された。だがいかなる中世思想家も、人間はアダムの堕落のゆえに、その自然的な尊厳の大部分を失ってしまったと言う事実を強調する事を避け得なかった。人間と彼の状態についての悲観主義的な考え方は、多くの点で、中世思想の典型的なものである。……ルネサンス・ヒューマニズムの開始以後、人間とその尊厳についての強調は、それがそれ以前の諸世紀の間また古典古代においてさえ行われたものよりも、いっそう持続的で排他的なものとなり、最後にはいっそう体系的なものとなると言う印象を、我々は避けることが出来ない。」 ところが、以上のような説に対して、「新しき人間なるものは真に存在するか」という問いを発するジュゼッペ・トッファーニンにとって、ルネサンスの人間観を中世の人間観から根本的に区別することは疑わしいことのように思われる。対立は中世の人間観とルネサンスのそれとの間にあるのではなくして、むしろペトラルカが定式化したように霊魂としての人間の科学(真の知恵即ちフマニタス)と自然としての人間の不毛な科学との間にあるのであり、精神的な価値と科学的な価値との間にあるのである。つまりはアヴェロエス主義的な科学的人間観と、古典的文学的人間観(58)との対立が問題である。そしてヒューマニズムは教会と同様にギリシア・ローマ・カトリック的なものとみなされる。  しかしながら、ジョヴァンニ・ディ・ナポリはその「ルネサンスにおける『世の蔑視』と『人間の尊厳』という論文において、まずジェンティーレやトッファーニンなどの所説を紹介した後で、「ルネサンスの主題に関して余りにしばしば行われる一派かは、判断において大きな混乱を引き起こした。原典に即し、それが何を言わんとしているかを見ることが必要である。『原典をして語らしめること』は、ルネサンスの思想家たちに何が何でもある現実的内在主義の先駆者の役目を負わせようと欲する者にとっては、具合の悪いことである」と言っている。だが具合の悪いのはジェンティーレ主義者たちにとってだけではない。中世主義者たちにとっても同様なことであろう。 それゆえ、中世とルネサンスとの断絶論や連続論のアプリオリズムによって偏見を形作る代わりに、我々もまた「原典そのものに帰る」ことによって、ルネサンスにおける「人間の尊厳」の問題をその本源的な姿において浮かび上がらせ、その真意を解明するように努めよう。(58)
 2.中世における「世の蔑視」と「人間の尊厳」 「人間の尊厳」の問題は、すでに教父たち以来「人間の悲惨」miseria hominisあるいは「世の蔑視」contemptus mundiの問題と関連して論じられてきた。それは人間が自省して神から離れた自らの悲惨を自覚し、信仰と痛悔によって浄化し、観想によって神と一致して浄福の生を得るに至る、修得神学および神秘神学の基本的主題である。 たとえば聖アウグスティヌスは言っている、「私の全てを捧げて汝によりすがるとき、私はどこにも悲哀と労苦(59)を有しないであろう。そして私の生活は、まったく汝に満ちて、真実の生活となるであろう。しかし汝は、汝が満ちるもののみをあげ給うのであるから、私はいまだ汝に満ちていないがゆえに、私自身にとって重荷である。私の中には、私の嘆かわしい喜悦と喜ばしい悲哀とが相争っている。そしてそのいずれが勝利を得るかを私は知らない。」そして神の偉大な慈悲を期待して、節制によって神との一致を回復することを願っている。 また「蜜の流れる博士」と呼ばれた聖ベルナールは、その説教において次のように言っている。「神の光に照らされて自分の霊魂をつまびらかに検討するとき、私はそこに二つの相反する事物が共存する事実を認め、かつそれを白状する。……私が自分の霊魂について抱きうるもっとも適格な概念は、それが虚無に服していると言うことである。……ところが、人間には悲惨の反面、すばらしい偉大さもある。……人間は偉大である。だがしかし、神においてのみ、偉大である。ただ神との係わり合いによってのみ、人間は偉大だからである。……一人の人間に、まったく相反する要素が共存している事実に驚いてはいけない。人間は、霊と肉との複合体である。霊は神から生まれ、肉は土くれから生まれた。ところで、命の源である霊より高尚なものがどこにあろうか。同時に土くれよりも卑しいものがどこにあろうか。……理性と死とのふしぎな合成。認識能力としたいフランとの驚くべき組み合わせ。……人間をこのように両面から考察するとき、一つの面には人間の虚無性が、他の面には人間の偉大さが観察される。いと高きみいつの神が、人間の悲惨のゆえに私たちのことを細やかに配慮してくださるなら、人間は偉大なのである」。こうして聖ベルナールは、謙虚に自分の悲惨を神に告白して、「禁欲に改心の涙」を伴わせることによって霊魂を向上させ、それを神の神殿たらしめるように勧告している。  ポール・ロワイヤルのアウグスティヌス主義的神学の影響のもとにパスカルが、「神を持たない人間の悲惨」と、「神(60)をもてる人間の至福」について論じようとしたのも、上に見たような中世の神学の伝統を受け継いだまでである。15世紀後半、若きジロラモ・サヴォナローラは『世の蔑視』と呼ばれる小著を書いた。それどころか、同じ15世紀末近くに、後にヨーロッパ最大のヒューマニストと呼ばれるデシデリウス・エラスムスが、おそらく『キリストに倣いて』の影響によってではあろうが、『世の蔑視について』として知られるラテン語の論著を書いた。それゆえ、中世の思想の特徴がもっぱら「世の蔑視」あるいは「人間の悲惨」であって、ルネサンスになってようやく「人間の尊厳と優越」が発見あるいは回復されたとみなす通俗の見解は、誤りであると言わなければならない。つまり、中世の初めからすでに「世の蔑視」は「人間の尊厳」と盾の裏表のように密接に関連付けられて問題にされてきたのである。ルネサンスにおける「人間の尊厳」の問題にしても、同時に「世の蔑視」あるいは「人間の悲惨」の問題と何らかの仕方で関連していたことは、原典を忠実に読むことによって知られるところである。 しかしながら中世がもっぱら「世の蔑視」の時代であると言う誤解を生むきっかけとなったことの一つは、中世の著者たちが「人間の尊厳」の問題について書いたときでも、多くの場合その著作に、『世の蔑視について』、『人間の状態の悲惨について』、『世を逃れることについて』、『人生の短さについて』、『死の善なることについて』などなどというような類の表題がつけられていることによるのであろう。だが中には、カンタベリーのヘルメルスの著作のように『人間の状態の尊厳と悲惨についての省察』と題されているものもある。 さらに、しばしば中世における悲観主義の典型的な著作とみなされた助祭ロタリウス(後の教皇インノケンティウス3世)の『人間の状態の悲惨について』にしても、その序文を読むならば、それが「人間の尊厳」をも考慮したものであることが分かる。即ち、そこにはこう記されている、「全ての悪徳のかしらである傲慢を抑え付けるために、(61)私は兎に角人間の状態の卑しさを述べた。……だがもしあなたがたの父たる御心が示唆したならば、キリストの御ために私は人間の本性の尊厳を述べるだろう。人間の本性の尊厳を通じて謙虚な者が高められるように、人間の状態の悲惨を通じて高慢なものが卑しめられる限りは。」と。 ジョヴァンニ・ディ・ナポリは、この問題について次のように解説している。「インノケンティウス三世はそれゆえ、人間の尊厳を知らなかったわけではない。むしろ、謙虚の教訓を大切にしていた人々に、価値と高貴の自覚を再び与えんがために、まず傲慢の誘惑に陥った人々を謙虚へと誘おうと企図したのである。つまり彼は、パスカルの言葉を借りるならば、人間の偉大と悲惨とに留意していたのである。むしろ彼は悲惨よりも偉大に留意していた」。なぜなら、「尊厳」の論究がこの小著の後半の結論となるはずであったからであり、また「尊厳」は「人間の本性」に関することであるが、「悲惨」は「人間の状態(条件)」に関することであるからだと、ディ・ナポリは言っている。 ところでフランチェスコ・ラッザーリはその『聖ヴィクトル学派における世の蔑視』において、「世の蔑視について」、あるいはそれに類した表題を掲げた著者の系譜を、教父時代より18世紀始めに至るまで長く記載している。それによれば「世の蔑視」に関する著述は、聖アンボロシウスの『世を逃れることについて』に始まり、教父時代と、11-12世紀における修道生活改革時代に特に多く、第4ラテラノ公会議(1215年)以後減少することが示されている。11世紀において、たとえばカマルドリ会(1084年、ケルンの聖ブルーノ)、シトー会(1098年、聖ロベルトゥス)などの修道会を創立させるに至った運動は、「修道的伝統のあらゆる要請とともに、世から遠ざかることが、最高度の完徳を達成するためにこの上なく適切な手段であると言う前提にまさに基づいている運動」であった。 「世の蔑視」の精神は、それゆえ教父の時代とこの修道生活改革時代においてその典型を見出すことが出来るであ(62)ろう。それは愛による神との一致の中に最高の人間の尊厳を見出す、禁欲的神秘主義であると言えよう。その代表者たちはいずれも、この世的な知識と業をさげすんだ、この上なく敬虔な英雄たちであった。だからといって彼らがいわゆるペシミストであったわけではない。なぜなら、彼らは神との一致による至福に至りえることを、信仰と希望と愛において確信していたから。しかも中世最大の禁欲主義者であるとともに最大のオプティミスト、貴女清貧の騎士であるとともに「太陽の賛歌」の詩人であったアシジのフランチェスコは、この場合よき証人である。 エティエンヌ・ジルソンはその『中世哲学の精神』の中で、「世の蔑視」によって中世のキリスト教思想がペシミズムだとみなされることを恐れて、「キリスト教思想の中軸を規定しようとするとき、我々はただ内的生活の勇士たちのみを頼みとしてはならないと言うことは、今すぐに注意しておかなければならない。……聖ベルナールのような聖人はいかに偉大であろうとも、またパスカルはいかに不可欠な人物であろうとも、彼らのみで教会教父と中世哲学者の長い伝統に取って代わることは出来ないであろう。この場合にも我々にとって最善の証人は、聖アウグスティヌスと聖ボナヴェントゥラと聖トマスとドゥンス・スコトゥスとーーそれから忘れてはならないが、そのいずれもが等しく霊感を受けたところの聖書――である」と言っている。しかしながら「世の蔑視」を説いた勇士たちが、キリスト教の教義に本質的に矛盾したことが無かったことは、それらの証人たちによって証しされ得るであろう。(62)
 3.ペトラルカにおける「世の蔑視」と「世界内超越」
・ 中森義宗・岩重政敏編『ルネサンスの人間像』、近藤出版社・1981年。