2009年4月2日木曜日
社会的枠組み(宗教組織)
社会的枠組み(宗教組織) (331)ベネチアの枢機卿は、教(332)会堂の中を通り抜ける人々を次のように描いている。「彼らは商売や戦争について語り合い、そして色恋沙汰についてすら話すこともしばしばである」。教会堂を通り抜けること、特にミサの間にそうすることは頻繁に禁じられた。この教令が余りに頻繁に出されたことから考えて、そうした行為がいつでも派生していたと結論せざるを得ない。教会堂の中で乞食や、馬や、賭博師や、授業をする教師を見つけたり、政治的集会に出くわしても不思議ではなかった。守護聖人の日といった大事な祝典を祝う為に、教区民たちは教会堂の中で食事をし、酒を飲み、ダンスをしたのである。 穀物や材木の倉庫として教会堂が使用されることもあった。1535年のマントヴァ司教の視察報告によると、ある教会堂の中に「教区司祭が台所や複数のベッドのほか、神聖なる場にふさわしからざるものを持ち込んでいた。その言い訳としては彼は自分の住居が狭すぎると述べた」。宝石や貴金属などの貴重品が教会堂の聖具室に保管されることもあった。結局のところ安全な保管場所はそれほど多くないという事情がこうした事態をもたらしたのである。 中世の人々には「敬意を失わないまでも、無遠慮に神聖なものを取り扱う」傾向が会ったというホイジンガの意見は、ルネサンス期にも当てはまる。ただルネサンス期の場合には、無遠慮さは必ずしも敬意を含んでは居なかったという但し書きが付く。神聖と冒涜との境界線は常に同じ場所に惹かれていたのではなく、トレント公会議(333)以降の16世紀後半の時代ほど厳密であったわけでもない。また誰もがその境界線を意識したわけでもない。1580年にヴェローナを訪れたモンテーニュは、ミサの間に脱帽もせず祭壇に背を向けて、立ったまま話をしている男たちを目撃して驚いている。 同じように、聖職者と俗人の厳密な区別も欠けていた。1526年のローまでの人口調査には、石工として働いている一人の修道士が記録されている。トレント公会議の後に神学校が創設されるまで、聖職者には特別な種類の教育が欠けていた。1514年のラテラノ公会議の参加者の一人は次のように問いかけている。「聖なる法に定められたとおりに衣服を着ないもの、内縁の妻を持つもの、栄達を求めて売買によって聖職者の地位を得たものがどれほどの数に上るであろうか。聖職者でありながら、兵士のごとく武器を携行する者がどれほど居るであろうか、自らの子供を引き連れて祭壇に登るものはどれほどの数か、石弓と鉄砲を携えて狩りをするものは何人いるだろうか。」……[聖職者と区別の曖昧な在俗聖職者も数に入っている]。 (334)文化的にも社会的にも、聖職者は均質な組織とは程遠い集団であった。聖職者は少なくとも三つのグループに区分けする必要がある。つまり、司教・下級在俗聖職者・修道士の三つである。 イタリアにほぼ300人居た司教は普通貴族の出身であった。司教職のいくつかは実質的に特定の家に代々受け継がれるものであり叔父達が甥のために地位を譲ることで継承されていった。司教職へのもう一つの満ちはパトロンー被保護者システムであった。教会法の学位を得た若者が枢機卿の配下に入り、書記として、あるいはその他の能力によって彼に仕え、その枢機卿の影響力を通じて司教職を得る、ということがあった。ヨーロッパのどの地域でも同じように、イタリアでも実際のところ司教たちは進学よりも教会法に明るいのが一般的であった。 教区司祭たちもパトロネージに依存していた点では同じであった。なぜなら特定の聖職禄については指名権が特定の家の所有物である事が多かったからである。司祭もしくは聖職禄を保有するものの中には、自身でその職務につかずに代理人もしくは「代理司祭」に自分達の代わりを勤めさせ、収入のうちの僅かな分け前を与えるものが居た。16世紀初頭のミラノ司教区の教区司祭の何人かは、未熟練労働者の収入よりも少ない。年間40リラの収入しか得ていなかった。収支の釣り合(335)いを取る為に馬や牛の商人として活動する聖職者たちも居たのである。聖職禄を持つ司祭と代理司祭とを問わず、教区司祭たちは殆ど正規の教育を受けていなかった。彼らが自らの成すべき事を学んだのは「徒弟制」を通じて、言い換えれば聖職者を手伝い、その所作を見ることで学んだのである。…… 修道会の存在について、修道士たちの中には[詩人や人文主義者で、修道会に所属したものが居た]。また、5つの托鉢修道会が存在している。[一部の修道会が、芸術家などを擁する事によって]、(336)13世紀以降、諸芸術に大きな影響を与えたことは間違いない。 少なくともイタリアの都市における宗教活動の中で、説教に重要な意味を与えたのは修道士たちであった。それは特に教区司祭の多くが、宗教改革派がイングランドの司祭たちに好んで用いた形容を使えば、「決してほえないおしの犬」であるように思えるときには修道士の活動は目立った。聖ベルナルディーノは会衆に対してミサと説教のどちらかを選ぶとすれば、説教を選ぶべし、とまで述べている。熱狂的な支持者たちは彼の説教を速記で書き留めたし、誰もが彼の説教を聞きにいけるように訴訟手続きが延期されることすらあった。俳優も顔色なしというほどの説教師も居た。キリストからの手紙を会衆に読んで聞かせるという評判の説教師も居れば、……会衆が鎧をまとって十字軍に参加する気になるような説教を行なうものも居たのである。…… 宗教的な祝祭もまた再現が困難なパフォーマンスではあるが、15-16世紀のイタリア人たちに(337)とっては非常に大きな意味を持った。例えばキリストの聖体の祭りは15世紀中に重要性を増した。1462年にヴィテルボでピウス2世と枢機卿たちによって非常に盛大にこの祭りが行なわれた……。その伝えるところでは、水やワインを噴出す噴水などの飾り付けのほかに、「救世主に扮した若者が血を滴らせ、彼のわき腹から噴出したいやしの血流が聖杯を満たした」。ジェンティーレ・ベッリーニ作の有名な絵は、ヴェネチアのサン・マルコ広場を通過するキリストの聖体の行進を描いている。16世紀には「活人画」tableaux vivantがベネチアのキリストの聖体の行進の重要な要素になった。この種の祝祭に於ては宗教劇もまた重要な要素となり、それはまさしくパフォーマンスの中のパフォーマンスであった。キリスト聖体祭は劇を演じる為のおあつらえ向きの機会の一つであった。それ以外の機会としては少なくともフィレンツェでは公現祭があり、嬰児のキリストに贈り物をもたらす三人の賢者もしくは王(カスパル、バルタザール、メルキオール)の姿が舞台で演じられた。ローマでは受難劇が毎年コロッセウムで演じられた。ローマを訪れた15世紀のあるドイツ人はその様子を次のように記録している。「鞭打ちや架刑、そしてユダが首を吊る所まで、全て生きた人間が演じた。登場人物は全員が富裕な家の子供たちであり、したがって秩序正しく立派に演じられた」。 最も重要な祝祭の中に、それぞれの都市の守護聖人の祭りがあった。ミラノの聖アンブロシウス、ベネチアの聖マルコ、フィレンツェの洗礼者聖ヨハネの祭がそれである。そうした祝祭こそは都市の威信がかかる行事であったし、祭の場で自治の精神が厳かに再確認された。一例を(338)挙げれば、フィレンツェでの聖ヨハネの祭は、競馬や馬上槍試合、フィレンツェの支配下にある主な都市は首都に代表団を送り、シニョリーア(市執政会議)のための宴会が持たれ、そしてまたお決まりの山車、競馬、騎馬行進、狩猟、手品師、綱渡り、巨人(竹馬に乗った人が演じる)といった見世物が登場した。 こうした劇や祭の組織の中心には同信会が存在した。この平信徒の自発的組織は14-15世紀には広く普及し、北中部イタリアだけでも少なくとも420の同信会が創設された。その主要な役割はキリストの模倣であった、といえるかもしれない。鞭打ちを頻繁に行なうことや、会食(最後の晩餐をモデルにした連帯確認の儀式)をすること、特別な機会に貧者の足を洗うこと、俗人の慈悲の七つの仕事(病人を見舞う、飢えた者に食物を与える、渇いた者に飲み物を与える、裸者に衣服を与える、囚人を助ける、死者を埋葬する、巡礼に宿を提供する)として知られる行為に対する関心のそこにはキリストの行為の模倣があった。特定の役割に専門化する同信会もあった。聖マルティヌス同信会は1422年にフィレンツェで創立されたが、貧者の中でも家柄の良い貧者を援助する事が目的であった。そしてその名称は乞食と外套を分け合った聖者に習ってつけられた。ほかには、有罪判決を受けた罪人の慰問を行なう、斬首の聖ヨハネ同信会があり、ミケランジェロもそのメンバーの一人であった。 美術のパトロンとしての同信会[の役割も重要なものとしてあり]、彼らは宗教行進の中で歩いたり、野外劇や宗教劇の中で演じる事を通じて宗教的祝祭において重要な役割を果たした。例(339)えば、フィレンツェで3人の王の出し物を演じたのは東方三博士同信会である。またこれもフィレンツェの聖ヨハネ同信会は、ロレンツォ・デ・メディチの書いた劇『聖ヨハネと聖パウロ』を上演した。ローマのゴンファローネ同信会は毎年の聖金曜日に受難劇をコロッセウムで上演した。同信会員たちは行進中や教会堂の中で、聖母や聖者をたたえる賛歌を良く歌ったが、こうした賛歌には傑出した宗教詩とも言えるものがあり、ギヨーム・デュファイのような一流の作曲家が曲をつけることもあった。同信会員たちは特別な説教を聞く機会も持ったが、そうした説教を行なうのは平信徒であった。説教壇のマキャヴェリを想像するのは興味深いことだが、彼がフィレンツェのピエタ同信会のメンバーに「悔い改めることの勧め」を語ったことは事実なのである。フィレンツェのプラトン・アカデミーが、プラトンの本来のアカデミーと同じ位こうした同信会にも多くを負っていると指摘されている(339)(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)