2009年4月7日火曜日
Weltanshauung
(164)中世キリスト教世界と楕円的統一 ~中世キリスト教世界の理念と社会学的構造 精神構造に基づく、近代精神の源泉との対比~ ドウソン教授による宗教と文化の結合様式の類型に従えば、中世キリスト教社会は、「完成した宗教が未完成の文化を形成していく一つの要素となって作用し」て形成されたのである。キリスト教は、古代東洋に深く根を張った歴史的啓示宗教であるユダヤ教の上に成立し、ギリシア語世界での文化思想との接触において、教会と公会議による神学を発展させ、更にラテン語世界での法律や文明吸収によって、法的で組織的な一大共同社会を形成したのであった。このような独自の秩序原理と社会組織と市民的伝統とを持つカトリック教会が、その有機的統一性と連続性とによる伝統を確保する傍ら、ゲルマン民族、ケルト民族の未開野蛮な文化や、社会的伝統を育み、ヨーロッパ文明世界の形成に力を尽くしたのであった。 ところが、この形成には、二つの社会学的構造上の差から生じる困難が内在していた。ローマ帝国の都市行政法を基礎とした市民社会構造と、ゲルマン・ケルトの蛮族王国の民族部族乃至小血族集団である分散社会構造との対立である。そこで、社会組織の基礎となる中核を新民族の社会組織におく場合、その困難な事は並大抵なものではなかった。ケルト民族間では修道院を建設する事によって自らその中核を構成し、イングランドでは部族領有地小王国をそのまま司教座に新編成したのである。ただフランク王国のみが従来どおりの都市制度による組織基盤を保存しえたのであった。ところが、社会の封建化に伴って、教会と国家乃至地方権力との相互依存関係が深まり、教会の社会的変質を被るに至った。都市中心性から土地中心性に移行し、やがて、国立教会(Landeskirche)へと変質し、王侯の干渉という危険に晒されていた。この国立教会の遠心的発展に伴う世俗化と変質の危機を救うものが、ローマ教皇の求心的統一による刷新改革運動だったのである。 この普遍性回復の改革運動は、キリスト教の第三要素である修道者の援助に依存し、修道院の自律的伝統がそのまま、カトリック統一の中心、ローマに結合されたのである。まず、大聖グレゴリウス教皇と聖ボニファチウスによってその第一歩が踏み出されていた。そして、全ゲルマンの改宗という成果は、グレゴリウス二世に、歴史的政策転(166)換、すなわち、ローマ・ビザンツの決定的決別に伴うローマ・フランクの接近を断行させ、中世史の将来を方向付ける決定的転換期となったのである。それは、シャルル・マーニュの帝国との協力態勢のもとで、キリスト教がラテン的ゲルマン的ニ大文化要素を有機的に統一して、新しい社会的統一体を創立するに当たって貢献するのであったが、反面において、教皇直属の首都大司教制度の復活という聖ボニファチウスの中央集権化による改革では、フランクとの利害関係の対立に伴う妥協と言うマイナス面をも齎したのであった。そこで、帝国の圧力からの教会解放という新段階が、11,2世紀の「叙任権闘争」として表面化して来たのである。 クリュニーとクレルヴォーを中心とする大改革運動は、教皇が、修徳と超俗の理想に燃え立つ修道者の力を借りて、帝国の支配下から教会の主導権を教皇聖座のもとに取り戻す運動となり、教会固有の法と教会固有の立法裁治機関を有する自由で普遍的な精神共同体を再建しようと言う企てなのであった。しかし、五百年以上続いた社会制度の打ち崩しは容易な業ではないのであったが、それでも、ストリの政教条約やウォルムスの政教条約という妥協や曲折をたどって、教会の超国家的統一性と、教皇の首位制とを明確な事実として確認させる事に成功し、教父時代より叫ばれてきた理想の実現を見たのであった。教会は、社会の一次的根源的実存者となり、国家は、社会の平和と秩序を維持する責任を負うだけとなった。この中世的理念を、十二世紀の教会法学者ステファヌスは、次のように伝えている。「同じ国、同じ王の下に二種の国民がいる。この二種の国民に対して二通りの生活がある。二通りの生活に対して二つの権威があり、二つの権威に対して二つの裁治権が存在する。……さて、国というのは教会のこと、王とはキリスト、二種類の国民とは聖職者と平信徒、二つの生活様式とは霊的なものと肉的世俗的なものの事、二つの権威とは教権と政権、二つの裁治権とは神の掟(教会法)と人の掟(国法)を指すのである。これらの各々に、正しい位置を与えるならば、万事巧みに行われることだろう」と。このように、理念は確立したのであるが、現実の試みにおいては、神聖ローマ皇帝の推進によるのでは、中世国家の持つ本質的宿命的脆弱さのために完成が望まれず、ロ(167)ーマ教皇の推進では、国立教会制度の為に教会法の適用が妨げられた為に完成を見なかった。ただ、ストリ政教条約の根本原理(政教両権の分離独立)によるこの世界の二大中心(皇帝と教皇)が相互依存を確立したときはじめて、その完成は実現されるはずのものであった。ところが、この根本原理の不徹底が、やがて分裂を生むに至ったのである。 以上のように、中世キリスト教世界は、それを、社会学的側面から考察してみると、相対立する二元的要素をその内に有しながらも、内的有機的統一による共同体であった事が分かる。(『ヨーロッパキリスト教史 III』1971年・中央出版社)