2009年4月5日日曜日

芸術作品の用途(宗教・魔術・個人的用途)

芸術作品の用途(宗教的・魔術的・個人的用途)(199)「芸術作品」と言う観念は近代的なものであるが、……絵画は消耗品と見なされていたらしい。……(200)サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のフィリッピーノ・リッピの壁画が描かれた家族礼拝堂に自分の墓碑を作るよう求めている。「絵は本来あまり耐久性が無いからdi sua natura non e’ molto durabile、今そこにある絵にとらわれずに取り壊して欲しい」。当時の芸術がその当時の人々にとっていかなる意味を持っていたのかを理解するためには、我々はまずその用途を見なければならない。
 宗教的及び魔術的用途 ルネサンス期のイタリアにおける絵画や彫像の最も明らかな用途は宗教的なものであった。……「宗教的」用途と言う観念は余り正確では無いので、魔術的・信仰的・教訓的機能に分けてみるほうが分かりやすい。しかし「魔術的」と言う言葉も……ある種のイコンのような特殊な聖像に帰せられる奇跡力や魔術的な力と言ったほうが正確で有益かもしれない。例えば、ペルージアでベネデット・ボンフィーリが描いた軍旗や行列用の祭旗は、黒死病よけとみなされていたらしい。そこでは聖母がマントで信者を黒死病の矢から守っており、又ある祭旗に書かれた銘は聖母に「疫病の猛威がおさまるよう御子にとりなしたまえ」と懇願している。やはり疫病除けと関係を持つ聖セヴァスティアヌスの画像が15-16世紀に人気を博した事は、魔術的機能がまだ重要なものであった事を示している。 フランドルの音楽家ギヨーム・デュファイは、1420-30年代にイタリアで仕事をしていたとき、黒死病よけとして聖セバスティアヌスに捧げる二つのモテットを作曲した。音楽は治癒力を持っていると一般に考えられていたし、成人の物語は病人の前で演じると治療の効き目があると信じられていた。 別種の魔術的な力のイタリアの有名な例としてフィレンツェ近郊のインプルネータの教会堂の聖母マリア像がある。この聖母像は旱魃の時には雨乞いのために、雨季に洪水の危険のあるときは雨をやませるために、またフィレンツェ市民の政治的問題を解決するために、祈祷の行列の際に運び出された。例えば、フィレンツェの薬種商人ルカ・ランドゥッチは、1483年に「一ヶ月以上も雨が続いたので、晴天を齎すために」この聖母像をフィレンツェに運んだ所、「直ちに晴天になった」とその日記に書いている。 ルネサンス絵画にはキリスト教の枠組みからはみ出した魔術体系に属するように見えるものもある。フェララのパラッツォ・スキファノイアのフランチェスコ・デル・コッサの壁画は、アビ・ヴァールブルクが指摘したように、占星学的テーマに関係しており、(202)フェララ公のよき命運を祈るために描かれたものらしい。ボッティチェリの『春』は一種の護符、つまりヴィーナスの星である金星から幸運を引き寄せるためのイメージではなかった、と言う説も出されている。哲学者フィチーノもこうした画像を利用し,又火星から幸運を引き寄せるために「火星の」音楽を演奏した。又レオナルドはミラノ公の金庫を守る百眼の巨人アルゴスを描いたが,そのとき,彼は単にしかるべき古代の隠喩を著そうとしたのか、それとも神通力を持った護符を描こうとしたのか、判断するのは難しい。同様に、ヴァザーリが「ラファエッロ伝」の中でビザンティン・イコン伝説に似た話を語るとき、彼がどの程度本気だったのか判断するのも難しい。彼が語るには、ラファエロの絵がパレルモに運ばれる途中で嵐にあい,船は難破してしまった。しかしその絵は「少しも傷つかなかった……」というのも、吹き荒れる風や海の激浪さえもこの絵の美しさに敬意を払ったからである」。同様に、フィレンツェやその他の町で反逆者や謀反人のイメージを公共建築物の壁に描いたのは、懲罰の及ばない逃亡者を呪術的な力で滅ぼすためであった可能性が強い。つまり敵の蝋人形を作って槍で突き刺すのと同じ意味を持っていたらしいのである。  神聖な場所や宗教的な目的のために造られたり売られた画像もあった。画家と宗教的熱情がとりわけ緊密に結びついていたこの時代には、「礼拝画」quadri di devotioneという言葉が流行した。つまり、キリストの磔刑の絵(203)とか、木版画という新しい媒体、或いは個人の家に適した小型で親密なタイプの宗教画がそれで、これらは信者に聖書や聖人の生涯への瞑想を促した。 画像の礼拝的用途の注目すべき例として、ローマのサン・ジョヴァンニ・デコッラート同信会での実例が伝わっている。この同信会は、洗礼者ヨハネの殉教の場面を描いた小型の絵tavoletteを用いて、処刑者の最後の瞬間に慰めを与えたが、最近の研究者によれば、これらの板絵は「処刑台への恐るべき旅の間死刑囚の恐怖と苦痛を和らげるための一種の視覚的麻酔剤」として使われたのである。 礼拝画像の重要性の増大は、14-15世紀に特徴的な宗教活動における平信徒のイニシアティブの増大―――同信会の設立から家庭における聖歌朗唱や信仰書の読書まで―――と結びついているように思える。現存する富裕な市民の家の財産目録からは、殆ど全ての部屋に聖母マリアの像が置かれていた事が分かる。フィレンツェ貴族のウッザーノ家の城の財産目録には、二枚のスダリウム(ヴェロニカの布に写ったキリストの顔)とその一枚のすぐ前の「台座」(祈祷台)が挙げられているが、人々は日常的に聖画像の前にひざまずいて祈りを捧げていたらしい。 15世紀はじめに僧ジョヴァンニ・ドミニチは子供達への道徳的効果のために親は家庭に聖画像を置かねばならない、と書いている。男の子に良いのは幼子キリストと聖ヨハネの絵であり、又(204)「嬰児虐殺」の絵も「子供達に武器や兵隊をこわがらせるために」良いとされた。一方女の子は彼女達の心に「処女性への愛、キリストへの憧れ、罪への憎悪、虚栄の軽蔑」を植えつけるために聖アグネス、チェチリア、エリザベト、カタリナ、ウルスラ(と彼女に従う1万1千人の処女)を見つめるよう教えられた。同様にフィレンツェの若い女性は、修道女であれ花嫁であれ自分自身を聖母マリアと一体化するように幼児キリストの人形を与えられたと言われる。 ある種の画像の信仰的用途に関する興味深い事例は、それに対する観者の反応の物理的痕跡である。たとえば、ウッチェロの絵の中の悪魔の顔がつぶされたり、マンテーニャのフレスコ画中で聖ヤコブの処刑者の目が引っかき消されているのがそれで、信仰による芸術破壊行為と呼ぶ事が出来よう。……14-16世紀に書かれ上演された「サクラ・ラップレゼンタツィオーネ」(宗教劇)は中世後期の英国の奇跡劇や神秘劇にかなり似ていた(この事はとりわけ民衆文化の場合における「ルネサンス」と「中世」との区別の難しさを示唆している)。これらの劇では普通最後に天使が登場し、観衆に今しがた見たことの教訓を胸に刻み込むように説いた。例えばアブラハムとイサクの劇の最後には、天使が「神への服従」の重要性を説教したのである。 エクス・ヴォート(奉納板絵)は15世紀にイタリアに現れた礼拝画の一種で、病気や事故などの(205)災難のときに聖人に託した祈願を表している。例えばチェゼーナのマドンナ・デル・モンテ聖堂には1600年以前の246点のエクス・ヴォートが現存しているが、これは恐らくかつて存在したもののほんの一部であろう。普通の人々が進んで絵を注文したのは、大抵の場合この種の祈願のためであったと思われる。大多数のエクス・ヴォートの芸術的水準は高くないが,同種の作品には幾つかの有名なルネサンス絵画も含まれている。例えばマントヴァ侯ジャンフランチェスコ・ゴンザガ2世が、少なくとも彼の目にはフランス軍を打ち破ったと見えたフォルノーヴォの戦いの後で,マンテーニャに委嘱した『勝利の聖母』がそれである。実際に,意に反して絵の報酬を支払わされたのは、マントヴァ居住のユダヤ人達であった。カルパッチョの『一万人のキリスト教徒の殉教』やティツィアーノの『玉座の聖マルコ』も疫病の鎮静祈願のために委嘱されている。一方、ラファエロの『フォリーニョの聖母』は、歴史家のシジスモンド・デ・コンティが邸に隕石が落下したときに難を逃れた感謝を表すために注文した作品である。 宗教画のもう一つの用途は教訓を与えることである。すでに6世紀に教皇グレゴリウス1世は次のように言っている「聖堂内に絵が描かれるのは、文盲で書物で読めないものを壁画の上で読めるようにするためである」。14世紀のイタリアの教会壁画には非常に多くのキリスト教の教義―――キリストの生涯、旧約と新約聖書の対応、最後の審判とその結果など―――が図解されている。当時の宗教劇は同じテーマを扱っており、絵画と宗教劇は互いのメッセージを引き立てあい、その理解を助け合った。 教訓的用途の特殊な場合として、論争の的となっている命題を、一方の側の観点から、つまり(206)プロパガンダとして表現した作品がある。修辞学と同様、絵画も観衆を説得する手段であった。たとえば、ルネサンス期の教皇が注文した絵画は、しばしば歴史的に類似した事件の例を引きながら、教会の公会議に対する教皇権の優越性を主張している。例えば教皇シクストゥス4世がボッティチェリに描かせた『コラの懲罰』では,モーセとアロンに反抗したコラとその一味が裂けた大地に飲み込まれている旧約聖書の場面が描かれている。15世紀初期の教皇エウゲニウス4世はバーゼル公会議をコラになぞらえて非難した。同様に、ボローニャのベンティヴォーリオ家と戦っていた教皇ユリウス2世は,ラファエロに、エルサレムの神殿を略奪しようとしたヘリオドロスが二人の天使によって駆逐されている場面を描かせた。さらに宗教改革後になると、イタリア(207)その他のカトリック聖堂に描かれた絵画は、プロテスタント側が攻撃した教義上の論争点を主題とする傾向を強めるのである。 宗教改革以後、カトリック教会は文学や絵画の統制をますます強めるようになった。「禁書目録」が作成され(1560年代に開催されたトレント公会議で公認される)、他のイタリア文学の作品に混じってボッカチオの『でカメロン』も最初はその中に入れられたが、後に厳しく削除された上で許可された。ミケランジェロの『最後の審判』もトレント公会議で論議に上り、公会議は裸体を無花果の葉で覆い隠すように命じた。「禁止絵画目録」の作成も検討された。ヴェロネーゼはヴェネツィアの異端審問所に召還され、『最後の晩餐』の中に審問官が「道化師、酔っ払い、ドイツ人、小人などの卑俗な者達」と呼ぶものを描きこんだ理由を説明しなければならなかった。(207)  個人的用途(220) 「宗教的」用途か「政治的」用途かと言う分類には、少なくとも狭い意味では当てはまらない芸術の用途も幾つか見られる。君主間での婚姻の交渉のために未婚の子女の肖像を用いる事は、広い意味での政治的用途に含める事が出来るだろう。個人の肖像にしても、画家とモデルが協力し合って、個人やその家族の好ましいイメージを、ライバルの家族や恐らくは後世の人々に印象付けようとした場合には、ある種のプロパガンダと見なすことが出来る。しかしルネサンス期イタリアの物質的文化のどの程度の部分が、家庭的環境のために個人と言うよりも家族、特に貴族の家族や貴族を自認する家族の用途ないし栄誉のために作られたのかは一考に値する。最も重要で費用がかさんだのは勿論イタリア人が好んで「パラッツォ」と呼ぶ邸館であった。これは家族のシンボルであると同時に一族郎党の隠れ家であり、中に住む人(221)に快適な環境を提供するよりも、外部の人間に強い印象を与えるために設計された。快適さと言うのは、およそ18世紀以降に登場した比較的新しい理想である。古い時代の理想は質実さと防衛ということであった。しかし一方、15-17世紀のイタリアは、しばしば「顕示的消費」と呼ばれるものの最盛期でもあり、貴族達は家族の名誉を保ちライバルの嫉妬心をあおるために、競って邸館を建造した。邸館(特にそのファサード)とその内容は家族の「表看板」をなし、また家族の社会的地位を誇示する長期にわたるドラマにとっての舞台装置、舞台の支柱の役割を果たしたのである。 それ以外の作品は、誕生、結婚、死、と言った家族の歴史の重要で高度に儀礼化され(222)た節目と関係を持っていた。出産した母親に飲食物を供するための「出産祝い盆」desco da partoはしばしば「愛の勝利」のようなそれに適したテーマの絵で飾られた。カッソーネは、その外側を―――時には蓋の内側も―――絵で飾った大型の櫃で、結婚とかかわりがあった。と言うのも、それには花嫁の嫁入り衣装が納められていたからである。絵柄は結婚式の様子を表しているものが多いが、しばしば新郎新婦の肖像が描きこまれ、花嫁は夫の家族から送られた(しばしばその紋章を付した)新しい衣装を着て、嫁ぎ先の家族の一員になった事を示している。……ポリツィアーノはマントヴァ宮廷における二つの婚約を記念して牧歌劇『オルフェオ』を書いた。家族の一員の死を悼むためには墓碑が作られたが、その幾つかは極めて大掛かりな事業になった。この時代の代表的なものとして、ミケランジェロのメディチ家礼拝堂とローヴェレ家の栄光をたたえる教皇ユリウス2世の墓碑があるが、それについてはこれ以上詳しく述べる必要は無いだろう。国家が敵方の名誉を傷つけるために芸術家や文人を雇ったとしたら、貴族も同じような事を行った。(223) 
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)