2009年4月5日日曜日

Nicolaus Cusanus Nr.2

Nicolaus Cusanus Nr.2 思想の諸相 <覚知的無知>と<反対の合致> <覚知的無知>の思想 クザーヌスの哲学的著作の最初のものは、1440年2月に故郷のクースで書き上げたと巻末に明記されている『覚知的無知について』である。この書物は、その中でクザーヌスの思想の特色である<覚知的無知>の思想と<反対の合致>の思想とが、密接に関わり合いながら展開されていることで知られている。 ここでは、まず<覚知的無知>の思想について説明しよう。これはラテン語で「docta ignorantia」と表記されるものであるが、従来、日本語では「知ある無知」とか「学識ある無知」と訳されてきている。しかし、これには「(神によって)知らされた無知」という意味と、その結果としての「深く覚った無知」という意味の両方が同時に含意され(146)ていることを考慮して、「覚知的無知」と表現することにする。 では、何について無知であるのだろうか。人間の認識の究極的対象である真理について我々人間が無知であると、クザーヌスは端的に指摘する。このような彼の主張を支える根拠は、『覚知的無知について』冒頭に記されている以下のような把握にある。   :探求者はすべて、不確実なことを、前もって措定された確かなことと比較し、比的に判断する。それゆえ、どんな探求も皆、比を媒介として用いるのであるから、比較的な探求である。そして、探求の対象が、近接した比的な帰着によって、前もって措定された確かなことと比較されうるものである限り、この対象を把捉する判断を行うことは容易である。だが、われわれが多くの媒介を必要とする限り、困難と労苦が生じてくる。……したがって、無限である限りの無限は、一切の比を避けるがゆえに、知られない。……有体的な事物のうちにある諸結合の精密さや、知られているものを知られていないものへ当を得て適合させることは、人間の理性を超出する。したがって、ソクラテスには、無知であるということ以外には何も自分は知っていないと思われた。……神から霊魂を受けた他のある人は、神の知恵は、さらに英知の座は、すべての生あるものの目から隠されているといっている。……そうであるとすれば、確かに、―――物事を知ろうという(147)欲求は、我々のうちに無駄に存しては居ないのだから―――我々は、我々が無知であることを知ろうと熱望していることになる。若し我々がこうした状態に十分に到達することが出来るならば、我々は覚知的無知に到達することになろう。……自分が無知であることを知れば知るほど、それだけいっそう知ある者になるであろう。: このようなクザーヌスの把握は、当然、単なる不可知論の一方的な主張に終わるものではない。彼は一方において、人間の理性がいかなる限界持っているがゆえに真理を把握できないのかを、具体例を挙げながら論理的に説明するとともに、他方において、探求の究極的な対象である<真理>の圧倒的豊かさをも解き明かそうとする。
 円と三角形 論理的な説明の典型例は、円と三角形について彼が展開するものである。「無限な線が直線であることは明らかである。円の直径は直線である。そして円周は円の直径(148)よりも大きな曲線である。さて、円周がより大きな円の演習であればあるほど、その演習の曲線は、その曲度において<より少なく>を受け入れるからには、それよりも大きくなることが出来ないほどの最大な円の円周は、最小度に曲がっていることになる。だから、それは最大度に直である」。つまり最大な円(無限大の円)においては、その円周が直線として想定されることになる。 その結果として、クザーヌスの論は以下のようにもう一歩進められる。「それゆえ<最小なもの>は<最大なもの>に一致する」。これが<反対の合致>coincidentia oppositorumという思想である。 次に、クザーヌスの三角形についての主張をまとめると以下のようになる。人間は、無限の三篇からなる三角形を想定することが出来る。ところが、無限な線は一本しか存在し得ない。その結果、この三角形は無限な一本の線から成立していることになり、この無限な三角形において三と一が一致していることになる。このような「三が一になる」という<反対の合致>もまた理性には理解不能のことであるが、知性において想定することは出来る、という訳である。ここには、理性の限界が明示されると同時に、それを越える能力としての知性を我々が有していることが説かれている。 またここでクザーヌスは、この無限な三角形を「最大な最も真な三角形」としているが、これに先立つ章で「<この最大なもの>が神であるとすべての民族が疑いも無く信(149)じている」としているので、これを根拠にして、「3が1である」という、この無限な三角形において成立する自体を、神の三位一体の説明に転用transumptioするのである。 以上のような論法によって展開されている<覚知的無知>の思想は、実はクザーヌスによって「覚知的無知の規則」と名づけられても居る。この「規則」を先行研究にも従いながら整理すると、以下のようになる。①無限なものの有限なものに対する比は存在しないことから、超えるものと超えられるものとが見出されうる領域では、「端的に(絶対的に)最大な者」は到達されえない。②真なるものについて我々が知ることは、真なるものが現にあるとおりに厳密には把握できないものであるということを知る、ということだけである。③我々は、この無知をいっそう深く教えられれば、それだけ真理そのものに近づく。④「端的かつ絶対的最大者」は無限な真理であるので、われわ(150)れが把握できるよりも大きなものであって、したがって我々はそれに把握されえない仕方で到達するしかない。⑤「絶対的最大者」は、より大きなものでもありえず、より小さなものでもありえないので、「絶対的」最小者が「絶対的」最大者に一致する(反対の一致)。⑥それには何物も対置されること無く、それと「絶対的」最小者が一致するものとしての絶対的最大性が無限であるということを、我々はあらゆる理性推論を超えて把握されえない仕方で知る。 何故クザーヌスはこれをあえて「規則」と名づけているのだろうか。それは、この原則を用いることで人間が自己の限界を教え覚らされるからであろう。それゆえにクザーヌスはこの<覚知的無知>を「聖なる無知」sacra ignorantiaとさえ名づけて、以下のように述べている。「聖なる無知は私に、知性に何物でもないように見えるものこそ把握し得ない最大なものである、ということを教えた」。また「聖なる無知は我々に、神が言語に絶するものであること、そして、その理由は、神がおよそ名指されうる限りのあらゆるものよりも無限に大きいからであることを教えた」。 このような<覚知的無知>は、単なる不可知論の展開ではなく、人間の認識能力を超えた高みにある<真理>を絶対者から受け取りうる条件を、同時に、人間の生きる世界をも絶対者の地平において捉えうる条件を人間が整えるための方法なのである。それゆえにクザーヌスは『覚知的無知について』の巻末に於て「把握できないものを<覚(151)知的無知>において把握できない仕方で把握するに至った」と記しているのである。
 「反対の合致」の思想 「反対の合致」の思想は、前節ですでに見たように<覚知的無知>の思想を説得力ある形でわれわれに実感させるための道具であると同時に、<覚知的無知>の思想が開く絶対的真理の地平を垣間見させるのである。 ラテン語で「coincidentia oppositorum」と表記されるこの思想については、解釈者の間でいくつかの論点をめぐってしばしば議論が行われてきた。すでにクザーヌスの時代に、ハイデルベルク大学神学部教授のヨハネス・ヴェンクによって、これは矛盾率に反するので学問の根本を取り去るものだ、という批判がなされていた。 (152)具体的な論点のひとつは、これが単なる「反対の一致」を意味しているだけなのか、それとも「矛盾の一致」をも意味しているのか、という点である。近年、フラッシュはoppositioという概念がクザーヌスの時代の論理学において有していた意味を明らかにした上で、以下のように指摘した。中世論理学において「oppositio」で表現されていたのは、4種ある「対立」のことであって、具体的には矛盾contradictio、反対contrarium; contraria、所持habitusと欠如privatioの対立、それに「父と子」というような相関の対立ad aliquidであり、クザーヌスの「反対対立の合致」においてもこの4種の対立のすべてのcoincidentiaが意味されている。 第2の論点は「反対対立の合致」におけるcoincidentiaが何を意味するのか、ということである。従来は「一致することで、対立する両者のいずれかが消失するとか、両者が第三者に変化するとかと言う形で何らかの変化が生じる事態である」という解釈が行われてきたのに対して近年ハウプストは、このラテン語はドイツ語のineinsfallと取るべきだとした。なぜならIneinsfallには「一致」という意味と「接続」という意味があり、後者の意味は神学的な分野で多く観られるからだというのである。 第三の論点はcoincidentia oppositorumは、神に於てのみ生じるものであるのか否か、という論点であるが、それは前述のようなフラッシュとハウプストによる近年の(153)綿密な研究の成果によって解消されるに至った。すなわち、神において生じるものもあるし、神の領域の手前で生じるものもあるのである。 以上の説明からもすでに明らかなように、このcoincidentia oppositorumは大別して二種の意味を持っている。それは①<二つの対立が一つのものに完全に融合し解消する>という自体を意味するもの(便宜上「一致」と表現する)と、②<二つの対立がひとつの場に出会っている>という事態(便宜上「合致」と表現する)を意味するものである。このうち、第一のケースは、前節で引用した無限大の円の円周と直径の関係として典型的に説明されているが、前の引用箇所は、引き続いて以下のように締めくくられている。「隠して<最小>が<最大>に一致するのである。したがって、最大な線は最大度に直であり最小度に曲であるということも、必然であることが明瞭にわかるであろう」。 第二のケースの典型例は、同じく『覚知的無知について』の中の以下のような一説である。「万物の間の結合は神によって存在しているのであり、その結果、たとえすべてのものが互いに異なっているとしても、しかし結合されているのである。そ(154)れゆえに、一なる宇宙を縮減しているもろもろの類の間には、下位の類と上位の類とが、その中間の類で合致するという結合が存在し、また多様な類の間には、ひとつの類の最上位の種がそのすぐ上位の類の最下位の種と合致するという仕方での連結の秩序が実在しているのであり、、その結果、ひとつの連続的で完全な宇宙が存在することになっているのである。」 ここにとかれる「反対対立の合致」は、明らかに、対立するものがひとつに融合することが意味されているのではなく、二つの異なるものが出会った上で共通の関係に立っていることが意味されている。さらに厳密に考えるならば、ここで相次いでとかれる二つの「合致」が、さらに二種に分類されうる。すなわち、引用文ではじめに言及される「合致」は、対立する両者の「合致」が、「中間の類」という第三者において成立しているのに対して、第二の「合致」は第三者の媒介なしに直接的に成立しているのである。 このようなcoincidentia oppositorumが『推測について』においては人間の有する認識能力のそれぞれの段階に応じて区別して説明されているのであるが、それを整理すると以下のようになる。①感性sensusにはいかなる「反対対立の合致」も存在しない。②理性ratioには、たとえば種的相違が上位の類において包含されるように、カテゴリー的思惟法における対立的相違が包含されるという形での「反対対立の合致」がある。③知性intellectusには、矛盾するもの同士が両立するという「反対対立の合致」(155)がある。④神に於ては、万物が相違なしに一致している。
 神性と人性の「合致」 以上は、哲学的思索の場におけるcoincidentia oppositorumの説明であるが、もうひとつ重要な「反対対立の合致」がある。それは、神性と人性とが「合致」する場としてのイエス・キリストである。この「神と人との合致」としてのキリストという捉え方は、この語そのものは用いられないものの、クザーヌス中期の代表的著作であり、彼の「神秘思想の華」ともいえる『神を観ることについて』では、以下のように記されている「なぜならキリストは、同時に創造者にして被造物であり、引き寄せる者にして引き寄せられる者であり、有限なる者にして無限なる者であるので、我々はあなたについて最も真なる矛盾を確証するお方です」。 このような存在としてのキリストを説得的に説明することも、クザーヌスが「反対対立の合致」という思想をつむぎあげた最重要の目的であるとみなすことが出来る。 (156)最後に、もうひとつの目的に論及して、この説を終えることにする。それは「多様性」問題の解決である。クザーヌスにとっての根源的な哲学的問題の一つは、一なる神が創造した世界が、何ゆえにかくも多様であって、紛争と対立に満ちているのか、ということであった。たとえこの世界にこのような「多様性」問題が存在するとしても、その創造者たる神に関わる「反対対立の合致」を範型と設定すれば、世界内の「相違するものの協和」concordantia diversorumを、それの似像として構想することで可能となる。さらにこの場合にも再び「キリスト」の存在が決定的な役割を果たしうる。すなわち、一切の相違・矛盾・対立の一致のかなたに存在するものとしての神、その子としての「キリスト」が現実にこの世界に現れたということを仮定し前提にすれば、「多様性」問題を「協和」を展望する形で理解するという「解決」に、それは大きな役割を果たし得るであろう。なぜなら、それは単に「キリスト」によって保証される、そのような「論理」が存在するというだけではなく、そのような歴史的「現実」が存在したということになるからである。このような意味において「キリスト」は、存在論的に「多様性」問題のひとつの「解決を」指し示すのである。 さらには、このように「多様性」問題と密接に関わりつつなされているクザーヌス自身の思索が、彼にとっては「キリスト」という「模範」に励まされつつ遂行されている「反対対立の合致」の営みと感じられていたのではないだろうか。それは中間の本性(157)にして「媒介する本性」に他ならない人間性、その一個の縮減であるクザーヌスが、その人間性の完全性である「キリスト」、その意味で「諸媒介の媒介」medium mediorumとも称しうるであろう「キリスト」に支えられて「反対対立の合致」を思惟し、さらに現実化しようと努めているということであろう。
 「推測」の思想と人間の「精神」 これは、『覚知的無知について』に引き続いてまとめられた『推測について』というタイトルを持つ書物で展開されている思想である。この『推測について』の序文においてクザーヌスは、『覚知的無知について』で明らかになったこととして、「真理はその厳密性に於ては到達不可能である」とまとめた上で「それゆえに真なるものについて人間のなすあらゆる積極的な言明は憶測であることになる」と書き出してい(158)る。このconiecturaという概念には「そこまでしか把握できない」という意味での「憶測」という否定的意味と、「そこまでは把握できる」という意味での「推測」という肯定的意味との二義性がクザーヌスによって付与されている。それは、人間という存在を、神と被造物一般との中間者と捉えるクザーヌスの思想に由来するものである。 そして、神と人間の精神との間に「原像―似像」関係を想定して、それに基づきつつ、神の思惟と人間の思惟の間に構造的に相即的な関係を想定し、それによって人間の遂行する紙と世界に関する精神活動について、「推測・憶測」としての一定の有効性を付与・確認しているのである。 このような、前期クザーヌスにおいて展開された「推測」の思想は、中期の思考では、人間の精神mensは尺度mensuraに由来しているとする立論へと彫逐される。「私としては、精神とは万物の限界と測定の源であると考えている。それが精神mensと称されるのは、それの測定する働きmensurandumによってであろうと、私は推測する」。同時に、この測定とも関わって、クザーヌスの視線は、精神が数を扱えるという事実にも及ぶ。その上で、神の精神と人間の精神との間に以下のような「原像―似像」関係を想定する。「神の精神の把握は<もの>の産出である。他方我々の精神の把握は<もの>の認知である。神の精神が絶対的存在性であるならば、それの把握は存在者の創造であり、我々の精神の把握は存在者の類似化である。つまり無(159)限な真理としての神の精神に適合するものは、神の比較的近い似像としての我々の精神にも適合するのである。したがって万物が神の精神においては、万物の厳密で本来的な真理におけるものとして存在するのであれば、我々の精神に於ては、それは本来の真理の似像あるいは類似におけるものとして存在する―――つまり観念という形に於てである。すなわち、認識は類似によって成立するのである」。<原像―似像>の図式を駆使した精神についての説明である。 同時にこのような、神の似像としての精神の能力を用いて実施する測定に対して、この時期のクザーヌスは相当の意義を認めるようになる。その具体例の一つが『はかりの実験』において叙述されている多様な測定の提案である。つまり質の相違は測定の結果としての量の相違で説明することが可能であるとする。この視点は、カッシーラーらによって近代科学の先駆的試みであると評価されている。またクザーヌスは、若いときか(160)ら円の求積法に強い関心を持って、自らもさまざまな理論的提案をしており、円の本質と正多角形の本質との関係について、この時期に決定的な思想的変化が生じたことも興味深い事実である。

(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)