(18)ルネサンスという枠組みにおける哲学 ブルクハルトがこの言葉を1世紀以上前に我々の考察の対象の時代に当てはめたとき示唆しようとしたのは、イタリア文化の暖かな陽光がヨーロッパの冷たいゴシック様式の墓で千年間眠っていた学問や政治技(19)術や芸術を復活させたということだった。この用語の地理的・年代的指示対象はブルクハルトの時代から拡張し、今ではヨーロッパのほぼ全域、14世紀はじめから17世紀はじめにまで広げられているが、それでもこの用語の用法は、現在もなお、現代の我々なら美術史、知的歴史、文化史と呼ぶだろうブルクハルトの本来の関心の対象によって強く彩られている。ルネサンス期の都市国家を「芸術作品」に見立てるブルクハルトの印象的な発想でさえ、古代・中世・近代を区別する大きなカテゴリー―――主に政治的なカテゴリー―――が伝えるものとは異なった、政治的秩序への意識を含意している。ヨーロッパの歴史の一般的なイメージが国家と戦争のパノラマだとするなら、よく描かれるルネサンス期の情景は、それとはやや異なって見える。小道具は絵画、建築、書物などであり、その全体に「個人主義」とか「人間の尊厳」とかいった用語で表される、それほど具体的ではない神性の明るい光が降り注いでいる。マキアヴェッリとチェーザレ・ボルジアが孤独な天才を備えた政治的行為者としてブルクハルトを魅惑したが、ブルクハルトはまた、ボッカチオの物語、レオナルドの絵画、レオン・バッティスタ・アルベルティの多方面の才能にも幻惑されたのである。近代世界を作り中世の終焉を告げた諸価値をブルクハルトが察知したのは、君主や外交官に劣らず画家や詩人のうちでもあった。ブルクハルトの<ルネサンス>は世俗主義および個人主義と共に、様式上の新しい表現と哲学思想を含む思想の独創的なパターンとを齎した。ブルクハルトは、中世と近代との間に連続性をいくらか認めはしたが、むしろ直前の時代と最も断絶していると思われた特徴のほうを強調して、中世から持続したものを振り返るのではなく、近代の革新を展望したのである。例えば、彼はルネサンス期の個人主義的道徳を偉大な改革であり近代を画する特徴と考え、ルネサンス期の思想家が古代、初期キリスト教時代、中世の先人に負っていた者を過小評価した。ブルクハルトのルネサンス観は論議を巻き起こしたが,巨大な影響を与え、他の歴史家が彼の主題を驚くほど多様な変奏によって繰り返すきっかけを作った。哲学それ自体は、ブルクハルトのルネサンス概念には殆ど関係がなかった。ブルクハルトがルネサンス期の哲学者(20)の一般的慣行に大きな関心を払わなかったことは、不思議ではない。なぜなら、哲学者にとって中心的だった事柄は、ブルクハルトがその新しい文化的理解を定義するのに用いた当の対立物の一部だったのだから―――つまり、中世の大学で創始され、ホッブズやヒュームよりはアベラルドゥスやアルベルトゥスに親しみのある形態で近代初期ヨーロッパにおいて継続した、哲学の生きた伝統である。ブルクハルトが書こうとしたのは知的歴史・文化史の幅広い「エッセイ」だったために、哲学のような技術的主題についての記述はわずかでしかない。そればかりか、ブルクハルトの時代においてもルネサンス期においても、「哲学」は、現代とは違ったものを意味していた。中世および近代初期において、哲学者は、論理学、道徳哲学、形而上学だけでなく、現在では自然科学の諸分野と考えられている様々な学科を習得することを期待されていた。さらに、緊密な制度的・知的連関が、哲学者を医学、神学、歴史学、修辞学、文法学といった領域に接触させていた。20世紀の哲学、とりわけイギリス=アメリカの伝統に連なる哲学の範囲は狭まってきた。大学の中でさえ、少しでも深く哲学を研究する人間の大部分は専門家だし、この学問のより広い教育的影響力はカリキュラムの一角に限定されてしまっている。……大学教育を受けることは、カリキュラムの重要な一部とし哲学に出会うことを意味していたし、そうなれば、様々な古代・中世の文献を読む必要が生じた。体系的な大学教育を受けていない人々でも、時としてアマチュアとして親しみ、時として本格的な知識を身に着けて、哲学の諸分野に通暁していることがあった。「ルネサンス哲学」という用語に歴史的な意味を持たせるとするなら、こうした差異を考慮に入れる必要がある。単に20世紀の問題に関連のありそうな論点を過去から切り取ってきて、そうした話題の集積を歴史だと考えることは良くない。尚古主義が過去から生きた声を奪うように、現在至上主義は我々の過去への意識をゆがめるだけである。要点は、独自の歴史的アイデンティティを持つ時代としてのルネサンス期において哲学がどのように機能したかを学び、それから、ルネサンス期の哲学者達の本来の姿に接した上で、現代におけるその影響をたどったり有用性を図ったりしようとする(21)前に、それ自体が価値を持つものとして彼らの著作を吟味することである。 ブルクハルトが彼の名著を出版してから、<ルネサンス>という用語の意味と価値についての論議は、絶えず、盛大に続けられてきた。こうした論争は復唱せずに、我々は、この単語を14世紀はじめから17世紀はじめまでのヨーロッパ史に当てはめ、この年代学的用法以上に強い意味をこの用語に予め与えることは避けよう。最初のうち、我々は、例の「世界と人間の発見」という考えや、ルネサンスの教科書的記述で親しんだ他の幅広い概念を採用するのは控えることにしよう―――もっとも、最後には、それらのいくつかが十分正当化されることになるかもしれないが。別の言い方をするなら、我々のなすべきことは、「近代初期」という地味な言い回しが、<ルネサンス>という遥かに明るい響きの単語とおおよそ同じ時代区分を指示するのを理解したうえで、近代初期のヨーロッパで実践され、読まれた形態の哲学を描写し、評価することなのである。どの単語を選ぶにしても、我々は常に、この時代の哲学の歴史性、その独特の歴史的アイデンティティを形成した知的、社会的、経済的、政治的、その他の諸力という具体的文脈における、その展開を強調しなければならない。 近代初期の主要な事件や運動の中でも、哲学史に特に関連のあるために目立つものが少数あり、いくつか―――人文主義がヨーロッパの文化を変形した数世紀の間に、その教会と国家とを揺るがした宗教的・政治的変化―――は後で長く論じる必要がある。ここではまず、活版印刷の発明が与えた巨大な影響に注目することにしよう。この革命的技術が生み出した最初の書物は15世紀の中ごろに現れ、最初の哲学書は1470年ころ出版された。それから現在に至るまで、印刷機は、ヨーロッパの学問的コミュニケーションの主要な道具となった。1470年以降の30年間に、例えばアリストテレスに関連する書物が約700点印刷されたし、同じ時期に、マルシリオ・フィチーノはプラトンのラテン語全訳を流通させた。これらはますます速くなる出版頻度の例証だが、次世紀を通じてそれはさらに加速し、何千という哲学書の刊本が世に現れた。手写本の生産がまったく途絶えてしまったというわけではない。危険な、あるいは怪しげと思われたいくつ(22)かの哲学書の手写本は相変わらず流通したし、献呈用の本屋講義ノートは別の理由で筆写されていた。しかしながら、全体として印刷が優勢な媒体となって、書物を万人にとって安価なものにし、新旧両様の思想が流通する速度を増した。ルターの論文やマキアヴェッリの論考を流布させることで,出版業は,既存の体制を揺るがす人々の産業となったが、同時に、知識層がそれまで知っていたものよりも手が届きやすく、便利かつ正確な形態でアリストテレスやアクイナスを印刷することによって、古代・中世の伝統の重要性を高めるのにも貢献したのである。 学問の世界が印刷された言葉の射程と共に拡張するのと同時に、経験の世界もますます広く大胆になっていく探検航海によって拡大した。哲学者の書斎に及んだその波及効果は予想外に大きなものだった。新しい土地や民族の発見は、プラトンとアリストテレスがその中で生き考えた空間を破り、彼らが自然哲学と道徳哲学の枠組みとして当然のように受け入れていた狭い境界を破壊した。とりわけ緊急を要する問題は、新世界の人々がヨーロッパ人と同じだけ人間的なのか、それとも何か新規で下等な種族なのかというものだった。この問いは、16世紀スペインにおいては大問題であり、アメリカ合衆国の建国者たちがその憲法を起草した後の人間の平等と奴隷制に関する哲学的議論にも依然として反響していた。新しい発見は、さらに、この自然の新しい経験の一部分として人間の状態を探求しそれから利用する際にどの範囲まで人間の才知を用いるかについて、疑問を呈した。これもまた、よきに付けあしきにつけ現在もその影響を残しているルネサンス期の発見の一つである。歴史家は、また別の領域でなされた他の一連の発見を「科学革命」という名で呼んでいる。これらは、大部分が17世紀に起こったために、概してルネサンス期についての書物の領分外にある。しかし、新しい化学のある部分は、ここで論じるそれ以前の時代に根源を持っていた。1543年には、天文学と解剖学を変革した二つの著作、ニコラウス・コペルニクスの画期的な『天球の回転について』およびヴェサリウスの壮麗な『人体組成論』が出版された。医学者、博物学者、数学者などのこれほど華々しくはない努力が、動物学、植物学、力学、数学における、また現在「科学」と呼ばれるルネサ(23)ンス人が「自然哲学」と読んでいた学問の様々な応用分野における進歩へとつながった。この「自然哲学」という用語自体、ヴェサリウスやコペルニクスのような学者がプラトンとアリストテレスの古い大宇宙と小宇宙を同時代の思弁と経験の鏡に映したとき、新しい科学の達成が哲学者達の注目を集めただろうということを示唆している。アリストテレス主義者の多くは、こうした新機軸を無関係で生意気なものだとして片付けたり無視したりしようと望んだが、アリストテレス主義の自然学を奉じる学者は、遅かれ早かれ―――結局それらを反駁することになるにせよ―――新しい学説に直面しなければならなかった。ガリレオの望遠鏡をのぞくことを拒否した人として記憶されているチェーザレ・コレモニーニのように頑迷な人間ばかりだったわけではない。1572年に新星を発見したとき、より探究心旺盛なティコ・ブラーエは、『天体論』に描かれた不変の天球に疑問を抱き、アリストテレス主義的自然学・宇宙論を検証する厳密な経験的試験を行った。それと同時に、生物学と医学における発見は、アリストテレスの『霊魂論』のもとに数世紀にわたり蓄積していた、生命・知覚・認識の標準的学説に浸透していった。16世紀末までに、「逍遥学派」と「革新者との間の戦争において大きな戦闘が繰り広げられ、それらは次の百年間にも続いていった。ガリレオは1632年の『プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系に関する対話(天文対話)』でこの対立の頂点を作ったが、彼の教会教会における敗北と精神的な勝利が争いに決着をつけたわけではまったくなかった。
(チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年)