2009年4月5日日曜日

Grund 4. Aristotelian in R Jack-Lefevre D

Grund 4. Aristotelian in R Jack-Lefevre D, Pomponazzi(103-112) アリストテレス主義哲学をキリスト教信仰の伝統に結合させようという彼らの欲求を共有してはいたものの、ジャック・ルフェーヴル・デタプルは、中世の思想家たちをゴート族や野蛮人と呼び、彼らに対してこれほど辛抱強くは無かった。ルフェーヴルは1508年にゲオルギウス・トラペズンティウスの『入門』を校訂し、……彼は『代表の術』を1500年に、1501年にはアリストテレスの<オルガノン>の刊本を上梓している。しかし、論理学へのルフェーヴルの最も重要な貢献は、最初に出版された1496年の『論理学入門』であり、……(94)1508年までパリ大学学芸学部で約20年間教鞭をとったルフェーヴルは、学低科目カリキュラムの哲学的迷路で学生の道案内をする為の書物を専門に書いていた。彼の初めて印刷された著作『アリストテレスの全自然哲学の概説』は1492年に現れ、その後に、1494年の『形而上学』及び『ニコマコス倫理学』への『入門』が続いた。……1492年以降の半世紀の間に、彼の著書は350回以上編纂または再版されたが、このうち約三分の一が、翻訳或いは教科書の形で、アリストテレスを対象としている。ブルーニ、トラペズンティウス、エルモラオ・バルバロといった彼の尊敬する人物と同様に、「人文主義的アリストテレス主義者」が意味をなす言葉である事をルフェーヴルは証明したのである。そればかりでなく、ルフェーヴルは、それを文化的核心だけでなく宗教的再生へも向かう進歩とする事によって、改革されたアリストテレス主義に新しい活力を吹き込もうと望んだのである。 初期の著作『論理学入門』の目的は、ルフェーヴルが後半生をささげた福音主義の大義に比べれば慎ましいものだった。冒頭に置かれた書簡は慣習以上に弁解的であり、この著作を、異国の土地に足を踏み入れようとする学生へ「前もって急送する旅費」にたとえている。当時行われていた流儀の論理学を習得させるためにルフェーヴルが思いつく事の出来る理由は、それを無視する学生は無知だと考えられるだろうというものに過ぎなかった。……(95)彼は、ギリシア語原典を用いて、アリストテレスを中世が知っていたものよりも純粋な状態へと修復しようと考えていたが、この作業のためには、自著『論理学入門』をいまだに取り巻いている付着物を全て削り取る事が必要居なるはずだった。ルフェーヴルは、学生のために、人文主義者が本来足を踏み入れるべきではない異郷の一部を踏査せざるを得ないと考えた。……(102)ルフェーヴルの人文主義的アリストテレス主義の一つの側面は、学生に配慮した教育だった。二つ目は古典語への人文主義者らしい尊敬だった。三つ目が宗教的直感であり、そのために、ノエル・ベダは、ルフェーヴルを「神学者の真似事をする人文主義者」と呼んだのである。ルフェーヴルと弟子たちは、15世紀イタリアでブルーニらが行った以前の翻訳を再刊するか、或いは自分たち独自の翻訳を作るかして,北ヨーロッパで読まれるラテン語訳アリストテレスを改良した。後者を作成する場合、人文主義的原則(たとえばギリシア語の音訳は用いないことなど)が許容する範囲で、出来るだけ原典の伝統的理解を保存するために、改訳の出発点として中世のラテン語訳を採用する事を通例とした。ルフェーヴルは、古代・中世の注解者を、彼らを批判するときを除いて殆ど顧慮せず、自身の注解では、スコラ学的「問題」quaestio形式を捨て去って、原典の言語をより詳細に調べてその歴史的背景を考究する文献学的流儀を用いた。彼が著した数多くのアリストテレス思想入門書や著作のパラフレーズは、学生が理解しやすいようにアリストテレス主義学説を要約したものだった。ルフェーヴルは、1492年の最初の出版書を、アリストテレスへの力強い忠誠の誓いで始め、彼を「あらゆる哲学者の頭」と、その学説を「有益で美しく神聖」であると称えている。ルフェーヴルがエピクロス学派を退け、自ら校訂した「ヘルメス文書」を非難した事は、この敬虔なキリスト教徒にあっては当然だが、ディオニュシオス・アレオパギテスとニコラウス・クザーヌスへの信奉を考え合わせると、プラトン主義者たちまでも「信仰の恐るべき敵」と弾劾したのは驚くべき事である ルフェーヴルのプラトン主義への態度に含まれたもうひとつの矛盾した要素は、そのフィレンツェにおける復興者、マルシリオ・フィチーノとジョヴァンニ・ピコに対する関心である。1491-92年のルフェーヴルの最初のイタリア旅行は、ピコに会おうとして行ったものであり、1494年と1505年には、、彼はフィチーノ訳の「ヘルメス文書」を復刊している。より重要なのは、アリストテレス主義を単に有用で美しいだけでなく神聖な体系でもあるとして論じる事をルフェーヴルに可能にしたのが「古代神学」―――哲学の起源が東方古代の神学にあると言うフィチー(103)ノとピコの神話―――だったという事実である。『形而上学入門』(1494年)の序文において、ルフェーヴルは、「神的哲学」の淵源を、その叡智を哲学者に伝えた「エジプトの神官とカルデアのマギ」にまでたどり、哲学者の中でも「観念」を強調するのがプラトン主義者であり、神的で永遠の理性を追求するのがアリストテレス主義者であって、彼らの神学は、大いなる調和と親近性によって、キリスト教の叡智と一致し融和している」と書いている。プラトンよりもアリストテレスを好む点ではフィチーノと意見を異にしたが、哲学的テクストの表面化の最も深遠な意味を探る点において、ルフェーヴルは、かの偉大なフィレンツェ人に似ている。アリストテレス主義者よりも寧ろ新プラトン主義から生まれたこの解釈学的戦略が、ルフェーヴルに、アリストテレスの体系の中に霊的進歩の諸段階―――自然哲学から道徳哲学を経て形而上学へと上昇する―――を発見させ、それから、この体系自体が3段階のうちの第一段階に過ぎず、より高次の2段階は、教父に基づく聖書の読解、そしてクザーヌスとディオニュシオスに従う神秘神学への上昇だと結論させる事になった。独自の著作では、ルフェーヴルは、1520年までに、哲学者、教父、神秘主義者と縁を切った。彼は生涯の最後の16年間を、初期宗教改革に於ては白熱しているが危険な領域、聖書研究にささげたのである。(103)