2009年4月2日木曜日

レオナルド・ブルーニとフィレンツェ社会

レオナルド・ブルーニとフィレンツェ社会 (88)[ブルーニは]アレッツォ生まれで、生年は1370-75の間と考えられている。アレッツォは早期ヒューマニズムの重要な都市のひとつである。1380年以降、当地で騒乱が生じて84年には外国軍の侵略をこうむり、翌年フィレンツェの支配下に入った。……フィレンツェに移住したのは95年頃である。96年にはミラノ支配者ヴィスコンティの侵略を受け、アレッツォは再度荒廃した。トスカーナへ勢力圏を拡大するミラノとフィレンツェの緊張関係は年を追うごとに高まる。これが「バロン理(89)論」の背景である。97年からクリュソローラスのもとでギリシャ語を学び,世紀が改まった始めの頃に,いくつかの作品をギリシャ語からラテン語に翻訳して、この語学を修めた事を示した。  ……1405年からフィレンツェ定住を決める15年までの十年間、彼は教皇庁の秘書官となる。この間サルターティが死去したとき、後継者にブルーニの名が挙がった。1410年……から数ヶ月間、フィレンツェの書記官長となっている。1427年に再びこれに就き、今度は1444年に死ぬまでその地位にあった。 『フィレンツェ史』を書き始めたのは1415年からで、共和政ローマとの歴史的つながりを意識しながら、自由な都市国家フィレンツェの共和主義を強調する。……また1421年作の『騎士論』では、騎士や兵士など、概念を含めて軍制の歴史的考察を行なう。軍事組織の模範として考えられているのは特に古代ローマの制度で、これから外れているものは野蛮そのものと判断される。ローマ礼賛はマキャヴェリを思い起こさせようが、彼と違い、ブルーニは傭兵制を否定してはいない。この著書でもブルーニの基本認識が明瞭である。人間が都市民的生き物である限り、軍制も都市国家、ギリシャ人の言うポリスから切り離されえず、また人間一人一人はか弱い存在である(90)から、集団を成し、互いに助け合う必要があると、アリストテレスの『政治学』に基づいて言われる。 バロンは、この間のブルーニについて次のように説明する。フィレンツェ市民となった1416年からのろく年間は、『フィレンツェ史』などの著述に取り組み、歴史の共和主義的解釈を行なうとともに、行動的・政治的生活に内在する価値の哲学を展開した。しかし21年からのアルビッツィ家支配の時代は「新市民」には良い時代ではなく、学者・教育者としての活動は相変わらず活発であったけれども、政治意識は弱まった。それゆえ、20年代半ばごろ、再び勃発したヴィスコtんてぃとの戦争は以前と異なり、ブルーニに殆ど直接的影響を及ぼさなかった。ここには市民的ヒューマニズムの限界が示されている。行動的な市民的生活を通して、現実に積極的に関わろうとする気持ちが働かないなら、単なる学問では市民的ヒューマニズムはある点以上に発展できない、と。 ところが1434年にメディチ家が権力を掌握してから、新市民にも高い地位に上る機会が増えたとバロンは指摘し、残り十年間のブルーニの人生を賛嘆してやまない。世を去る1444年までの間、『フィレンツェ史』を書き続け、ダンテを評価し,俗語文学に支持を惜しまなかった。……  書記官長と有力市民(91) 果たしてブルーにとメディチ家の関係はどうであったのか。まず、少しブルーニの経歴を検討しよう。書記官長職に就いた1427年の前後からは、メディチ家が「新人」を登用しながら、アルビッツィ一族やストロッツィ一族の寡頭支配体制と緊張を高めていく時期に当たる。ブルーニの同職前任者はパオロ・フォルティーニで、その再任はメディチ家の望むところではなかった。ブルーニの最初の書記官長職に代わったのが、実はこのフォルテぃーにであった。後任を巡ってブルーにと競争相手となったのは、メディチ一族に気に入られていたマルティーノ・ルーカ・マルティーニだった。マルティーニは選出されなかったが、ブルーニも必ずしも順当に選ばれたわけではない。最高三職から送られてきた案が、市民評議会で拒否された事があったからである。ブルーニが選ばれたのは、そのヒューマニストとしての知的実力とローマ教皇庁とのつながりからであり、メディチ家にとっても最終的には無難な線であったのであろう。 ……(92)リナルド・デッリ・アルビツィを一員とする委員会から、ブルーニは保守派の牙城グエルフィ党の快速改定をゆだねられた。完成したのは1420年である。先の『軍制論』はこの翌年、……このリナルドに献呈された。彼は18年に騎士に序せられていて、ブルーにとしてはこの間の交わりを感謝しての事であった。……なおアルビッツィ一族は遠く12世紀にアレッツォからフィレンツェに移住してきていた。時間差が大きいとはいえ、ブルーニの故郷もアレッツォである。…… この[年]、ブルーニから献呈を受けた……コジモ・デ・メディチは、アリストテレスに帰せられていた『経済学』の翻訳を受け取った。……メディチ時代が訪れると、ブルーニ(93)は過去の事実を隠す為に『軍制論』写本の献呈先を削り落としたり、メディチ批判などに関わる書簡を処分したりした。またメディチ時代にアレッツォで出来した謀反にブルーニが絡んでいるのではないかとも、新発見の資料から推測されている。(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)