2009年4月2日木曜日

プラトン主義の歴史性と古典

プラトン主義の歴史性と古典 文化の政治性 ……この時代、メディチ家とその支持集団に政権が固められていく中で、フィレンツェ・プラトン主義の発展はこのような政治支配と密接に連動し、ロレンツォ・デ・メディチによる冷徹な専制政治の現実から、フィチーノに代表されるプラトン主義者が関心をそらす役を果たしたとも或いはメディチ家独裁の積極的な宣伝者であったとも評される。それゆえ、政治参加に市民的価値を認め、共和主義的自由を高らかに唱えた市民的ヒューマニストの時代からは大きく変貌を遂げたのである。…… メディチ家支配を厳しく判断している代表はガレンである。ガレンは書記局に関する名高い論文で,ブルーニと違ってサルターティに極めて高い評価を与え、フィレンツェの自由の擁護者としてのサルターティ像を打ち出(96)した。だが、ガレンによると、サルターティの死後、ヒューマニズムの英雄時代は終わり、政治と文化の間に亀裂が走った。ブルーニはその後に現れた書記官長の中で、彼に唯一比肩しうる存在であるが、この行政官には文化生活が向いており、プラトンの読書に現実逃避する事もあったブルーニに続いたマルスッピーニやポッジョはヒューマニストとしては一流でもメディチ家の恩恵なしにはその地位を保てず、スカラになるともはや文化的にも見るべきものが無く、政治もシニョリーア宮殿から、ロレンツォが当主のメディチ邸に移ったと評している。この時代には「サルターティの素朴なキリスト教は最早無く、フィチーノの曖昧なプラトン主義、そしてオルフェウス的秘儀が存在する。新しいアテネの星はサトゥルヌス(土星)、つまりメランコリアの、崇高であるが苦しむ、なぞを秘めた英知の象徴となった。そのときレオナルドとミケランジェロ、そして書記局にマキャベリがいた」。概ね、ガレンはこのように論じている。 これに対し、次のような反論が「自由」の観点からなされよう。サルターティの自由には幾種類かの自由概念が抽出できるが、基本はグエルフィ主義の伝統に則る自由であり、これと反対の従属とはギベッリーニ的支配を受けることであった。このためにサルターティこそ旧時代の人間とみなしうる性格を有している。また彼とジャンガレアッツォ・ヴィスコンティとの関係を見た場合、常に僭主と断罪していたわけではなく、時にはミラノ公におもねり、時にはミラノ君主指揮下の傭兵軍は自由の守り手でさえあった。更にまた、サルターティをフィレンツェのときの権力者から分離し、努めて民衆の側におく必要も無かろう。彼の地位はチオンピ革命時や革命前後にかかわり無く安泰であった。書記官長時代は1375年からなくなる1406年までの永きにわたった。……  フィチーノとプラトン主義(97)ガレンはまた別の論文で、スカラと同様にフィチーノをメディチ家の御用学者として捉え、ピコやポリツィーノの、同じメディチサークルから区別した事があった。これについてもクリステラーは、庇護・被後見の関係では異なるところは無いとしている。15世紀フィレンツェの最大の哲学者と目されるフィチーノの政治的立場にはじつに微妙な点があり、メディチ家一辺倒では決して無い。その書簡や著書の送り先から反メディチ家の有力者とも親しかった事が分かるし、彼に市民的ヒューマニズム像を抱く研究者瀬も居る。また実際、ヒューマニストと同じ主題を論じている事は、ガレンとクリステラーの両研究者も認めている。…… 次に、両研究者のヒューマニズム観とプラトン主義観を対比的に論じてみよう。ガレンはヒューマニズムをダンテ、ペトラルカ以来のルネサンスの特徴を示す哲学的運動として捉え、人間的価値は学校外の領域で追求され、従ってヒューマニズムは市民生活の自由と深い関係にあり、メディチ家の独裁は特にサルターティ以後のヒューマニズムの終焉をもたらした、と主張する。クリステラーはヒューマニズムの定義に於てガレンよりはるかに(98)厳密で、フマニタス研究は中世における自由七科の内の三科、事に文法とレトリックの拡大であり,哲学的主題を扱う四科とは全く異なるとする。それゆえ、ヒューマニズム運動を哲学的運動とするのは矛盾した用法という事になり、サルターティらのヒューマニズムとフィチーノらのプラトン主義の間に政治の面ではなく、学問の面で一線を画すべきなのである。 フィチーノが「フマニタス研究は君を雄弁にしたが、哲学的研究は紙にするであろう」と述べたのも、またアラマンノ・リヌッチーニが哲学を含む文学研究とフマニタス研究とを区別したのも、フマニタス研究、ひいてはヒューマニズムが限定された意味で用いられている事を意味しよう。従ってクリステラーに拠れば、ヒューマニズムからプラトン主義への移行を政治と関連付ける必然性は全くないし、バロンのいう市民的ヒューマニズムも一時代の一地域には該当しても、ヒューマニズム全体を説明する共通指標にはなりえない。フィチーノについてクリステラーは、ダンテ、ジョットが詩、絵画それぞれの復興の為に成し遂げた事をプラトン哲学の復興の為に成そうと、明確な歴史意識を有した人物と断を下した。 これに対し……ガレンによると、サルターティやブルーニのヒューマニスト的文化からフィチーノ派の「神学」へと移っていったのは、「文学」から「哲学」へと個人的関心を移したのでも、プラトン復興も一個人の敬虔な魂の「内的」推移に帰する類のものでもない。なぜならそれは、ガレンの見るところ、現実政治と表裏一体の関係にあり、メディチ家支配がもたらした自由の抑圧から関心の移行が生じたからである。……ロレンツォ支配時代のリヌッチーニについて、ガレンは言う。「初期ヒューマニズムの著作家とともに、倫理面では(99)アリストテレス的良識の名においてストア的禁欲を非難し続けるリヌッチーニは、現実面ではそして種々の政治的理由から、全くの<修道士的・孤独的>徳にあこがれる。市民生活のこの愛好者は悲痛な気持ちで文化を隠遁、瞑想、死への思い、死への接近として祝う事になる」。続いて、市民生活から遊離するプラトン主義が指摘される。「全く人間の問題であるソクラテス流に哲学する事から、プラトンのレベルに人は移っていく。他方、地上的生活の具体的感覚のため、これまでストア主義に反対してきたキリスト教そのものは、ますます活発となるプロティノス的伝統の光で変貌する」。……(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)