2009年4月2日木曜日

共和政的自由と書記官長

共和政的自由と書記官長 自由と民主社会イタリア都市の市民社会的特質(106) ルネサンスの特定の時期に用いられる「市民」概念と共和意識高揚の歴史認識は、バロン理論の骨格を形成する。……イタリアが真に近代化を達成できなかったのは、アルプス以北の市民との歴史的相違や、都市と農村の構造及び両者関係の相違が厳然として存在(107)したためであった。中世北西ヨーロッパ都市(北フランス、ベルギー、ドイツ西部)は公共世界に奉仕を行なう個人の誓約団体から出発し、封建貴族や騎士などを排除する、純粋に市民的な結合から成立していた。 これに対し、イタリアは都市が農村を政治的にも経済的にも支配する都市国家の構造を持ち、征服された封建貴族層との婚姻関係を通じて有力と市民は次第に貴族化していった。この為ヒューマニズム文化は教皇庁をはじめ、権勢家として変質を遂げた、これら支配層に奉仕する、一握りの古典学者の専門性に支えられていた。またこれら裕福な身分層のキリスト教信仰は異教性に染まるとともに、制度的な形式に甘んじていた。これに引き換え宗教改革は広範な層に浸透して中世的な身分構造を突き崩し、宗教的個人主義の確立に寄与した、というのである。 このような観点からすれば、イタリアのこの時期の社会は北西ヨーロッパの純粋なる市民社会と異なるので、フィレンツェのヒューマニストを「市民的」と呼ぶのも、またその代表としてブルーニが「市民社会」と言う表現を用いていても、ルネサンス社会を「市民的」社会と呼ぶには問題がある、となってしまう。…… 問題はしかし政治生活だけではない。近年、商人の町であったフィレンツェの市民生活のあり方が多方面から活発に研究されだした。家の年代記である日記、日録とその俗語作者に注目が集まっているのもその一つであろう。多種多様な伝統を抱え込んでいるフィレンツェ社会にあって物書きたちがすべて所謂文学者(108)であり、古典語の世界にのみ生きていたと考えるのは、この社会内の動力を無視し、ヒューマニズム文化の実態を貧弱なものにする。…… [マネッティ、アルベルティら]ヒューマニストは経済的に裕福な層の出身か、あるいは富を獲得した政治指導者層に属していた。彼ら自身が考える市民社会とは彼らが属している支配層の社会であった。そのフィレンツェでは政治的・社会的平等が重んじられたが、これを享受出来るのは総人口数4,5万人の中の2千名ほどであり、このような限定された市民達により国家体制が維持されていた。政治参加から締め出されたのは、貧困が珍しくない下層労働者だけではなかった。強力な影響力を持つ豪族にも政権担当に制限が設けられた。…… 先の「公共世界への奉仕」と言い、また今度の「政治的な共同体」といい、果たしてマキャヴェリらの「ルネサンス市民」と全く無縁の概念であろうか。政体安定を如何に図り、達成するかは、コムーネ建設以来の、フィレンツェ共和国の変わらない課題であり、ロレンツォ・デ・メディチ没後の同国でも特にこれが企図された。同書記局の役人マキャヴェリは、公徳心を持った市民による義勇兵の軍隊を組織し,政局の不安定要素となる腐敗防止と公益維持の実現に邁進した。…… フィレンツェ史に見る自由の内容 政治的独立と自治 (112)まず、上級権力からの独立と自治を意味する政治的自由は、周知のように、12世紀後半、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)に対するロンバルディア都市同盟の抗争の中で、諸コムーネの要求として現れた。皇帝は秩序の回復を、即ち都市側が国王特権レガリア(貨幣鋳造権・徴税権・裁判権・官職選出権)を不法に行使している原状を回復しようとして、イタリア遠征を敢行した。これに対し同盟側は、自治の根本にかかわる、その様な権利を放棄する事を拒否した。尚同盟が成立したのは、1167年、皇帝の第4次イタリア遠征に際してであった。ベネチア、ミラノ、ボローニャ、ベルガモなどの北イタリア諸都市が連合し、これにローマ教皇アレクサンデル3世が加わった。同盟諸都市は1176年レニャーノの戦いにおいて勝利を収めた。そしてこの後、「我等の父祖により相続法に基づいて契約された我等の自由を、我々は決して放棄しない」という気概をローマ教皇に明らかにした。翌年にはベネチアで皇帝との和平交渉に臨み、ここで6年間の休戦に入った。自治が正式に認められたのは1183年のコンスタンツの講和においてである。 30年に及ぶ、帝国とのこの闘争に中部イタリアの都市は参加しなかった。寧ろフリードリヒ1世が皇帝代理施設として派遣したケルン大司教による帝国支配を受け入れた。サン・ミニアート・デル・テデスコはこの地方の帝国行政の中心であった。フィレンツェは皇帝に服属しているその一都市であり、この状況は次のハインリヒ6世や13世紀前半のフェデリコ(フリードリヒ)2世の時代においても基本的には変わらなかった。この間それでもフィレンツェは着実に発展しつつあった。……また商業の発展は人口の増加をもたらし、ボルゴと呼ばれる新開地が市門から出る道路沿いに広がった。市壁の拡大は必須となり、こ(113)こにアルノ川にまたがる都市に変貌した。 フィレンツェはフリードリヒ2世没後に生じた帝国の不安定な正常や、フランスのシャルル・ダンジューによる南イタリア干渉が見られる13世紀第2半期に、短期間とはいえ、「第一民主政」の実現に成功した。ここで商人=市民は力を強め、フィオリーノ金貨を発行して事実上の自治を行なった。その後、グエルフィとギベッリーニの激しい抗争が続き……1280年らティーの枢機卿の努力によって和解への歩みにいたり、それまでのコムーネ制を一新する。これは82年の組合の構成員を中心とするプリオーレ体制への道筋をつける事になった。商人=市民層の勝利の流れは93年の「正義の規定」で決定的となった。……プリオーレ体制はその後250年間、つまりルネサンス世紀中も続く事になる。 14世紀始めに、ついにフィレンツェ共和国と帝国間の真の対決が始まる。イタリアに帝権を再構築しようとした皇帝ハインリヒ7世がこの町を従属させようと包囲した,まさにその時、これを期に皇帝からの独立としての自由が浮上して来たのである。内紛に巻き込まれて亡命中であったダンテが、コムーネ側のその様な自由を激しく戒めた……、普遍的・世界的帝国の再現を皇帝に期待して、熱烈な書簡を認めて止まなかったダンテに拠れば、真の自由はこの帝国でのみ保障されるべきものであった。「君主政の元で生存してこそ、特に自由である」のに、フィレンツェ人は帝国支配という「自由のくびき」を拒否するその時に、「不当にも自由の礼服を」擁護している、と彼らを責めた。 (114)ダンテの同時代人ジョヴァンニ・ヴィッラーニは、彼と違いグエルフィであったが、その党派に忠実であるよりも祖国の安寧のほうがより重要であった。また、後に現れるフィレンツェの歴史家たちのように、祖国の起源をローマの共和制に求める必然性を強く感じてもいなかった。ヴィッラーニによれば、北方の蛮人によりもたらされた暗黒時代は新ローマ皇帝シャルルマーニュにより終止符が打たれ、皇帝自身によって独立はフィレンツェに付与された。シャルルマーニュが「フィレンツェをたつ際に都市に特権を与え、フィレンツェのコムーネと市民を自由にした」という。これは同国人の共通見解であった。ダンテが生まれたころ、1260年代に多分フィレンツェで執筆された、ジョヴァンニ・ダ・ヴィテルボの『都市国家統治論』荷「都市は市民の自由ないしは住民の特権といわれる」とあるのも、同じくシャルルマーニュが譲与した特権を指している。……フィレンツェはいまやヴィッラーニによれば、ローマに代わってイタリアの中心となるべき町であった。これは、政治的立場が異なるダンテも共有していた意識であった。 ダンテは1321年に、ヴィッラーニは48年に世を去った。そのころに著名なローマ法学者バルトロ・ダ・サッソフェッラ-トが発した「支配者に君主を認めない都市の住民は自由である」の言は、共和政都市国家の市民に向けられたものである。このような都市は「自らの君主」であり、その限りにおいて独立的であり、政治上の至上権を有するまことの実体となる。 教権からの離反・自立(115) 上級権力はしかし皇帝権だけではなかった。中世のもうひとつの極、教皇権を考えに入れておかなければならない。14世紀初頭から始まる、アヴィニョン教皇と同世紀後半の大分裂は、教権も貞一を持たぬ不安定な権威であることを露呈した。定見が移ろう権威であり、かつての大帝国ローマから今ドイツにそれがあるのは、ダンテを含めてイタリア人には不思議ではなかった。この意味でローマは続いており、帝国は滅亡していなかった。 だが教権となると話は複雑になる。……『帝政論」の作者であるダンテの政治観と比較すれば、一般にペトラルカのほうが「民主的」とされているが、それはペトラルカが共和主義者であったことを意味しているわけでは決してない。ヴィスコンティ家からの歓待を受けたため、共和主義的政治理念を裏切っていると彼は非難された。また彼は自由の概念を多用するが、それは僭主や圧制者からの皇帝による解放を目指す点でダンテと変わらない。時の皇帝カール4世と彼との間(116)には、あたかもハインリヒ7世とダンテとの関係に似た信頼感があった。……他方で注目されるのは、皇帝の素性の野蛮性が忘れられていない点である。…… 1375年から78年にかけて、フィレンツェ人が行った教皇庁との一戦、いわゆる八聖人戦争は、彼らの国家がグエルフィ国家であることを考えると、重大な変化がフィレンツェの歴史に生じたことになる。この戦いには教皇主義の立場から彼らの一部に逡巡があったとしても、教皇の権威に盲従する時代が終わったことを示している。聖職者課税問題に端を発したこの戦争で、1377年、教皇グレゴリウス11世はアヴィニョンからローマへの帰還を整えるべく、まずその特使を送り込んで、ローマ周辺の地域に強い指揮権を振るおうとした。このときのフィレンツェ川の論客が、……サルターティであり、ルイージ・マルシーリであった。特にフィレンツェ書記局に入局したばかりのサルターティはこの間、「自由」をフィレンツェの自主・自立の意味で用いて、グレゴリウス11世に対する宣伝活動に従事した。 ついで1387年から翌年にかけて教皇庁との緊張が再び高まったが、その際ウルバヌス4世をめぐる市民の反応は、フィレンツェと教皇領国家とが従来の関係をさらに超えていく、新たな段階に入ったことを示している。教皇領も、このグエルフィの共和制都市国家の、他の国家をしのぐ力強い拡張政策の標的となる。 共和政的自由(117) この拡張政策自体はここで始めて開始されたわけではなく、コムーネの歴史とともにあったということができる。フィレンツェの自由は、自由という名の下で相手の自由の否定であり、他地域への侵攻を伴うものであった。「コンタード征服」は確かに封建制からの解放と言える反面、弱小の共和政コムーネの制圧でもあった。14世紀末から次世紀に掛けてのミラノとの戦いは、相互の拡大方針から生じた衝突の結果であった。専制君主に対する共和政的自由は、上級権力からの自由という、既出のカテゴリーに分類可能な側面を有するものの、フィレンツェの場合はこれを別のものとして扱ったほうが適切なように思われる。:::(117-120:皇帝派対教皇派)(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)サルターティの政治思想と自由観 バロン批判(120) 「中世的」自由に立つフィレンツェが、ジャンガレアッツォの急死を受けて「絶対主義的」国家ミラノに勝利した結果、ヴィスコンティ家によるイタリア統一が阻まれた。その後に近代化の立ち遅れや外国支配の甘受を招いたのは、ひとえにこの中央集権国家の不成立に帰せられる。このためイタリア史学の伝統には、ミラノの不首尾を民族的悲劇とみなそうとする傾向があるのである。:::(バロン批判ー122) サルターティの政治思想(122-125:現代歴史家の解釈)政治制度と権力中枢部政治制度(125)サルターティの政治意識を問う場合、彼の私的な著書だけでなく、委員会や評議会の記録や外交書簡もまた大切な資料である……。これらの一次史料からフィレンツェにかかわる歴史叙述を物した研究者はブルッカーである。ブルッカーはまず『フィレンツェの政治と社会1343-1378年』で変転する時代の相貌を精緻に叙述した。[その後の著作で]1434年コジモ・デ・メディチの支配が始まる直前までの、およそ半世紀にわたるフィレンツェの歴史と社会構造を明らかにし、当市の政治担当者が団体から選ばれたものへ変わっていった、と結論付けた。…… 団体とはアルテ(組合)を指し、その組合員たる個人は、自らコムーネの一員であった。さらに個人はグエルフィ主義の代表的としフィレンツェの市民として、グエルフィ党という政治組織の一員でもありえたし、無論、地区の住人として軍制上の義務を負う一方、宗教組織にも属して奉仕活動を行った。このように個人はいくつかの団体に属しているのが普通であった。否むしろ、団体に属して初めて個人があったといえよう。 14世紀から15世紀にかけての政治・社会の動きの中で、これらの団体精神の果たす役割を低く評価しようとする見解に対して、ブルッカーは主張する。1348年の黒死病後、旧来の社会秩序を形作っていた団体組織には昔日の活動力はなくなり、さらに78年のチオンピ革命では旧秩序の欠陥があらわになったが、団体精神それ自体は消失しなかった。だが、1378年から82年にかけてのアルテ体制下では時代の変化に対応しようとする動きが生じ、90年代までその動きが続いた。そして15世紀の最初の10年までに、経験に富み、専門家的な「選ばれたもの」による政体が「団体」の中から抜け出し、成長していた。…… 1282年に基本が出来上がったフィレンツェの国政は、約2世紀半にわたって存続することになるものの、安定したものでは必ずしもなかった。……結局1343年に21のアルテの組合員のみが政治に参加できる仕組みになった。なお、これより半世紀前の正義の規定により、豪族は行政職上、「最高三職」から締め出されていた。1340年代あたりからおよそ40年間は、フィレンツェ社会が周囲のコンタードなどから流入してくる多くの「新人」を受け入れた帰還に相当し、伝統と確信の要素が混在ないしは衝突しあった。その状況の中で政治参加が市民の重大関心事であり続ける。 最高三職とは9人の政府高官、プリオーレからなる「シニョリーア」と、これを補佐する二種類の補助会たる「有徳者12人委員会」と町の各地区の代表者「中隊16人旗手会」の各3機関を指していた。9高官のうちの一人が「正義の旗手」と呼ばれ、事実上の国家最高級代表であった。在職期間はシニョリーアが二ヶ月、その他が(128)おのおの三ヶ月と4ヶ月でともに短かった。法案はシニョリーアによってのみ提出され、補助会の同意を経て、2立法府の「市民(ポポロ)評議会」と「コムーネ評議会」のそれぞれ3分の2の多数決を得て始めて法律となった。立法府のうち前者はシニョリーア、補助会に属するものなどを含む300人の市民で構成され、後者は豪族も構成員として認められ、200人からなっていた[評議員期間は4ヶ月]。…… 無給であるシニョリーアと補助会の成員は、計算上一年間で前者から54人、後者から96人生まれることになる。退任後3年に至るまでの間、元高官がシニョリーアに戻ることはできなかったから、独裁化を防ぐには効果があったにしても、制度上は当然欠陥が考えられる。長期に及ばざるを得ない政策執行、たとえば頻々と起きる戦争や国内騒動、絶えざる歳入不足などの対処に支障があったことは事実である。そのためと区別の権限を持った委員会設置の機械が多くなっていった。その委員の選抜期間は6ヶ月であるが、戦時に任命された場合には和平がなった後まで、その職の続行が普通であった。 またシニョリーアなどと違い、変わらずに勤め上げる役人の存在も忘れてはならない。シニョリーアは少数であるものの、経験が豊富で優秀な彼らに助けられたといってよい。サルターティやブルーにらはその代表的な存在である。そのほかシニョリーアは課税・外交・国内治安などの諸問題に関し、老練な市民に助言をこうことがあった。彼らのことを「招請されたもの」と呼ぶ。……以上のような人や制度の存在が行政の欠陥を補ったことになる。アルテ加入者たる市民は、14世紀後半から15世紀を通じて5,6千人から8千人と見られ、そのうちの3千人が行政職につくか、立法府の一員となることができた。このように数が限定されるのは、投票による検査、(129)スクィッティーノ、スクルティニオを受けなければならなかったからである。それを実施する委員会は、ある特定の官職に指名されている組合員が、果たしてそれにふさわしいか否かの投票を実施する。開票の結果、3分の2の多数を制したものが資格者と宣告され、その名が札にかかれて赤い皮袋に入れられる。ある職に欠員が生じたときは常に、その中からくじで管理が引き当てられた。なお資格審査は1415年の法規では五年ごとに行われることになっていた。……  シニョリーア選出には公職選出用の袋、8袋が用いられた。うちひとつが正義の旗手用に、残りの7袋が8高官用に当てられた。……14のアルテから成り立つ小組合には、7袋のうち1袋が割り当てられ、2名が選出された。正義の旗手には彼らは選ばれる資格がなかった。…… では誰が袋に投入するのか。それはアッコッピアトーレと呼ばれる「選挙役人(選挙管理委員会)」の仕事であった。こうしてシニョリーア選出の2段階、資格審査のための投票と選抜との間にもうひとつの段階、アッコッピアトーレによる、袋に入れる行為が加わることになる。……(130) 15世紀初頭のフィレンツェ ブルッカーもまた、[ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティとの戦争]時期を同都市国家が「団体」中心から「選ばれたもの」に移る画期的な時代と捉え、その選良体制の力強い行政手腕は、同期に続く一連の領土拡張政策に現れていると見る。……記述のように、……いわゆる8聖人戦争は、教皇庁に忠実な同市のグエルフィ主義からの方向転換と捉えられるとしてもこの伝統の終焉からは程遠かった。80年代前半のアレッツォ獲得は外交政策の転機をもたらし、このためシエナとの関係が悪化した。さらにモンテプルチャーノをめぐる危機(1388)は、フィレンツェ=シエナ間の対立を深めた。やがてシエナがジャンガレアッツォの前に屈服したことは、ここがトスカーナ侵入の起点となり、フィレンツェの安全に取り最大脅威となった。フィレンツェ=ミラノ間の対立には、フィレンツェ川の帝国的衝動も見落とせない。……第1次ミラノ戦争(1390-92)で雌雄は決しなかったとはいえ、これは1454年のローディの和成立まで続く、イタリアにおける戦争時代の幕開けとなった。 最初の衝突後、かねてから親仏派のフィレンツェはミラノに対するけん制としてフランスとの同盟を推進し、北方からロンバルディーアを窺わせようとした。(131-ミラノ=フィレンツェ間の対立)権力中枢部の成立と書記局 (134)フィレンツェの対外関係においてブルッカーはミラノのジャンガレアッツォ・ヴィスコンティとの衝突よりもナポリのラディスラウス王との戦いのほうにより大きな歴史的意義を見出した。…… ブルッカーは1382年から1411年の30年間に国政上のいかなる主要な変化もなかったが、徐々に政治が「選ばれたもの」に限られてくることを確認する。……(135)これら選ばれたものは法律家・公証人を除けば大方が商人、銀行家に事業経営者であって、13世紀以来変わらないフィレンツェ社会の主要構成を示している。ただし15人は事業活動に携わっていない。選ばれたものの中には非常に裕福なものもいるが、富と政治的地位のつながりは強くない。高位の公職につくには富よりも家門のステイタスがはるかに重要であった。のみならずこれだけが「権力中枢部の一員となる保障ではありえず、政治的熟練度とともに個人的資質もまたものを言った。この選ばれた少数体制はコムーネの歴史の中で他のいかなる体制より安定度を増し、子が親に取って代わった。 ……(137)コジモ・デ・メディチは外交政策の基本を同公国との親善友好においた。それは新ベネチア政策に距離を設けることとなった。ブルッカーは……コジモの支配体制も、既存のアルビッツィらのそれに酷似していたのであって、メディチ家が作り出したものとは言えず、同家はその敷かれた路線を歩んだのであると述べている。…… そしてこのころの書記官長が再任のブルーニであった。彼はアルビッツィ、ついでメディチの時代のフィレンツェで公務にまい進する。最初のときを含めて、フィレンツェ内外の政局の厳しい現実に直面していた。戦争は外交の範疇にあり、書記局は共和国の大義を訴えねばならなかった。他方で、宗教世界では公会議派は勢いを失わず、幾度となく会議が開催され、また短期には終わらなかった。フィレンツェに公会議が移動するよう有力市民の意見を集約(138)したのも、また書記官長のブルーニであった。  (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)