2009年4月2日木曜日

パトロネージとメチェナティズモ

パトロネージとメチェナティズモ(150) パトロネージでよく知られているのは、文化後援者たるパトロンと芸術家の関係であり、それは(151)ルネサンス時代を華やかに彩っている。互いの関係の中で、芸術家の個性を明示したり、社会的地位の上昇を表示したりする逸話に事欠かず、この時代を広範な人たちに親しみやすい時代としている。 このようなパトロネージはしかし、一人芸術家に限らず、当時あまねく見られた社会的結合関係のひとつであり、フィレンツェ市民のおのおのにパトロンが存在するといった状況であった。……また時には有力市民が聖職禄の授与権者、パトロンとして振舞うことも珍しくなかった。…… パトロンの代表格と目されるメディチ家は、こうして単に芸術家のパトロンにとどまらず、自らもパトロンを有することになる。それに彼らは、有り余る資産で個人的嗜好を満たすためにだけ芸術を愛好するのではなく、アリストテレス的観念の大度・豪気で社会的責務を示し、一門と国家に栄光をもたらそうとした。このことは、レオン・バッティスタ・アルベルティの『建築論』序言によく示されている。同家はまた向上主・銀行経営者であるから、会社・企業体と見ることも許されるであろう。そうなるとパトロネージとは「フィレンソロピー」に類似している面もある。亡命ギリシャ人アルギュロプーロスは祖国を失い、一時は妻子も不明となるほどの辛酸をなめた。……コジモは彼のためにラルガ通りに家を借りた。1470年、カタストによるメディチ家の申告によれば、同居人は50人以上と記載されている。この中には、一面では食客のような存在を連想させるものの、類似の境遇から助けあげられた人物がいたことであろう。(152) したがって厳密には芸術・学術あるいは芸術家・学者を保護・支援する運動、また保護・育成するものに、特にメチェナティズモ(meccenatismo 文化後援)、メチェナーテ(文化後援者)という用語を適用し、主として一般的な恩顧や公園、支援から生じる、他の、より広い人間関係などにはパトロネージという概念を用いるほうがよいように思われる。……わが国ではルネサンスのパトロンというと、芸術愛好者としか受け止められていないのが現状であろう。このため広義のパトロン概念の理解は必須である。庇護者ー被後見人のこの関係の中で、特待や恩恵を付与する側も、社会的名声や評価を媒酌したことであろう。そしてこのような結合が広く社会一般に認められるのであれば、ヒューマニズムとプラトン主義との境界線は文化的には意味あることとしても、現実的には容易に行き来できる区切りに過ぎず、それぞれの文化の代表者は政治権力者と類似した人間関係にあることになる。 パトロネージと社会構造 さて、フィレンツェの社会構造そのものが、パトロネージを浸透しやすくさせていたのではあるまいか。このことは有力市民が行政人であるとともに、企業家・商人であったことと無縁ではなかろう。政治指導者が「店主」と表現されても、なんら違和感を覚えない社会がここにはあった。フィレンツェ社会が「貴族的」側面を併せ持つ社会であるとしても、同地の上層市民が同時代のフランス王国やナポリ王国、場合によってはベネチア共和国の貴族と同種であったとするのは難しい。両国の貴族たちは、フィレンツェ人が商売に熱心な姿勢をとることに自分たちとはかなりの異質性を覚(153)えていた。 そしてこの同時代における相違はまた、過去との比較にも該当する。フィレンツェ市民のほうが、理想とした古代ローマ人よりはるかに商業と交易の活発な都市に住み、この仕事に好んで従事する一方、政治での役割も同市民のほうがはるかに自立的な力を保有していた。カタストに示されるように、15世紀にあってはその富がかなり偏在していたものの、メチェナティズモとパトロネージをともに多彩にしたのは、間違いなく彼らの持つ豊かな資力であった。その資力にはキリスト教の教説に基づく禁忌が働き、たとえばコジモの慈善活動に示されるように、あるいは教会や修道会への罪滅ぼしの寄付行為となり、あるいは建物の新築・改築資金となった。 だが、金力だけでは社会的評価は十分に高くならなかったし、それだけでは納得しない人々の集合体がフィレンツェ社会であった。伝統的に国家への奉仕が要求され、またこれを願い、支持する市民がいた政治参加を訴える、彼らの雄弁はよく知られており、それはヒューマニズムの市民的・活動的展開と見られる。人間は社会的生き物であるというアリストテレス的観念は、都市の広範な層に受け入れられた。古代ローマ共和政への思慕とこれを生かそうとする市政は、プリオーレ制下のコムーネ的伝統を引き立てる面を持っていた。  社会生活上、政治力と経済生活は密接に連関する。政府中枢部、シニョリーアにいかに座を占めるかは、有力市民であろうとする限りは死活問題であった。「フィレンツェではlo statoに与らなければ、人はいい暮らしができない」とはろれんつぉ・で・メディチの有名な言である。アルベルティはその『家族論』の中で、一個の人間に多くの親戚を友人、豊かな資産、知性、雄弁、洗練などがかね備わって公務に打ち込むならかなり上手くやれるだろうという。 市民は、政権に関与する少数者が左右できる恩顧に頼り、パトロネージの網状組織、ネットワークに入ろうとし(154)た。有力者はあたかも販売拡張のように支持基盤を厚くし安定させるために、これを活用した。官職、大学職、組合、信心会のポストなど、あらゆる組織上の位階、、そして聖職禄などがパトロネージを成立させた。フィレンツェ大学からピザ大学に移ることのできたダ・フォリニョが、アリストテレス『霊魂論』訳をろれんつぉ・で・メディチに検定したのは、無事に得たポストと関係があった。またフランチェスコ・ダ・カスティリオーネは大学職といい聖職禄といい、メディチ家の人たちにいろいろと恩顧を得ていた。……フィレンツェでは恩顧を求める市民が、早くからメディチ家一員を父や母、兄や姉と同一視する傾向があった……。 パトロネージを作る網が二重、三重に覆っていただけに、人はこれから漏れまいとした。網本であるパトロンのほうは、仲間作りに党派形成にと、これを役立てる事ができた。他方で、スタートを私物化した「自分の店」と呼ぶこともあった。フィレンツェにあっては、メディチ家以外の他家のネットワークも相当な範囲に及んでいたものの、メディチ家はどの家よりも強力で緻密な網をかけることができるにいたった。メディチ家による政治権力の集中は、同一族のパトロネージの圧倒的占有と関連している。同家にとり、パトロネージはこの集中過程を平滑に推進し、多様で重層した社会に安定をもたらす上で効果が上がった。ただ、ロレンツォの政治的パトロネージは、フィレンツェ共和政からして限りなく恣意的に発揮できるものでなく、高次のポストは必ずしも思うようにはいかなかった。むしろそれは政治的支配操作の問題であり、重要性の劣る職がパトロネージの範囲であった。