2009年4月2日木曜日

国家顕彰 

 3.コムーネと個人1.国家顕彰  (155)このようなことはわれわれの社会との根本的相違を顧慮するよう要求する。市民と国家の関係で言えば、都市国家そのものをあらわすコムーネ、つまり「共有」の意識が、当然の権利として恩顧に与ろうとする市民の意欲を掻き立てた。国家自体が最大範囲の恩顧、恩賞を保持し、付与しうる、最強のパトロンであった。このようなパトロネージは個人を対称にしているとはいえ、明らかに社会的・集団的意味を有している。告示に貢献したものが納税を免れたり、その子孫までこれを免除されたりする仕組みは、単なる論考行賞の域を超えた、特待を実施していることになる。…… 国家への貢献が認められたものに、爵位や称号などの栄典が授けられたり、記念碑が立てられたりするのは、1400年代には珍しいことではなかった。それはパトロネージが発達した社会の、古代ローマの共和政的伝統にのっとった国家的行事であった。レオナルド・ブルーニの墓標建設やコジモ・デ・メディチの祖国の父の称号付与は、古代を意識したルネサンス的再現である。「古代人は祖国を隷属から解放した者たちを、有り余るほどの栄誉で賞賛し称えるだけでなく、国家的彫像や記念碑でも飾る慣わしがあったとは、カルロ・マルスッピーニの言である。死後、彼はブルーニ同様、サンタ・クローチェ聖堂内に横臥像を持つ墓を建立される。彼らの死に際してはコムーネによって公に弔意が表明され、古代に習って月桂樹の冠が与えられた。生涯を称え、死去を追悼するヒュ(156)ーマニストの演説、演示的レトリック[がなされた]。 ブルーニとマルスッピーニがともにアレッツォ出身のシニョリーア書記官長であるのに対し、フィレンツェ出身の有力市民も同様の栄誉に与った。…… しかしながら、全体から見ればこれは小数にとどまる。すべての書記官長とすべてのフィレンツェ市民に、同一の、あるいは近似の待遇が待っていたわけではない。これらの国家的栄誉は実力者ロレンツォ自身にはなされなかったし、彼もまたこれを望まなかった。…… ローマ共和政の伝統によれば、国家から場合によっては恩賞に変わって懲罰を受けることは当然なことであった。…… (157)市民全体から見れば、栄典なしが多数を占めていた。メチェナーテとしてのロレンツォ(157)ロレンツォの評価には歴史的事実に通暁しておく必要があり、メチェナティズモにもパトロネージにも、このことが該当する。メチェナーテとしてロレンツォを見た場合、その個性が芸術家や学者に力強い影響を及ぼす時代が到来した、という印象を抱く。自らが詩人・文学者であったから、芸術家から見れば、彼は手ごわい支援者であったろう。メチェナティズモを必要とするものには緊張を強いる一方で、鑑識眼の高いメチェナーテとなる。特に建築には一方ならぬ関心を抱いていたことが知られている。……ロレンツォの近くには建築家として、[数名のものがいた]。(158)ロレンツォを芸術家としてみると、経済的にメチェナティズモを必要としない、ルネサンス時代の稀有な存在、立場上誰にもおもねる必要のない自立者であることになる。……ロレンツォはサン・マルコ広場に面した小邸宅の庭に趣味が高じて骨董品を集めた。これが芸術家養成につながる学校なり、美術アカデミーなりでありえたのか問題となるが……ピッティ宮のロレンツォ礼賛は、彼の知性と恩顧を称える華麗な絵画で名高い。…… メディチ家と市民あるいは芸術家や学者の関係については、プリオーレ制の続く15式の時代と、公国となった16世紀の時代では区別してみておくことが肝要である。パトロネージなどが国家的名誉というよりも国家的対面となり、一人権力者に好都合な宣伝材料として保持されるようになったとき、フィレンツェ社会自体が変貌していたのであり、初期メディチ家が支援したプラトンアカデミーなどもまた、16世紀では異なったものと(159)なったのである。(根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)