2009年4月2日木曜日
14世紀までのイタリア史概観
イタリア都市の展開 (3)イタリアの諸都市は、中世になって新たに建設されたベネチアなどの例外はあるものの、ほとんどが古代にさかのぼる長い歴史を誇っている。4世紀末にローマ帝国が東西に分裂し、さらに遊牧騎馬民族のフン族に押されたゲルマン諸部族が帝国内に流入して大規模な移動を展開するようになると、5世紀にはイタリア半島にもその波が本格的に及んできた。その結果、476年に西ローマ帝国が滅亡し、テオドリック王に導かれた東ゴート族がイタリアに侵入して、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建国したのである。 6世紀半ばになると、ローマ帝国の再建を目指すビザンツ皇帝ユスティニアヌスが東ゴート王国を征服したが、その後アルボイン王に率いられたランゴバルド族がイタリアに侵入してビザンツ勢力を追い出し、ミラノに近いパヴィアを首都として、半島の北・中部を中心に、南部のベネヴェント公領をも含む広範な地域を支配するようになった。このような古代末期から中世初期にかけての混乱の時代に、多くの都市は略奪や戦争の被害を受けて荒廃した。しかし、古代末期にキリスト教がローマ帝国の国教とされてから、都市に司教座を設置して布教活動を展開していた境界が、治安の維持や、道路や橋の管理などにも関与したため、イタリア諸都市はその規模を縮小させながらも、地域の行政や経済、侵攻や文化の拠点として機能し続けたのである。 一方、ランゴバルド王国の圧迫に苦しむローマ教皇は、751年にラヴェンナが占領されたのを機に、フランク王国の実力者ピピンに援助を求めた。ピピンはイタリア遠征に寄ってランゴバルド族を討ち、旧ビザンツ領であったラヴェンナ総督領を教皇に贈与した。このいわゆる「ピピンの寄進」は中部イタリアに一定の領域を占めるローマ教皇領の元となったといわれている。さらに、教皇から戴冠されて皇帝となったカール大帝は、南部を除くイタリアをその領域に組み込んだが、カールの没後、帝国の分割や相続が繰り返され、現在のフランスとドイツにつながる国家とイタリア北部の地域的な枠組みが成立した。9世紀末から10世紀半ばにかけては、東西のフランク王国とともにカロリング帝国を構成するイタリア王国が半島の北部や中部を支配したが、ドイツ国王オットー1世が962年に皇帝に戴冠され、イタリア王位をかねると、北・中部のイタリア諸都市は、ビザンツ帝国に帰属するベネチアなど一部の領域を除いて、ドイツに権力基盤を持つ神聖ローマ帝国の支配権に組み込まれることとなった。とはいえ、皇帝となったドイツ国王が、その名のごとく「ローマ」を含むイタリア王国を実効支配することは難しく、そのため北・中部イタリアでは、都市が広範な自治権を獲得する下地が形成されることとなったのである。11世紀になると、ベネチアやジェノヴァ、ピサといった開港都市が、より活発な商業活動を展開し、さらには十字軍運動と結びついて地中海への進出を加速するようになる。ベルギーの歴史家ピレンヌが「商業の復活」と呼んだ、この地中海商業の隆盛は、海港都市のみならず、やがてミラノやヴェローナ、さらにはフィレンツェのような主要な交通路に面した内陸都市をも発展させ、その人口が急速に増大した。こうして類まれな繁栄を享受するようになったイタリアの都市では、活発な経済活動の担い手である大商人層を中心に市民共同体、すなわちとしコムーネが形成され、次第に都市の実験を握るようになっていくのである。しかも、もともと農村部に居住していた封建領主層が、都市に移住してコムーネに参加するとともに、市民の中にも農村の土地を入手して小作に出す者も現れた。こうして、都市とその周囲に広がる農村地域は緊密な利害関係で結ばれることとなる。そもそもイタリア史では、都市周辺の農村地域を、カロリング期の伯管区(コミタートゥス)に由来するコンタードという用語で呼ぶが、これは周りの農村を包含したローマ末期の都市行政管区を継承する概念であることから、農村部もまた都市に固有の支配領域として組み込まれることとなった。一般に封建的な農村社会の「海」に浮かんだ「島」にたとえられる「点」としての存在であったアルプス以北の都市に比して、北・中部イタリアでは一定の「面」を支配する領域的な都市国家が形成されていくのである。 (5)さrに、高度な自治権を有し、領域支配を打ち立てたこれらの都市は、支配権の拡大をめぐって、互いに対立や構想を繰り返し、経済力や軍事力に勝る大都市が近隣の中小都市を次第に服属させていった。しかしながら、このような大都市は、イタリア王国量の実質的な支配をもくろむ神聖ローマ皇帝のイタリア政策には団結して対抗した。こうした動きの中で形成されたのがロンバルディア都市同盟である。この同盟は、1176年のレニャーノの戦いにおいて皇帝フリードリヒ1世の軍隊を打ち破り、1183年に結ばれたコンスタンツの和訳によって各都市の事実上の主権が認められた。またこれを契機として、同盟に参加しなかった都市もそれを獲得することとなった。こうしてきた・中部イタリアでは、ほぼ完全な独立を達成した都市国家による割拠状態が現出した。さらに14世紀になると、フィレンツェやミラノといった有力都市国家による中小都市の支配が進み、少し遅れて海上帝国として名高いベネチアもまた、ヴェネト地方からポー川流域などへと陸上領土を拡張していくのである。(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)