2009年4月2日木曜日

ボローニャとローマ法・教会法

大学の誕生と都市 1.法学研究の繁栄(109) 中世前期に、他のヨーロッパ諸国において文字が読め学識があるといえば聖職者と考えられていたのに比べると、イタリアの都市には文字が読める俗人がいたことが知られている。……ヨーロッパ文化において大きな意味を持ったのが、ボローニャにおける法学研究の発展と、大学の誕生である。中世法学研究の始まり(110) ボローニャにおける法学研究の祖とされるのは、イルネリウスである。裁判官、法律顧問であり、教師としても活躍したといわれる要る練りうすは、当時イタリアにおいて慣習法化していた『テオドシウス法典」に基づくローマ法ではなく、このころボローニャにもたらされた『ユスティニアヌス法典』の写本に基づいて、初めてローマ法全体の注釈を行ったといわれる。イルネリウスから13世紀半ばまでの法学者は、……注釈学者と呼ばれる。 イルネリウスがボローニャに教場を開いた11世紀末当時のボローニャは、特に大きな都市ではなかった。しかしボローニャが、高い文化を誇るビザンツ帝国への窓となっていたラヴェンナを中心とするろ間ーにゃ地方、北イタリアにおける神聖ローマ皇帝の支配の中心地域、さらにこの時期にはローマ教皇の強力な支持勢力であったトスカーナ辺境伯領などさまざまな諸勢力の境界領域にあって、比較的自由な場であったことが、この町の発展につながった。近隣の諸都市のみならずアルプスの北から、あるいは遠く南イタリアのシチリア王国から、多くの学徒がこの町を目指したことは、学徒ボローニャを通る諸街道、とりわけボローニャからフィレンツェをつなぐ街道の重要性を増すことにもつながった。ボローニャがコムーネとして認知されるのが1116年、ないし1123年であることは、この都市が学問の場として発展したことを物語る。法学研究発展の背景イタリアにおいて法学研究が発展した背景には、イタリアの都市学校の存在がある。都市行政、商業の発展とともに、ニーズの高まりから都市学校が発展を見せる。初等教育は……文書用語としてのラテン語である。読み書きを学ぶものは、外国語を学ぶように言葉を学ぶことになる。また、筆記用具が効果で整っていなかった時代において、各琴を学べるのは、限られた人々(111)であった。アルプス以北の場合、このような条件を満たしていたのは11,12世紀段階ではまず聖職者であり、学びの場も司教座付属学校や修道院であったのに対して、イタリアでは俗人が学ぶ世俗の学校が存在した。イルネリウス自身が教養諸学の教師だったとも言われるように、学識者がその専門性を生かして活動できる場があったという点においても、また法学のようなより高度な学問を修めるのに十分な能力を養う場が俗人にも広く開かれていたという点からも、都市における学校の存在は注目できる。 特にボローニャは文書作成法が発達したことで知られる。12世紀ノアダルベルトゥス・サマリタヌス以来、イタリアにおける文書作成法を学べる中心となり、ボローニャ字体と呼ばれる字体が作られた。…… ローマ法研究の推移 12世紀のボローニャは、イルネリウスの弟子たち、いわゆる「四博士」(マルティぬス、ブルガルス、フーゴ、ヤコブス)がイルネリウスに続いて法学研究を推し進め、イタリアのみならず、ヨーロッパ中からボローニャへ学生が集まるようになった。彼らが皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)の法律顧問を務め、普遍的権威としての皇帝権を意識してロンカリア立法において活躍したことも、その威信を高めた。 次の世代を代表するのが、アッツォーである。彼が原典の順序に従って総括的の論じた『大全Summa Codicis et Institutionum』は、法学注釈の集成として位置づけられる。彼の同時代の法学者にはヴァッ(112)カリウス、プラケンティウス、ピッルスのように、ボローニャを離れて法学を講じる著名な法学者も出てきた。 13世紀前半に活躍するアックルシウスは、法条の順序に従って注釈を入れる『標準注釈Apparatu」を最終的に完成させたといわれ、以後ローマ法の注釈といえば、アックルシウスのものを指すとされる。 なお、このような法学者の具体的なあり方は、アックルシウスに続くオドフレドゥスの膨大な講義録から明らかにされている。このオドフレドゥス、あるいはボローニャにおいてはじめて都市コムーネによって給料が支払われたディヌス・ムジェラヌスからは、法条を解釈するだけでなく、それを現実の問題に反映させようとする注解学派の時代に入る。中世後期の法学者は、広範な実務鑑定および助言を行うことによって、社会において重きを成すようになる。その活動は、キヌス・デ・ピストイアを経て、14世紀のバルトルス・デ・サッソフェラート、バルドゥス・デ・ウバルディスで頂点に達するといわれる。バルトルスは、都市条例を特別法として優先させる一方で、ローマ法に普通法としての効力を認めた。  教会法研究 教会の体制が整えられていく過程で、信仰上の教義や宗教的な規範について、さまざまな公会議で決議がなされたり、教皇によって教書が出されたりした。このような規範はカノンと呼ばれ、カノン法、すなわち教会法については何度か編纂がなされていたが、1140年ごろボローニャのサン・フェリーチェ修道院のグラティアヌスが書いた『教会法の矛盾の調和(通称グラティアヌス教令集Decretum)』によって、ローマ法研究方法を取り入れる形で体系化がなされた。この教令集は、もともとは法学教育の手引書とでもいうべきもので、公会議決議、教皇令、教父文書など法源となるもの約4千を選別集約(113)して、スコラ学的弁証法を用いることによって、その法源の間の矛盾を調整しようとしたものである。おりしも教皇の至上権主張の中で、教会にかかわるすべての問題について教皇庁への上訴が増加していた。したがって、教会でも教会法を体系化すること、法律に明るい専門家が必要とした。そのニーズにこたえる形で、教会法研究は神学から分かれて成立していくことになったのである。……法学校では、ローマ法のみならず教会法が講じられるようになり、中世後期において、普遍的な意味を持つ普通法としてこの二つの法を修めた両法博士の姿も見られるようになった。 なお、ローマ法がモデルとすべき完成されたほうであるのに対し、教会法の場合は『教令集』以降も境界によって決定されたものを付け加える必要がある。グラティアヌス以降教会立法の中心となったのは教皇令で、特に教皇グレゴリウス9世によってまとめられた『グレゴリウス9世教皇令集』(1234)は、公式教会法典として重要である。その後も幾度か教皇令が編纂され、16世紀にまとめて『教会法大全』として刊行されることになる。 ボローニャを筆頭とするイタリアの大学は、ローマ法にせよ教会法にせよ、このような法学研究を中心としてきた。(113)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)