2009年4月2日木曜日

ボローニャと大学組織

大学の誕生12世紀の諸学校(114)1158年、皇帝フリードリヒ1世は、ハビタAutentica Habitaと呼ばれる特許状を発して、外国から勉強しに来た学徒が、自分たちの選択に従って自分たちの教師の裁判権、あるいは司教の裁判権に従うように命じた。これは、学徒がボローニャの都市裁判権によって裁かれるわけではないこと、さらい同郷人がなした犯罪や債務を連帯責任で償わねばならないという慣行に従わなくてもよいことを認めたものである。このような命令が出た背景には、グェルフィとギベッリーニの激しい争いの中にあって、外来の学生、とりわけ神聖ローマ帝国からの学生が不安定な状況に置かれていたこと、外来の学生が暴力行為や、家賃をめぐる問題を引き起こしていたことがある。 12世紀の学校は教師が教場を開き、そこに学生が集まるという私学校の形をとった。学生は教師を師Dominusと呼び、教師は学生を仲間sociiと位置づけ、それがひとつの学問集団としてのソキエタスとされていたので、ハビタに学生が自分の教師の裁判権を選択する可能性を設定していたこともうなずける。…… 外来の学生の多くがボローニャに住むようになっていたことは間違いない。1170年代から法外に高い家賃などさまざまな問題があって、教師と学生がモデナやレッジョ、ピアチェンツァ、ヴィチェンツァ、アレッツォなど(115)に集団で移住する事例が見られるようになる。学徒たちのこのような抵抗に対して、教皇アレクサンデル3世が教会の教育権を主張して以来、教皇は次第に積極的に支援をするようになり、1176,1182年には教皇特使が下宿代を高く設定することを禁止し、1185年には教皇ルキウス3世がボローニャ司教に教師・学生間の訴訟の裁判権を確認した。 学生の集団と大学の誕生 異国の都市において、さらにさまざまな形で問題が生じてくると、外来の学生たちは普遍的な権威に頼るだけでなく教師の教場の枠を超えて団結する必要性を感じて、同様人の集まりを形成していく。外来の学生が形成した同郷集団は組織化され、比較的小さな地域集団ナティオと、それをまとめる大きな学生団ウニヴェルシタスが形成される。大きな学生団にはアルプス以南大学生団とアルプス以北大学生団があり、イタリア各地からやってくる学生は前者に属し、さらに南部イタリア、中部イタリア、北部イタリア、(116)の地域集団に属した。このウニヴェルシタスは、13世紀半ばにはボローニャ市からも教皇からも公認され、大学団の長である学頭のもと、学則を制定し、組織として体制を整備した。そのためボローニャ大学は、学生主体の大学ユニヴァーシティとして誕生したといわれる。ボローニャの場合圧倒的に法学研究が中心であったため、この学生団においても法学を学ぶ学生が中心であったが、13世紀半ばには、公証術なども学ぶことができる教養諸学や13世紀半ばのタッデオ・アルデロッティによって教育体制が整えられた医学の学生集団も組織化され、法学部と教養・医学部の体制をとることになる……。 このようにウニヴェルシタスは、本来が以来の学生の集団であり、教師と学生を含む教育の場を示す名辞ではなかった。……大学団の学則がいつごろ定められたのかははっきりしない。1252年末、教皇インノケンティウス4世は学生団の学則を承認したが、その学則は断片的にしか残っていない。現在刊行されている学則は14世紀のものだが、この学則では授業形態、授業時間などをこと細かく規定するなど、教師を厳しく拘束しており、しばしば学生に隷属した教師というイメージが語られる。……教師には、……学生が学業を修めたことを認める学位、あるいは学業を教える「教授免許」を与える権利があった。 大学の組織化(117) 法学教師たちは、制度化が進む以前には自分の下で学んだ学生が学業を修めたことを認定し、法学博士の学位を与えた。この学位を得ることによって、法学を教える資格を得たことになる。恐らくはじめは個々の教師が独自に学位を与えていたが「教授資格」授与は、法学者にとって仲間に加わることを認める意味を持ち、一定のレベルを保証するためにも、やがて法学教師は合議の上で学位認定、「教授資格」授与を行うようになった。この合議の場が、法学者の集団としてのコレギウムに発展したと考えられている。なお、法学者による自立的な学位認定体制に対しても教皇が介入している。1219年、ホノリウス3世は、ボローニャ司教座の大助祭に「教授資格」を授与する権限を認めたのである。 ……時代が下って制度的に整備されると、メンバーの人数、資格も厳格に規定され、このコレギウムの規定にのっとって「教授資格」が授与された。 このように学生たちのウニヴェルシタスも教師のコレギウムも、教師と学生をともに含む教育の場を示す名辞ではなかった。13世紀当時、教育の場を示す名辞は、ストゥディウムであり、より普遍性をもつ教育の場はストゥディウム・ゲネラーレと呼ばれた。いわば、ストゥディウム・ゲネラーレは12世紀に名声を博し、諸権力によって認知されてきた諸学校が組織化され、総体として承認されたものといえよう。…… いずれにせよ、13世紀がボローニャ大学の組織化の時代であった。その過程では相変わらず、ボローニャ(118)市民とのいさかいは絶えなかったし、ボローニャからの教師・学生集団の移動はなおも見られた。その中でもっとも有名なのがパドヴァ大学の誕生である。パドヴァ大学は1222年にボローニャから教師・学生集団が移動してきて成立したが、その後1228年に一部の学生は、より有利な条件を提示したヴェルチェッリに移動したため、いったんは衰退する。しかし1260年、再度ボローニャからの集団移動があり、再興されることになる教皇は、ボローニャを教皇領の一部と主張していたこともあり、しばしばボローニャに対して聖務停止令を出し一方で、学生に集団移動を進め、大学の移動を正当化した。そのため13世紀半ばには幾度もボローニャからの集団移動の記録がある。このような集団移動は、大学全体が移動するという性格のものでなく、一部の教師・学生集団が移動するものであったが、それでも移動した集団はボローニャ型の学則を各地にもたらし、ボローニャが他の大学制度を広げる役割を果たすことになる。万国教授資格[ナポリやトゥールーズなどの]後発の大学の場合、ボローニャやパリのようにストゥディウム・ゲネラーレとしての名声を持たなかったため、そのままでは「教授資格」も地方の枠でしか通用せず、どこにいっても通用する「教授資格」とはいえない。そこで、ナポリ大学やトゥールーズ大学は、どこでも通用する「万国教授資格」を授与するストゥディウム・ゲネラーレであることを自称した。教皇設立の大学の場合ストゥディウム・ゲネラーレであれば、一定期間聖職禄を持ったまま任地を離れて勉学できるとされたこともあり、ストゥディウム・ゲネラーレであることは学生を集めるという点でも有利であった。そのため13世紀後半以降は、皇帝ないし教皇による創立特許状を得て万国教授資格」を授与するストゥディウム・ゲネラーレと呼びうる大学の設立が相次いだ。 そうなると、パリやボローニャのような権威ある大学もまた「万国教授資格」が授与できる権限を持つことを求めざるを得ないことになった。本来権威ある大学で「教授資格」が認められていればどこでも教えられるはず(119)だが、後発の大学が格上げを図るために授与する権利を求めた「万国教授資格」が一般化すると、単なる「教授資格」ではなく「万国教授資格」と呼ばれる資格を授与しなければ、実際にどこでも教えるというわけに行かなくなったのである。 1291年、教皇ニコラウス4世は、ボローニャ大学に「万国教授資格」授与の権限を与えた。パリ大学も1292年に「万国教授資格」授与件を認められており、いわば13世紀末になって、大学という組織は、国際的にひとつの基準で位置づけられるものとなったのである。(120)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)