2009年4月2日木曜日

学都ボローニャ

学都ボローニャタウンとガウン(120) 13世紀において、ボローニャの人口は5,6万とされるが、学生は2千人ほどいたとされ、この町にとって大きな存在となっていた。一方で騒乱の種でもあったが、法学校の存在は、この町に学都としての名声と多くの経済効果をもたらしたので、都市政府は法学校がずっとボローニャで存続するように働きかけた。…… また都市政府は、大学の形成過程においては学生たちが学頭の元で団結するのを阻止しようとしてきたが、時代が下ると、大学関係者のために好条件を整えるようになった。教師や学生は、ボローニャニ住みつつも免税(121)特権を持ち、兵役の義務は免除され、優先的に食料が供給されること、適正な家賃で生活できることを保障された。都市政府は、授業が正常に行われることに配慮し、しないで騒乱があった場合には損害を賠償し、市民並みの権利を外国人学生にも認めるなど、教師や学生が他の都市に移らないように苦慮した。それに対して、他の都市側も、教師・学生団が都市の威信を高め、経済的に潤い、人材育成にもプラスになるということで、さらに好条件を提示した。 より著名な教師がいれば、その元で勉強したいという学生が集まるため、都市が俸給を用意して、教師を招聘する事例も出てくる。そのためよりよい条件を求めて、あるいはしないで頻発する騒乱を避けて、教師・学生の移動が見られた。ボローニャですら、このような招聘競争の中で、1279年い著名な法学者グイード・ダ・スザーラを300リブラの年棒で持って招聘した。都市が教師に俸給を出すことは、都市政府が直接に大学の問題に介入するきっかけともなった。 大学が他の都市に移動したり設立されたりするようになると、本家ボローニャがいかに法学研究にふさわしいかということが喧伝された。……(122)法学校が林立したボローニャは、テキスト入手という点においても他の都市に比べて有利であった。ボローニャでは多くの職人が皮革業に携わっており、羊皮紙作成の技術、材料の面で恵まれていた。12世紀においてすでに書籍売買の記録があり、1155年、ボローニャの教師、学生の代表が皇帝フリードリヒ1世に会見したときにも、「ここに住むのは、役立つものがいっぱいあった、書籍を読むのに適しているからです」と明言している。都市政府も、書籍入手が容易であるという利点を認識しており、関係者が書物を市外に持ち出すことをしばしば禁じた。 とはいえ、書籍は効果であった。書籍は手書きで作成され、完成までには時間がかかった。盗難の危険も大きかったので、書籍売買はきちんと契約を交わして行われるべきものであり、ボローニャ市では1265年に都市政府の記録に不動産などと並んで書籍売買の記録を残すように決めた。この記録によれば、大学の学則によって決められている価格で『学説旧彙集』1冊を購入するだけの資金があれば、市内の家一軒が購入できるほどであった。貴族が購入した豪華本となると、その価格は2倍3倍となった。 金に余裕が無い学生にとって、当初はテキストを借りられる場がほとんど無かったことは問題だった。そのため高価な書籍をそのまま入手できないもののためには要約本も作られたが、もちろん十分とはいえなかった。もっと役に立ったのはきちんと書かれた範本exemplaを分冊にして貸し出すペキアのシステムであり、大部のテキストを少しずつ筆写するのに便利であった。……いわゆる『ローマ法大全』『教会法大全』、それぞれを解釈する際の標準注釈書となっている著作を初めとして、入門書、実用本などさまざまな種類に及ぶ法学の書籍は、法学に関係するものにとって必要不可欠の「道具」であり、学識者の蔵書の中心をなしていた。中世後期に君主が豪華な蔵書を誇示するようになるのを別とすれば、学識者は教会人と並んで個人的な蔵書を持つ最大の顧客グループであった。 なお中世を通じて写本に最もよく用いられたのは羊皮紙ないし牛皮紙であるが、この素材自体効果であったため、13世紀末以降イタリア各地で製糸業が発展すると、大学関係者も比較的安価な紙を利用することになる。やがて、印刷業が軌道に乗ると、正確な校訂版テキストの刊行も進むことになる。その意味で、組織体としてあるべき教えを伝える必要がある教会に加えて、学生、大学の教師、法学者はまさしく書籍産業の発展に寄与した。 また、ボローニャの市内各所に教場があり、大学はいわゆるキャンパスと呼びうるものを持たなかったし、長らく大学の本部といえる場所も無かった。教師たちは[教会]などを使ったり、共同して教場を借りたりして授業を行った。大学の本部らしい建物を持つのは、16世紀半ばになってアルキジンナジオと呼ばれる建物が建てられてからであり、ボローニャ大学が格段に高い名声を誇った時代、ボローニャはまさしく学問の都市であった。そしてその名声は、イタリア都市の文字文化の高さに支えられたものであった。 法学関係者のステイタス(124) ボローニャが他の大学は、何よりも俗人による法学教育に意味がある。なぜならば、アルプス以北では知識人の中心は聖職者であり、学問と教会が強い結びつきを示していたからである。学問の中心は神学であった。1179年代3回ラテラノ公会議において教皇アレクサンデル3世は、神ののものである知識を金銭で売買することは望ましくないとして、教育者には聖職禄を与え、「教授資格」の見返りに金銭を受け取ることを禁止した。しかしボローニャが他の大学が広がったイタリアでは、法学者は自ら教場を持ち、学生からは授業料を取り、時に必要な書籍の売買、必要な費用の貸与も行っていた。法学者の中には高利貸として非難されるものもいたほどである。中世後期になるとアルプス以北においても世俗の学識者が増加するが、それでもなお、イタリアほど多くの俗人が、都市の中で教育の中心的担い手として活動したわけではなかった。アレクサンデル3世は聖職者がローマ法と医学を学ぶことも禁止したが、このような実社会につながる専門的教育、とりわけ法学教育こそ、都市条例を制定し、裁判権を行使するイタリアの都市社会で評価された。また、都市自治があまり発達しなかったところでも、イタリアではローマ法の伝統は強く当地に意識されており、法学者のニーズは高かったのである。 法学者自身、通常ローマ法の中では法律家と騎士が等値されているので、法律家であることはすなわち貴族であると主張した。アックルシウスは「法学者に特権を与えるのは、法学者が偉大なものに数えられるのにふさわしいからである」「法学教授は、他の教師よりも偉大である」と語り、「高貴な人にして、第一級市民」に位置(125)付けられる法学者は、1288年ボローニャの条例において「貴族の特権たる緋衣を着て埋葬されることができる」とされた。 法学は名誉だけでなく、富ももたらした。当時、文字通り「法は金を与える」という格言があったという。……当時さまざまな紛争が調停の対象となったのであり、……法学者の場合、裁判官、諮問官を務める以外に、授業を行い、学業関係のさまざまな事業に手を出しており、うまくいけばアックルシウスのように富を蓄えることもあったであろう。 法学者はさらに権力と結びつく。法学者は時に自らポデスタとして招かれたり、イタリアのみならず、アルプス以北の王侯に招かれて助言を与えたりしたので、「法学者なくして、君主も指導者も存在し得ない」といわれたほどであった。俗人であり妻子を持つことができた法学者は、しばしばその地位を世襲化したといわれる。……法学者の地位の継承はそれほど容易ではなかったし、法学者になれば誰でも高いステイタスを期待できたともいえない。法学者は他の法学者との競争を強いられ、教場を維持することはかなり難しかった。……(126)大学生団の要求、また時に数千人に及ぶ追放もありうる激しい都市内の政争の中、人気教師でも自分の地位を子孫に引き継がせるのは難しかった。さらに言えば、法学者の一族は、法学者としてではなく、都市貴族として支配者の一角に食い込もうとしていくので、代々法学者の家計という家はほとんど見られない。あえて言えば、たいした家の出でなくても著名な法学者が出ることによってステイタスをあげ、都市貴族に名を連ねることができたといえよう。中世後期の大学と社会(126)13世紀が大学を生み出した時代とすれば、14,15世紀は大学組織が定着した時代である。14世紀は、大学そのものの数も増えた。……大学の数の増加は、学生数の増加につながる。大学で学んだ経験を持つものが数多く社会に進出すると、社会において影響力を持つようになった。ボローニャが他大学で最も重要な法学の研究が社会での実践を目指す形に(127)なっていたことも、その重要性を高めることに役立った。  実際のところ、学生は必ずしも学位や「教授資格」を取得したわけではない。13世紀には裁判官などの職に就くためには大学で5年間学んでいれば十分であり、学位も必要なければ、公証人の場合のような資格試験も無かった。……さらに一般に言えば、必要な限りの知識さえあればよかった。……確かに大学は、硬直化したカリキュラムと学問用語としてのラテン語を使い続け、長い勉学の期間と金がかかる場であり、学問を目指すものを行き粗相させる面があったことも否定できない。学者になるというわけではないが知識を生かしていこうとするものにとって、勉学経験を共有することは重要であった。とりわけ中世後期は学寮の発達の時代であった。オクスフォード大学やケンブリッジ大学が今もカレッジの体制を維持しているように、あるいはパリ大学文学部がもともとは一学寮に過ぎないソルボンヌに結び付けられるように、大学制度(128)の発達に学寮は欠くことができない。そもそも大学制度が確立する以前から、学資に余裕が無い学生が共同して下宿することはよくあったし、教師の家に学生がいる例もあった。外来の学生が勉強に専念できる場所の確保は重要な課題であった。バルドゥスの助言にも見られるように、学生たちは宿舎と教室をかねた学寮に寄宿し、若手が舎監の役割を似ない、授業を行ったこともあった。……このような学寮で生活をともにした学生たちにとって、多くの貴族仮名を連ねる大学において、ともに学び遊ぶ学生生活を共有することは特権階級へのアプローチとして有効であった。…… 一方、14,15世紀には別のタイプの特権的な学問の場が形成される。イタリアの大学が修辞学的な面を発展させなかったのに対して、古代をよみがえらせようとするルネサンスの動きは人文主義的な教育の場を求めた。マントヴァのヴィットリーノ・ダ・フェルトレなどの人文主義者たちは、古代人のラテン語を完璧に習得した上で、心身を鍛え人格形成に努める寄宿学校を設立した。……このような大学外の学問の場を作ろうとする動きは、やがて人文主義者が集まるアカデミア、さらに新しい科学や美術などの目的を持つアカデミアという文化サークルにつながることになる。(128)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)