2009年4月2日木曜日
人口動態と世帯の規模
人口動態と世帯の規模(130) 中世ヨーロッパの人工は、ゲルマン民族の移動期から6世紀末までは、戦いや飢饉、疫病などのために減少傾向を示し、その後も減少、あるいは停滞の傾向にあった。だが、9世紀以降増加傾向に転じ、11世紀以降になると、開墾と農機具の改良による食料の改善によって、人口は飛躍的に増加していった。14世紀初頭のヨーロッパにおいて10万人以上の人口を誇っていた都市の内、パリ以外がすべてイタリアに属していることからもわかるように、この時代のイタリア、ヨーロッパの中でも特に都市化が進んだ地域だったのである。ところが……ペストが1347年にイタリア半島を遅い、その後も1630年にいたるまで、約十年に一度の頻度で各地を襲った。そのため都市によっては短期間に人口が激減したところもあり、各地の人口回復も妨げられていたが、15世紀半ば以降になると、人口は徐々に回復していった。…… この時代のイタリアの世帯の規模は……1427年の時点でフィレンツェ共和国内に居住していた約26万人と、彼らが属していた約6万世帯の申告を収録した……調査研究によると、同年のフィレンツェ市における世帯の規模の平均は3.8人であり、同士の全世帯の約60%は、夫婦とその子供からなる単純世帯であった。…… 家を支える諸制度(132) 中世後期のイタリアには、家族に関する一枚岩的な法的枠組みは存在せず、それぞれの地域ごとに独自の法体系や法的慣行があった。11世紀以降自治を発展させ、都市国家となっていく北・中部イタリアの多くの諸都市では、法学者が招かれ、民事・刑事の多岐に渡ると市条例が作成された。一方、都市条例を持たない地域では、ローマ法を起源とする慣習法にのっとって、係争や訴訟などが解決されていた。ベネチアを除く北・中部イタリアと、南イタリアの一部、シチリア島、サルデーニャ島などの地域では、このローマ法に由来する慣習法が法源となっている。 ゲルマン民族の移動の後、イタリア社会に比較的大きな影響を残したのはランゴバルド族であった。6世紀から8世紀までイタリアの各地を支配したランゴバルドの諸王が公布したランゴバルド法の影響力は、中世後期には慣習法や都市条例がより大きな法的効力を持つようになったので小さくなっていったが、男系親族を重んじる(133)ランゴバルド法の要素は、イタリア各地の相続慣行に浸透していた。フィレンツェは、イタリア諸都市の中でも、とりわけ父系制と男系親族を重視する傾向があった都市である。一方、ベネチアやジェノバ、ピサなどの海港都市では、このような傾向は比較的弱く、既婚女性や寡婦にも遺言書の作成などをめぐって一定の自由が認められていたが、不動産の相続人となりうるのは、あくまで男子のみであった。 さらに教会の法として生まれ、聖職者にとっての規定だけでなく、結婚など一般の人々の日常生活にも影響を及ぼしたものが、教会法であった。教会法の一部が、慣習法の中に溶け込んで行った地域もある。 以上のような法的枠組みを基盤として、中世後期のイタリア諸都市では、公証人が商業取引から相続、結婚にいたるさまざまな契約文書を作成していた。公証人が起草したこのような契約文書や、商人や上層市民が書き残した「覚書」は、法とは別に、当時の社会における家族のあるべき姿や実態を今日のわれわれに伝える貴重な歴史資料となっている。 父権 父権patria,potestasとは、自分の子供(とりわけ息子)と直系の男系子孫に対して家父長が行使する絶対的・恒久的な権限であり、中世後期のイタリアの家族をめぐる諸制度の中で最も重要なものであった。家父長は家の中の最長老の男性で、法的に自立した存在であった。結婚した息子はもちろん、結婚した娘も、原則としては、生家の父親が死ぬか、父権から解放されない限り、父親の権限下にあった。正式な結婚から生まれた子供は、父親の法的・社会的地位を受け継いだが、当時の出生数全体の約5%弱に相当したと推定される婚外子は、母親の法的・社会的地位を受け継いだ。神聖ローマ皇帝か都市の評議会(134)の承認を得て、婚外子が嫡出子として認められるならば、その子供には父権が発生することになったが、婚外子が嫡出子として認められることは実際には非常にまれだった。もっとまれだったのは、婚外子を産んだ女性が出産後、子供の父親と正式に結婚し、婚外子が嫡出子になることだった。また古代ローマ時代に多く存在した養子縁組は、血のつながりが重視されるようになる12世紀以降のイタリアでは、ほとんど見られない。 父権下にある子供の財産権は制限されていた。彼らが第三者と結ぶ契約は、家父長の同意が無ければ無効であったし、彼らが遺言書を作成することも禁じられていた。一方、家父長は、子供たちが母親や親族、その他の人々から受け取った贈与や遺産を管理する怪訝を持っていた。息子が自分自身の労働によって得た金品などの利益は息子自身のものとみなされたが、こうしら利益の分配者が父親であるならば、父親は息子に与えられる利益の半分を自らの権利下におくことができた。父権下にある息子が父権に拘束されない唯一の例外は都市の公職への就任で、公職が定める年齢を超えていれば、息子は父親の同意なしに公職に就任することができ、公職についた息子は父親と同様に市民とみなされた。 父権は父親の死によって消滅したが、子供が18歳前後になると行われた「父権解放」によっても、子供は父権から解放され、息子であれば、父から自立した法的能力を社会的に承認された。父権解放は成人式のような儀式ではなく、公証人が作成する文書によってなされていた。だが、父権解放は子供が父親から自由になることを意味したわけではなく、父親は、仕事から引退するときや、息子に財産を委譲することによって債権者から財産を守ろうとしたり、また息子が背負った夫妻や義務の責任を取ったりしたくないといった理由から、息子を父権から解放した。一方、娘にも父権解放を行うことができた。当時の女性には法的能力が認められていなかったので、父権解放の意味は、息子の場合ほど大きくは無かった。さらに修道院に入る子供は父権から解放され、子供が修道院に入る前に所有していた、あるいはその後も(135)所有することになる動産や賃貸料を管理するのは、父親ではなく修道院であった。だが、このような法的立場とは別に、息子が父親の商社に属してはいるが、父親から離れた場所で仕事をしているといった場合には、息子は父親の同意を待たずに自分の判断で業務をこなす必要があった。…… 家父長は尺出で未成年の自分の子供をすべて扶養し、教育することが義務であるとされていた。家父長が死ぬと、すでに父権から解放されていた子供もそうでない子供も「遺留分」legitimaと呼ばれる父の不動産の分与を受けることが保証されていた。子供は父親を敬い、父親の要求に従い、必要な場合には、両親に食物や衣類、住居、医療を提供することが期待されていた。婚外子は法的には父親の家の成員ではなったが、法的慣行に従うならば、彼らもまた父親の扶養を受けることができた。……一般にイタリアにおける父権は、チェーザレ・ベッカリーアが成年に達した子供に対する父権の行使は不合理で共和主義的な自由の理念に反すると主張する18世紀まで、家族の結束の主柱として疑問視されること無く固辞されたのである。相続と嫁資(135) 相続に関しては、中世イタリアの慣習法では分割相続制が原則とされた。分割相続制は、年齢、性別、能力(136)にかかわらずあらゆる嫡出の子供が、父の財産を均等に受け継ぐことを意味した。しかし、一般には娘は相続から排除され、息子たちの間でのみ分割相続が行われていた。娘を相続から排除する理由として、当時の法学者たちは、家の尊属は第一に息子たち、序男系の親族によって担われており、結婚し他家に移ってしまう娘は、家の存続には関与しないからであると主張していた。このような状況から、一般に親、特に父親は娘よりも息子を愛し、自分の死後も、息子を通して自分が行き続けるものと信じていた。…… だが当時の社会的慣行では、財産相続から除外される代わりに、娘には結婚時に、父親の富と社会的地位にふさわしい嫁資が与えられることになっていた。父親がいない場合は、父親の兄弟や母親、その他の親族が嫁資を工面する責任を負った。嫁資の授受の無い結婚は、当時の社会では、名誉ある正式の結婚とはみなされなかった。……嫁資は現金や不動産、公債、衣類などからなり、娘の結婚後は、夫か、夫がまだ父権から解放されていない場合は、夫の父親が嫁資を管理することになった。法の上では、夫や彼の父親は注意と配慮を持って嫁資の管理に当たることが義務付けられていて、夫婦の世帯を支えるために、嫁資をリスクの無い当市に活用し、そこから利益を得ることが期待された。そして、夫が早世した場合、妻は男性の代理人を立てて、夫の親族に嫁資の返還要求を行うことができた。 嫁資の額は結婚の手続きの初期の段階で取り決められ、花嫁が夫の家に移動し、結婚が完了したときに、夫やその父親に支払われた。嫁資が完全に支払われない場合、法的には、夫は妻と(137)生活を共にすることを拒否することができた。嫁資を予定の期日に支払うことは、花婿の家に対する花嫁の家の誠意ある姿勢とみなされたので上層の家の間で時折起こりえたこのような事態への懸念は、花嫁の家への暗黙の圧力となることがありえた。 このような状況から、とりわけ15世紀以降は、結婚市場が男性に有利に働き、嫁資が高騰して行く。この状況は、娘が多い家にとっては経済的な破綻を招きかねなかった。そこで、上層市民の父親たちは娘のうち一人か二人に多目の嫁資をつけて嫁がせ、それ以外の娘を女子修道院に入れることによって、家の名誉を保とうとした。嫁資の高騰は都市政府の関心事にもなり、フィレンツェ共和国では1425年に嫁資基金が創設され、娘の誕生時に一定額をこの基金に入れると、7年半後ないし15年後に2倍以上の金額が嫁資として引き出せる仕組みになっていた。嫁資基金は娘の結婚が完了した後にのみ花婿に支払われたので、嫁資に関する娘の父親の経済的・心理的負担を、ある程度軽減したに違いない。また、貧しい娘への嫁資の支援が、個人の遺言に基づく遺贈によって、あるいは兄弟会などの組織による慈善活動の一環として、頻繁に行われていたことも、当時の重要な社会的側面であろう。 以上のような状況を見ると、嫁資は娘の財産相続に変わるものであったとはいえ、現代の我々の視点から息子と娘とを比較すると、娘のほうが社会的にも不利な立場であったことは否めない。しかし、息子が受け継ぐ遺産よりも高額の嫁資を持って娘が結婚するケースや、父親の仕事を継ぎ、結婚後も父親の家に住み続ける息子は、自分自身が働くことによって父親の財産を増やすことに貢献していたケースもあったという事実から、必ずしも常に息子が娘よりも優遇されていたわけではなかったこともまた、近年の研究から明らかにされている。(137)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)