2009年4月2日木曜日
結婚生活
結婚生活(138) 当時の社会では、現代のように恋愛結婚という形態は無く、結婚は家計と財産の存続を図るための制度であり、家父長が主として同じ身分や社会階層の中から息子や娘の結婚相手を見出していた。父親が娘に彼女の望まない結婚を強制する場合、教会法の原則としては、娘は結婚を拒否することができたが、結婚の取り決めに娘の意思が反映されることは、実際にはほとんど無かった。結婚が家と家との同盟関係としても機能していた社会の上層の人々と比較すると、中下層の人々のほうが結婚相手の選択に関して、一定の自由を享受していた様である。だが、奉公人の結婚や結婚相手は親方や雇い主によって決められる場合が多かったし、そもそも中下層民の間では、夫婦のどちらかが病死や事故などに見舞われたり、家を出てしまったりすると、家族が離散を余儀なくされることもありえた。また前節で触れたように、家父長の判断で修道院に入れられた娘も数多くいたし、手工業者や労働者の間では、独身者の割合が高かった。したがってこの時代には、聖職者や修道し、修道女をのぞくすべての人々が結婚していたわけではないのである。 教会法では、男女が結婚しうる年齢が、女性は12歳以上、男性は14歳以上と定められていた。しかし、実際の初婚年齢はこれよりも上で、1427年のフィレンツェのカタストの調査研究によると、女性は同市でも農村部でもほぼ18歳くらいであったのに対し、男性は、農村部では平均26歳、フィレンツェの上層市民では30歳くらいであった。ベネチアの貴族の間では、他の地域よりも同族結婚が多く、貴族の娘は14歳から16歳くらいで結婚した。一般に北西ヨーロッパでは10代の花嫁の割合は低く、男女ともに20台半ばに結婚(139)する傾向が見られるが、イタリアを含む南ヨーロッパでは、夫婦間の年齢の差は7歳から10歳で、フィレンツェの上層市民の間では12歳と、北西ヨーロッパのケースと比べると大きくなっているのが特徴的である。 さて、今日のキリスト教の結婚式で自明のものとなっている司祭の面前での結婚式は、イギリス、フランス、そしてアルプス以北の他の地域と、教皇のお膝元であるローマでは当時から行われていたが、中部イタリアでは司祭ではなく公証人の面前で、花嫁と花婿による結婚の近いが取り交わされていた。誰がいつ結婚するかについての告示が行われた後に、教会において司祭によって二名の商人の前で虚構される結婚式がイタリア全土に定着するのはトレント公会議(1545-63)以降のことである。 ……上層の既婚女性は家内で生活し、奉公人の監督を含む家政の管理や、家事、娘の教育などに従事し、外出するのは教会にいく時だけで、その場合も正装し、少なくとも二人の侍女か一人の男性の親族についていなければならなかった。このような品位や慎み深さといった規範に従う女性が「名誉ある女性」とされ、女性の名誉はまた、夫の名誉や家の名誉にもつながっていた。手工業者や労働者のような都市の中下層の人々の間でも、妻は家内にいるべきだ(140)という上層市民の価値観がある程度浸透していたので、このような階層の妻たちは、織布や紡績など家内でできる仕事をすることが多かった。中下層の女性は、上層の女性と比べると外出する機械が多かったが、家の外にいる女性は社会的には「名誉ある女性」とはみなされず、暴力や損害を受けても法的な保護は得られなかった。 法的には、妻は保護が必要な未成年者として扱われていた。イタリアの各地の都市条例では、妻は、夫の許可なしに、契約したり、自分の収入を自由に用いたり、財産を譲渡したり、遺言を作成したり、また埋葬場所を選んだりすることができなかった。しかし実際にはこのような法令が厳格に遵守されていたわけではなく、慣習として妻には、結婚前に持っていた、あるいは結婚後に得た、嫁資に属さない資産や物品、また家の外で受け取った賃金、賃貸料、利益などを管理し、自由に処分する一定の自由があった。妻が、夫の許可無く債券の購入、財産の譲渡や貸与、贈与や遺言の作成をしているケースは、随所に見られる。再婚しないことを条件として、夫が遺言書で妻を未成年者の子供の後見人に指名するケースもあった。特にベネチアの女性は例外的で、彼女たちは女性が契約を結んだり遺言書を作成したりするに当たって、イタリアの他の地域に存在した制約や禁止から自由であった。ベネチアでは、妻の遺言書の作成に夫が立ち会うのを禁じることによって、夫が妻に何らかの強制を課さないようにという配慮までなされていた。またベネチアだけでなく、ジェノヴァやピサのような海港都市でも、契約の取り決めや遺言書の作成などに関して、女性に一定の自由が慣習的に認められていた。このような海港都市と比較すると家父長制の伝統が強かったフィレンツェでも、1393年に創設された、父親のいない子供を貢献する役所は、夫の遺言書に明記されていれば、寡婦が、亡き夫の財産を管理し子供を養育する家父長としての責任を果たすことを認めていた。このように、近年の研究によれば、この時代のイタリアの都市社会では、妻や寡婦が必ずしも常に権利の無い状態に置かれていたわけではなく、現実の状況に応じて、法とは距離をおく柔軟な対応がなされていたことがわかる。(141)さて、当時は多産多死の社会で、結婚した女性は平均して7人から10人の子供を産んでいた。出産の間隔は、たとえばフィレンツェの上層市民の女性では1年9ヶ月、中下層の女性では2年から2年半だった。……子供の死亡率は高く、子供のうち45%が20歳までに死んでいた。またこの時代の都市では、……住み込みの乳母が雇われるか、子供が農家に里子に出されていた。ペストなどの疫病に加えて、里親による不十分な養育や、スワドリングという乳児の手足を包帯のような白布で包む習慣が、子供の死亡の主な原因になっていたのである。また子供だけでなく、7-8人に一人の女性が出産時や産後に死亡していた。(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)