2009年4月2日木曜日

住環境

住環境家屋(149)中世中期、すなわちイタリアの都市が自治権を獲得して行く時代、都市には有力家門に属する都市貴族たちの塔が林立していた。現在は中世の塔の大半が取り壊されているので、塔の町として知られるサン・ジミニャーノのように強烈な印象を与える町はあまり無いが、たとえば現在も日本の塔をシンボルとするボローニャの場合100近くに及んでいたと考えられている。中世イタリアの都市はまさしく塔の町だった。このような塔は、中世イタリアと史で頻発した対立抗争の際、一族の力を誇示する象徴とされる。この塔と小窓がきられているだけの要塞のような堅固な建物が都市貴族たちの地盤の中核をなしており、一族や近い関係にあるものがいくつかの家屋を共有しながら集住していた。 都市の自治権が認められ拡大して行く12世紀ごろ、多くの家屋は木造で、建物の基礎にも木材が使用された。潟という地盤が軟弱な場所において土台を固めねばならないベネチアの建物を地下の最深部で支えるくいにも木材が使われており、ボローニャの建物の基礎にも木材が使われていたことが知られている。ローマの事例でも知られるように、木造の家屋は移設しやすいという利点があったので、時代が下ってもなお木材は使用された。(150)時代が下ると、多くの都市では、公共建造物に続いて、一般の家屋を建設する場合にもレンガや石が使用されるようになった。都市の中心部では家屋は道なりに連なっていて、しばしば道路の上の空間を利用するために上部が張り出していた。このように張り出している上部を支えるために、回廊が作られたり、建物の強度を高める努力がなされたりした。 新しくとしにやってくる貧民にとって、都市に住むということは、劣悪な環境に我慢するということを意味した。新来者は木造の小屋か、高い建物の屋根裏部屋の1,2部屋に肩を寄せ合って住んだ。どれほど家族がいようとたいていはベッドも共有で、プライバシーはまず期待できなかった。有力者の元でもっとましな暮らしを期待できることもあったが、おそらく貧民は特定の地区に固まって住んでいた。少なくとも15世紀のフィレンツェではこのようなすみわけが進行していた。職人などの中間層は、複数の部屋からなるもう少しましな家屋に住んだ。彼らは、自分で保有している場合もあったが、有力者が所有する貸家を借りる場合もあった。このような家屋は、道路に面する間口は狭いが奥行きのある短冊形の構造を持っていた。一回はとおりに開かれた店舗や作業スペースと、中庭、裏庭に続く通路と共同の収納スペースになっており、二階以上が居住スペースにあてられていた。…… 最上層の都市民の家屋は、要塞のような建造物から、空間がきっちり確保され、生活の場として意識されるような館に変わって行くことになる。地域によってかなり差があるが、外壁に美装が施され、玄関などに大理石が使用されたり、アーチが作られたりして、外観の美しさが意識されるようになる。さらに14世紀後半から15世紀になると、既存の館は、増築、改築されたり、近隣の建物と一体化したりすることで、より大きく、より豪華な建物に変わって行く。……(151) 15世紀半ば以降フィレンツェで建設された建物は、伝統的な館とは異なる性格を持つようになる。メディチ家やルチェライ家が立てた独立した壮麗な大建造物は、大きな中庭を持ち、美装された壁と玄関と窓があるのみで、店舗が通りに向かって開かれることは無い。同じパラッツォでも宮殿と呼ぶのにふさわしい印象を与える。最も新しいタイプのパラッツォは、必ずしも部屋数が多いわけではなく、外見を優先したために居住性が急速に向上したわけでもない。実際のところ、古代の劇場や闘技場が手を入れられて家屋として利用されたローマのような事例は特殊だとしても、都市寄贈が住む建物は、古い時代に立てられたものと新しく建てられた建物が混在し、複合的建造物になっている事例も多かった。そして、建物の構造全体にもここの部屋にも次第に手が加えられて、さまざまな家具が置かれ、より住みやすいものにされて行ったのである。 居住性 部屋は、居間と寝室があるのが基本であった。とはいえ、この二つの使い分けは必ずしも明確ではなく、時にはベッドで客のもてなしを行うこともある一方、居間で寝る例もあった。上層市民の家では、前述のように多くの部屋があり、さらにニーズに応じて収納のためのスペースや書斎など一定の目的のための部屋も付け加えられるようになった。……(152)炉は壁際に移された。まずは壁に穴を開けて、後には煙突をつけて排煙をした。……もうひとつの課題は、水の入手である。大きな家屋なら専用井戸があり、共同して使用可能な井戸もあったが、多くの場合水を汲みにいく必要があった。特に川の無いところでは、都市政府も、市民が使える運河、泉などの水汲み場を整備した。それでも水を運ぶのはかなりの重労働であり、洗い物をするならむしろ洗うべきものを水作業の場に運び、人々が肩を並べて行うほうが普通であった。屋根裏の台所を使うことが重労働であったことは言うまでも無い。……資産に余裕が出てくると「物」が増えてくる。当時の財産目録や遺言書を見れば、さまざまな意匠を凝らした服はもちろんのこと、シーツやタオル、鍋や調理器具、裁縫道具なども言及すべき「財産」であったことが伺える。壊れた陶器でさえ、まだ使えるものなら、財産目録に登場する。上層市民の家にはこのほか宝飾品、書籍、楽器やゲーム類、調度品、芸術品などがあり、さまざまな娯楽があったことが伺える。「もの」が増えることに伴って、収納家具も増え、その質も向上した。たとえば支配者層のパラッツォならば衣装ダンス、シーツ類を入れる棚、本棚や文書箱、貴重品を入れておく金庫や宝石類、食器棚、調理器具棚、場合によって武器庫などさまざまな種類の収納庫があったことが知られている。……(153) (斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)