2010年2月3日水曜日

知識と社会2

 ・学問の都パリ: 12世紀前半以降、パリの学問的名声は、既に述べたように、そこでギヨーム・ド・シャンポーとアベラール、とりわけ後者が教鞭を取った事に始まる。12世紀後半、それ以前に学問的名声によって学生をひきつけたシャルトル、ランス、ラン、アンジェなどはその名声を失うか、学問・教育による吸引圏の範囲を狭めた。その反対に、オルレアン、モンペリエなどがその例だが、学問的名声を挙げる都市が出て来る。そうした中でパリは12世紀後半になっても変わる事のない学問の街、学都としての高い評価を保ち続ける。 アベラールの時代、パリにはその学問的名声を支える3つの「学校」、即ちパリ司教座聖堂付属学校、サント・ジュヌヴィエーヴ修道院付属学校、そしてサン・ヴィクトル律修参事会付属学校が存在していたが、大学の形成と直接結びつくのは司教座聖堂付属学校だけであると考えられる。
サン・ヴィクトル律修参事会付属学校につい(214)てみれば、当初律修参事会員以外の外部の学生にも開かれていた教育は…、[後に]外部学生の受け入れは行なわれなくなったし、またサントジュヌヴィエーヴ修道院付属学校についても、1147年から1148年の改革によって修道院の運営が律修参事会員の手によって行なわれるようになってからは、外部の学生がそこで学ぶ事は困難になったからである。 一方、パリ司教座聖堂付属学校は参集する学生に門戸を開放しており、12世紀後半にも、ピエルー・ロンバール…らの高い評判を得た教師が教壇に立った。彼らは…アリストテレスの論理学[に基づき]弁証法を適切に駆使した研究と教育を行なった。更にパリでは「私学校」が多く存在した。教師達が教鞭を取り、パリに集まる学生達の教育の機会を提供していたのである。…私学校の教師達は新しい学問、弁証法、更には文法、教会法学、医学などを教え、司教座聖堂付属学校では神学教育が行なわれていた。パリ全体が多数の教師を融資、多岐にわたる内容を持つ教育活動を実践しており、そこに学び来る学生は、自らの好みに応じた教科を選択する事ができたのである。そして、パリの学問・教育界には知的好奇心と社会的野心とが絡み合った、一種の高揚した雰囲気が認められた。… 三。パリ大学の成立とローマ教皇の介入: パリに参集した教師、取り分け私学校の教師の間で、12世紀後半以降、教師組合=「大学」universitas形成運動が展開されるようになる。「大学」形成の目的は、教師達の相互扶助の実践と自治的な教育活動の実行にあった。 ところで、パリ大学の形成に関する通説によれば、パリの教師は、教養初夏の教師…を中心にして、1208年から1210年にかけて、遅くとも1215年には教師ギルドuniversitas magistrorumを形成し自らの手でギルド構成員を選び(人事権の自治)、ギルドの活動を規定する規約を定め、パリ地方教会の教育裁治権下から離脱したと考えられる。
パリの教師ギルド形成運動は、ラッシュドール以来、教育の領域でパリ地方教会権力を体現した司教座聖堂参事会付文書局長との抗争の過程での、教師達の結束によって推進されたと解されてきた。しかし近年の研究はパリ大学の形成が、自治的な教育活動を求める教養諸科の教師、神学などそれ以外の「専門」教科の教師、パリ地方教会、教皇、フランス王権など大学形成に関与した幾つかの利益集団の「妥協」の産物であるとの見解が[出されており、]ラッシュドール的通説は修正を迫られているといえよう。 ・教師・学生の法的地位を巡って: フィリップ・オーギュストの時代(1183-1223年)、パリの人口は2万五千人から5万人、そのうち教育(216)にかかわる人口は少なく見積もっても1割と言う数字がある。パリの知的な繁栄は同時に「公権力」の目からして無視する事のできない、幾つかの問題或いは危険を生じさせる事になる。フランスのみならず遠方からパリに参集する教育人口が引き起こす住居、糧食、治安などに関わる問題、教師・学史の法的市に関わる問題、既存の教育制度との整合性の問題、更には知的活動の活性化に伴って生じる伝統的精神界にとっての「危険性」ー後述するようにそれは アリストテレスと市民法によって提起されたがーなどを列挙する事ができるであろう。この「問題と混乱」の中から「大学」が形成される。それゆえにこそ「大学」形成過程に世俗権力と教会権力が積極的に介入する事になるのである。 聖界・俗界の「公権力」が、最初に対処すべき問題は、12世紀に誕生した「教師」及び「学生」が属する法的身分を如何に既定するかと言う問題であった。既に述べたように、12世紀、学問あるいは教育の領域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者と言う伝統的観念が、西欧とりわけパリでは広まっていた。教えるものを意味する語としてmagisterないしdoctorが、また学ぶものを意味する語としてscholarisあるいはdisciplusがあったにもかかわらず、教育・研究の場が教会関係者に限定されており、「祈る」ために教育と研究が営まれていたこともあり、教えるもの・学ぶものを意味するのに一般的に用いられたのはclericusという語であった。
この事から推測されるように、教えるもの・学ぶものは聖職者と看做されていたのである。ところが、12世紀の知的な活況と教育人口の膨張の中で、祈るために教え、学ぶのではなく、「知る」ために学ぶ人、あるいは職業人として「教える」人が登場した。教える人と学ぶ人が相変わらず聖職者であるならば、彼らは新しいタイプの聖職者であったという事が出来るであろう…。聖職者は法的に見れば、裁判特権によって世俗裁判管轄権下ではなく教会裁判管轄下に置かれ、聖職者特権によって暴力から身体の安全を守られている。… ・ロベール・ド・クールソンの規約から「パレンス・スキエンティアルム」へ: パリ大学の形成から確立にわたる期間、教皇座にあったのはインノケンティウス3世、ホノリウス3世、グレゴリウス9世であった。ここでは1215年にインノケンティウス3世の特使ロベール・ドクールソンが公布した、現存する最古の「パリ大学規約」を取り上げる事にしたい。…前文には、規約の作成の目的が、インノケンティウス3世の匿名に基づく、パリのストゥディウムの改革にある事、そして規約の作成に当たって、ロベール・ド・クールソンが信頼に値する人達の助言を求めたことが明記されている。「助言を求めた信頼に値する人達」とは、ロベール・ド・クールソン自身がパリで神学教師として活動していた時期(1200年少し前から1212年まで)の同僚教師であったと考えられる。… (218)教皇が改革の必要性を認めたパリのストゥディウムの状況とは如何なるものであったのか。それは教師達の「大学」形成の問題であり、学生、教師の質に関わる問題と、パリで教授され、研究されている学問内容に関する問題であった。 「大学」形成に関しては、インノケンティウス3世が1208年に教会法、市民法に基づいて教師の組織が代理人を派遣することを認め、また同年パリの教師達が定めた規約への服従宣誓を行なわなかったため一度「教師組合」から除名された教師Gの組合再加入問題に仲介者として裁定を下したことが知られる。1212-13年には、教授免許交付を巡るパリの教師と司教座聖堂参事会文書局長との対立が顕在化し、インノケンティウス3世の任命した裁定者の手によって、紛争が一応解決されたことも知られている。
…(219)ロベール・ド・クールソンの規約は、神学、教養諸科を対象として,修学機関、教師資格取得の年齢を定めて居る。教授免許取得にかかわる規定(これは教師ギルドの人事権の自治とも関連する)については、1213年の仲裁裁定がそのまま採用されて居る。仲裁裁定では、神学、法学、医学の教師適格者の認定に関しては、当該教科教師の過半数が適格者と認定したものには(当該教科の)教授免許が交付される事とした。しかし、教養諸科の教授免(220)許交付については、教養教科教師3名とパリ司教座聖堂参事会付文書局長が指名した3名の教師の過半数が教師適格者と認定した者に教授免許が交付されたのである。この条項から、神学、法学、医学の教師については、自治的な人事権の行使が容認されたが、教養諸科教師のそれは制限されていると解することが出来る。1213年の仲裁裁定が、ある面で文書局長の教授免許交付権の制限ないし空洞化をもたらしたという事を認めるにせよ、大学形成の中心的にないてである教養諸科教師に限っては完全な人事権の自治が認められていなかったのである。その仲裁案がロベール・ド・クールソンによって取り入れられたのである。また彼は、正規の学生である為の要件を定め、学生に対する教師の監督権を確認している。 そして学習内容(カリキュラム)についても詳細な教科編成を規定し、教えられるべきテキストを指定している。その一方で、…アリストテレスの形而上学、自然哲学、[その他当時のフランス人学者の]教説が禁令の対象となった。 教養諸科教師は自治的な教師ギルドの形成を推進する。これに対応してロベール・ド・クールソンの規約は、教師ギルドの存在とギルドとしての権利(規約制定権の行使など)を確認する。その一方でロベール…は、詳細なカリキュラム、厳しい試験といった制度的枠組みの中に、新たに流入した学問の繁栄と諸学の無秩序な「混合」に対する有効な歯止めを見出したのである。