2010年2月3日水曜日

成長と飽和13

九。諸王国の政治的発展   ・王の血統カリスマと政治的責務: ここではまず、諸王国に一般的な政治構造の問題から考えてみたい。まず中世の人々には上層から民衆に至るまで、呪術的思考の傾向が強い。因みにここで呪術的思考というのは、特定の人間、行為、事物の中に超自然的な力を認める事を意味している。このことは中世の国王支配にも大きなかかわりを持っているのである。 元々彼らにとって王とは、天与の超自然的な力(カリスマ)の持ち主であった。このカリスマは、異教時代には王が神々の血を引いている事に由来すると看做されていた。またその力の機能は戦いを勝利に導く事や、(36)豊かな実りを大地にもたらす事であると考えられていた。このような考え方はキリスト教改宗後も長く存続した。たとえば1081年に皇帝ハインリヒ4世がルッカに赴いたとき、農民達は争って皇帝の衣服に触れようとしたという。彼等はそれによって豊かな実りを得ようとしたのである。そして、こうした力は血統によって伝わるのであるから、「正しい」血統の王を立てることは何よりも重要であると考えられたのである。
 これに対し、異教の神々を否定するキリスト教会の立場よりすれば、王とは唯一神に選ばれ、民の統治を委託された者ということになる。これを表現する儀式が、古代ヘブライの伝統を引く塗油式であって、西欧では西ゴート王国に始まり、751年にフランク王国に導入された。言うまでもなく宮宰ピピンがメロヴィング朝から王位を奪ったときである。この論理を突き詰めるならば、血統は価値を失い、神の選びを判別する手段としての選挙王政に行き着くはずである。 しかし現実には教会人もまた、血統主義にとらわれていた。…王のカリスマについての観念にも古いものと新しいものが並存している。武運や豊饒をもたらす機能についての観念は長く残っていたが正統信仰は、それをあくまでも神の恩寵の現れとして解釈した。またフランスおよびイングランドの王に特有の能力として宣伝された「るいれき治癒力」は、血統によるカリスマという点では古い特質を備えているが、奇跡による治癒と言う点では、聖書や聖人伝の影響を強く受けていると思われる。 他方で理論化された政治思想のレベルでは、王はキリスト教世界に相応しい正義と平和を実現する責務を負(37)った存在であった。とりわけ寡婦、孤児、貧者、旅人といった社会的弱者と教会を保護する任務が彼にかされた。 また統治に際しては一定の規範を守るべきものとされた。先ず彼は絶えず人民の代表者と協議し、その助言に基づいて統治しなければならない。ちなみにここで人民の代表者と目されているのは一般的には高位聖職者、大貴族などである。また彼は古くからの秩序を尊重しなければならない。一般に古くから行われている事は正当な事であると推定され、新しく持ち込まれる事は不正な事とみなされた。
・国家統合の諸条件: 国王が現実に国家統合を進めるに際して、貴族たちによる地域支配は最大の問題となる。貴族階級は、一般にその権力の最終的正統性を王権からの委任においていた。それゆえ国王は封建制度における主君、或いは神に選ばれた至高の宗主とみなされていた。国王を核とする貴族連合体制の実現は、国王ばかりでなく貴族たちによっても希求されたところであった。 しかし同時に、国王と個別の貴族或いは貴族の集団との間には、相互の権限を巡ってある種の軋轢が存在していた。多くの場合、王権は権力の集中を進めて貴族の領主権を統制しようと努め、貴族たちはこうした介入を排除して完結的な支配を打ちたてようとした。こうした軋轢は、しばしば武力衝突にまで発展した。そしてその際には抵抗権の論理が持ち出された。不正な主君は主君ではないし、暴君は王とは認められないというのである。 国王が貴族権力を統制するためには、幾つかの条件が必要とされる。一つには国王の直轄支配を拡充し、そこから引き出される経済力や軍事力で貴族たちを威圧することである。また教会人、都市民など、貴族にある程度対抗できる階級の支持をとりつけることも重要である。その上、貴族の多数を反対派に追いやらないような政治的技量も問題になる。 次に国王や大領主が統治のために用いる事ができた現実的な諸手段が、中世盛期においてどのように変化したかを概観する。

先ず財政についてであるが、13世紀までの王権にとって、全国的課税と言う財政手段は例外的であった。王は基本的に自らの所領収入で統治を賄わねばならなかった。しかしこの所領収入に関しても、11世紀までと12世紀以降とではかなりの変化が認められる。即ち11世紀までの時代においては国王や大領主の所領は極めて広大ではあったが、森林、荒地などを多く含み、開発の拠点は分散していた。しかしその後の農業生産の増大と人口成長、流通経済の活発化によって、彼等の経済力は抽象領主のそれとは質的に異なる展開を遂げた。即ちその所領は新たに多くの開墾を受け、各拠点は商工業の核となり、商品流通から得られる税収も飛躍的に増大した。 また軍事に関して言えば、伝統的封建軍役は、動員できる人数、日数、行動範囲に制限があった。12世紀以降、国王や大領主はその経済力に依拠して、傭兵を多く活用するようになった。これにより、彼等の封建家臣に対する立場は強まった。 第三に官僚機構の問題が挙げられる。11,12世紀までの時代に国王や大領主が地方に配置したのは給地官僚、もしくは官僚の代用物としての高位聖職者であった。このうち給地官僚は委託された権限と割り当てられた所領を世襲化する傾向があり、多くは封臣と大差ないものになってしまった。また高位聖職者は11世紀後半からの教会改革の動きの中で、次第に世俗支配者との関係を切り捨てていった。これに対し12,13世紀からは俗人の現金給与官僚が現れる。彼等は一般的に言って、前の二つのタイプよりもはるかに忠実で、職務に専念する傾向があった。これを実現した要因としては、一つには現金給与を可能にした貨幣経済の発展、もう一つには読み書きや計算能力を備えた俗人の増大をあげなければならない。 しかし、こうした条件は国王の権力集中にのみ有利に働いたわけではない。これらの条件を利用して大領主、更(39)には都市共同体が国王に対抗しつつ権力集中を進め、独立的な地位を確保する例も見られる。こうして諸勢力の角逐の中に、西欧の政治地図が形成されていくのである。

・イングランド: イングランド王国は10世紀にはウェセックス王家のもとで、集権的な体制を形成していた。しかし世紀末にはヴァイキング侵入が激化し、11世紀初め、デンマーク王家のクヌートによって征服された。彼はデンマーク、ノルウェーの王を兼任していわゆる北欧帝国を築き、イングランドはその中心として経済的に繁栄した。その後、ウェセックス王家の支配が復活したが、1066年のエドワード証聖王の死と共に断絶した。このとき、 ノルマンディ侯ウィリアムは王位を要求して侵入し、ヘースティングスの戦いで対立王ハロルドを敗死させ、イングランド王として即位した(ウィリアム征服王1世)。この事件をノルマン征服と呼ぶ。こうして英仏海峡を挟んだアングロ・ノルマン国家が成立し、イングランドの情勢とフランス王国のそれとは分離しがたく絡み合う事になった。 ウィリアムは、制服に付き従った家臣たちにイングランドの所領を分配し、封建的主従制によって彼らを組織した。しかし彼はシャイアなどの伝統的な組織を活用しつつ、領域的な行政権は国王の手中にとどめたのである。ここに集権的な封建制国家が生まれた。中世最初の国勢調査ともいうべき1086年の「ドゥームズデイ・ブック」の作成は王権の強さを良く示している。12世紀初めには王領地についての財務行政も急速な発展を遂げた。 12世紀半ばにはアンジュー伯ヘンリー・プランタジネットがアングロ・ノルマン国家を継いだ(ヘンリー2世)。彼はそのほか婚姻や相続によってアキテーヌ、ブルターニュの支配権を入手し、フランスの西半部とイングランドを合わせた広大な地域の支配者となった。彼の支配圏をアンジュー帝国とよんで(40)いる。彼はイングランドでは、国王裁判権の改革と伸張に努め、また傭兵を活用して軍事における貴族への依存を弱めた。 しかしノルマン朝、プランタジネット朝の王たちは、その大陸支配を巡ってフランス王権との対立を余儀なくされた。フランス王は、彼等の大陸領土に対して執拗に封主権を主張し、またしばしば王家内部の抗争に介入して、その弱体化を図ったのである。
13世紀初め、プランタジネット朝のジョン欠地王はフランス王フィリップ(2世)・オーギュストと争い、大陸領土の大半を失った。その後、世紀半ばには新たな協定によって、両者の関係が整除された。イングランド王ヘンリー3世は、この時点で尚保持していたな聖フランスの地域(ギュイエンヌ侯領)を、フランス王からの封土と認め、家臣としての礼を取ったのである。以後イングランド王権は大陸での反撃の計画を捨て、ブリテン島統一を目指してウェールズ、スコットランドへの進出に力を注ぐ。 13世紀のイングランド王権は、国内では相変わらず強大であり続けた。この国には他の国の領邦諸侯に比較し得る様な大領主は存在せず、個々の領主の政治的権力は大きくは無かった。しかし領主達はしばしば連合して国王の圧政に抵抗した。彼等は世紀初めにはジョン王に迫ってマグナ・カルタを承認せしめ、世紀後半にはシモン・ド・モンフォールを代表とする政治改革運動を引き起こした。これらの運動の中には、王国を自分達の共有物と看做す彼等の政治思想が表現されている。国政への発言権の要求はその論理的帰結であった。 世紀後半には、彼等の意見をある程度繁栄させる手段としての身分制議会が発達してくる。また、地方行政に関しては、その地方の有力領主層の自治が慣例として定着して行った。