2010年2月3日水曜日

中世都市の成立4

5.富の分析 1427年5月、フィレンツェの都市評議会で新しい税制を導入する事が決定された。それまでの国家財政は基本的に関税や消費税などの間接税と、それを担保とした強制公債に依存していた。15世紀の初頭はフィレンツェにとって戦争の時代であった。特にミラノのヴィスコンティ家は北イタリアから中部イタリアまでその版図を拡大しつつあり、フィレンツェはその防衛に忙殺されていた。何時の時代でも戦争ほど金のかかるものはない。フィレンツェの場合、独立を維持する為に戦争を継続しなければならないが、間接税や強制公債の形で戦費を一般市民に負担させる事は最早限界に来ていた。新しい「公正な」税制を採用し、市民を再結集する事が必要だったのである。 こうして戸主全員に資産状況の申告を求め、それに基づいて課税すると言う新たな税制「カタスト」が導入されたのである。この制度は実に壮大なものであった。フィレンツェの都市及びコンタード、それに従属都市の戸主たちは家族や資産のあらゆる側面について詳細な申告を行う事が要求された。不動産、現金、債権、公債(モンテ)の投資額、家畜などから一定の方式に従って「資産」を算出し、債務や家族数から逆に「負の資産」を計算する。そして前者から後者を引いた残りが課税対象額となるのである。このように商業活動の中で蓄積されてきた技術が全面的に行政に適用されている事は大変興味深いが、それにも増して驚くのは、このような複雑な制度が実際にフィレンツェの支配領域の全域に適用され、しかもその資料が今日にまで残って居ることである。その上、この第1回目のカタストに関する限り人々の申告がかなり信頼度の高いものである事が認められている。…(141)動産ととりわけ公債は[6大都市と比較した中でも]圧倒的にフィレンツェに集中している事が分かる。フィレンツェ市内においても富の分布には著しい偏差があった。フィレンツェの人口は3万7千、戸数は1万であったが、1万戸のうちの14%は何らの資産も持っていなかった。「資産」から「負の資産」を引くとマイナスになるもの、つまり課税対象資産の無いものを含めると31%に達した。逆に、もっとも富裕な1%の家(約100戸)が都市内の資産の4分の1、フィレンツェ領トスカーナの全資産の6分の1を所有していた。これは都市の家のうち下位87%の資産よりも多く、農村の3万7千戸の資産もこれに及ばない。しかも、有力な家は多数の分家(142)を擁して強力な同族団を形成していた。もっとも有力なストロッツィ家は53戸がカタストの申告を行なって居るが、1戸当たり3700フィオリーノの資産を有し、都市の課税対象資産の2.6%を所有していた。それに続くのがバルディ家(60戸で2.1%)、メディチ家(31戸で1.9%)、更にアルベルティ家(18戸で1%)、アルビッツィ家(…)、ペルッツィ家であった。この6つの同族団だけで、課税対象資産の10%を超えて居るのである。
もっとも、同族団の内部にも富の大きな格差があったことを付け加えておく必要がある…。つまり、多額の資産を持つごく少数の家が多数の貧乏な親族に取り囲まれているというのが同族団の構造だったのである。 …ところで、実際の富の格差はカタストの申告書に現れて居るよりも更に大きかったと思われる。貧民がなけなしの資産を殆どすべて申告したのに対し、富裕な家は多くの資産を隠す事ができた。たとえば、カタストの都市では住居用の家屋は免罪となって居る。農民の粗末な小屋も、都市の有力者の豪華な館も全く同じように免税なのである。このような住居と贅沢な(143)調度備品を計算に入れたならば、両者の資産上の格差は一段と大きなものとなるに違いない。 富の分布がこのように偏って居るだけでなく、資産の内部構成においても大きな違いがあった。特に興味深いのは、資産における公債の占める割合である。フィレンツェの78%の家は全く公債を持っていなかった。他方、僅か2%の家(約200戸)が公債の60%を有力していた…資産額が増えれば増えるほど公債の割合が増大するのである。最有力の家の場合、資産は動産・不動産・公債とほぼ三分されている。…フィレンツェにおいては36%の家がなんら商工業投資を行なっていなかったのに対し、もっとも富裕な2.5%の家が投資額の半分を握っていたのである。フィレンツェ以外の都市及び農村に眼を転ずると、これらの地域では全く公債所有者がいない事が注目される。公債は、要するに都市領域全体から間接税の形で集められた財政収入を担保として都市国家が設定するものであり、5-15%の利子が保証されていた。しかも有力市民達は、経済や政治の動きにつれて常に市場価格が変動する公債について広範な投機を行っていた。つまり、フィレンツェの有力市民達は商工業活動の利益を握っていただけではなく、国家財政を通じて広大な支配領域の人々を収奪していたのである。このような国家財政と有力市民の私的利益の共生こそ、都市国家の統一を維持せしめたものに他ならなかった。

6.都市の理想と市民権 イタリア中世都市の市民達は自分達の都市を祖国と考え、その歴史と文化に大きな誇りと強い愛着の念を持っていた。ここから…「都市賛美の書」や、フィレンツェの商人ジョヴァンニ・ヴィッラーニの『年代記』(1348年まで)のような「都市年代記」が生まれる事になる。それぞれの都市では固有の伝統が強調され、市民達はそれに(144)忠誠を尽くす事が求められた。フィレンツェはその起源がローマ人によって建設された「小ローマ」であった事を誇り、シエナはローマを建てたロムルスの双子の兄弟レムスがその建設者であるという伝承を有していた。ミラノの場合はローマ帝国末期に皇帝がしばしばこの都市を居所とした事、聖アンブロシウス以来の教会の伝統、ロンバルディア都市同盟の盟主としての地位などが統合の象徴として語り伝えられた。 一方、都市における市民達の様々な権利は生得のものと考えられていた。たとえば、都市の公職に就任するための条件として、一般に都市居住や納税のほかに、先祖代々その都市或いはコンタードの生まれである事、その都市の伝統である教皇派或いは皇帝派に属し、その忠実な実践者である事が要求されていた。外来者は、たとえ10年20年とその土地に住み、納税その他の義務を果たしていたとしても、アルテ(ギルド)に加入する事も、都市コムーネの公職につくことが出来なかった。…13,14世紀のイタリア商人の活動を見ると、若くして遠隔地へ商業活動のために出かけたものが、30歳を超えて一応の資産を得ると祖国である都市に戻り、結婚して一家を構えると公職について都市政治に進出するという例がしばしば見られる。
…彼等の活動は、ヨーロッパの全域及び地中海彼方にまで広がるものであると同時に、祖国に収斂する性格を持っていたのである。ただしこれは上層市民の事であって、中流の市民においてはその結びつきはより弱く、下層民において希薄だったと思われる。… 最後に[市民権の問題]。北西ヨーロッパの都市は、若干の例外を除けば、市壁の外に広がる広い領土と言うものをもっていない。都市の法は、市壁に囲まれた特定の地域にのみ妥当する。一方、イタリア都市は広大なコンタードを有し、この範囲の全体に都市法が適用される。したがって、北西ヨーロッパの都市のように「特殊な法の適用を受ける」ものと言う意味の市民概念は、全く実態的な意味を持っていない。都市居住者も農民も、地域的な慣習を別にすれ(145)ば、服すべき法には何の変わりも無いのである.… 市民と言う概念には幾つかのレベルがあったように思われる。先ず第一は「都市の居住者」と言う意味であって、「コンタードの居住者」に対立する。序で「都市で納税その他の義務を果たして居るもの」と言う意味がある。これも都市に住みながらコンタードで納税しているもの、またはその逆、或いは都市、コンタードの双方で納税している者などもいるので、問題は決して簡単ではない。更にポポロの一員として地区団体に所属し、カピターノ・デル・ポポロに対する忠誠誓約を行っている者がある。これは、一般市民の自衛団体のメンバーになって居るわけなので、我々の市民概念に近いところがある。しかしポポロは都市居住者の全ても含んで居るのではなく、前に述べたように旧来の都市貴族はここに加わっていない。そのほかに資料には表れにくい多数の貧民が存在したであろう。しかもポポロに参加し、その軍事力を担っていたもの全てが政治的な権利を持っていたわけではなかった。例えばフィレンツェの場合、ポポロの諸機関を通じて都市国家の政治に参加できたのは公認の21のアルテ(7大アルテと14小アルテ)の正規のメンバーだけに限られ、しかも実権は7大アルテに握られていた。14世紀後半のフィレンツェでは、都市人口が5万5千人から6万5千人ほどと思われるが、前述のアルテの共同体に属するのはせいぜい5,6千人と言うところであった。その中から都市国家の政策決定に参加できるものと言えば、多くて数百人のレベルだったと思われる。
既に述べたように、15世紀に入ると都市における権力は益々少数の手に集中していった。…権力の集中を通じて都市国家の複雑な重層的構造を是正し、都市の支配体制を維持しようと[尽力したのである]。