2010年9月19日日曜日

919

The child sex abuse scandals that have swept through the Catholic church, and the cover-ups involving senior clerics, have left many ordinary Catholics feeling shamed and angry.

So much so that some are opting out of the church.

Others argue that this is the time when the church needs to make major changes – pushing subjects long dismissed by Rome, such as priestly celibacy and the ordination of women, back onto the agenda.

In the week of Pope Benedict’s visit to the UK, Edward Stourton talks to both traditional and liberal Catholics about how they negotiate their emotional and spiritual path in a church which is often portrayed as discredited in the media.

He also explores whether the current crisis could be a surprising opportunity for the church – even to the point of leading to a Third Vatican Council.

2010年4月22日木曜日

第3回講義

 今扱っている・説明している内容は、「絵本をめくっている」ようなもので、「水準の設定」を見誤る訳には行かず、この位で推移する中、せめて5%位ずつ自分にとってやり易いものを提示して行く事になる。
 内科学を担当している先生曰く「水準は下げるべきでない。アカデミックな内容に少しでも触れていられる事が大事だ」との事で、昨年度は少しそのつもりで構成したが、結局は水準を下げ・取っ掛かり易い内容に変更した。今年はその位置からスタートしている為、少しずつ上げていけるかと思ったが、見た感じ一寸無理そうである。
 このように基礎体力が無い・弱い状態だと、先がどうなる事かと思うが、そういう状況が、国が積極的に作り出そうとしたもの、その実験によって生み出された「失敗例」が顔を並べているという話になる。国が「過ちを認めた」為であるが、見渡した感じ、それ以前の者もそれ程高くない事にすぐに気付く。それを受けて「こんなもんか」と諦めるのが、どうやら知恵らしい知恵であるようだ。自分が展開・発表するものの中で、どれだけ「負荷が与えられている事に気付かず」伸ばしていけるかが、今後の課題である。

2010年4月15日木曜日

第2回講義

 「面白い講義」等、何の意味も無い。
 「面白い授業」というものは、あって良いし、その方が望ましい。生徒達がやる気になる可能性がある、それを喚起することが出来る為。ただ、これら「受身の」内容提示は、ある段階までの作業に留まる。
 問題は「情報」を提示する事ではなくて、「方法」を提示する事、それを受け取った学生達が自分のものとして「再現可能」な所まで持って行く。
 その為に「科学」として割り振られている、「~学」という名前と分野でアプローチの対象が異なるだけで、「方法」は一貫している。
 所謂「米国型」は、「相談」しているだけ。情報を増やし、相互に共通する語彙を相手に覚えさせる作業。
 「バカ(または能力の余り高くない者)は口を開かずにいる方が『得』であり『徳』」だという事を、客観的にしばしばしみじみと感じる。が、それ以上の問題は「バカである事に気付いていないケース」で、こうなるともう救いようがない。

2010年4月9日金曜日

第1回講義

 8階、100人余り収容の中教室、学生数50人余り。
 講義室を去りしな、1、2名の学生が「ありがとうございました」と頭を下げるので、こちらも軽く会釈を返す。こうしたことは昨年もあったが、もう少し伝える方法があったのではないかと思う。
 第1回目から、彼らの側から所謂「ホットな反応」等期待してはいないが、それにしても準備したものにしては、今ひとつだったと感じる。昨年は4回目位からノッて来たようだが、顔を見ている限り、今年はもう少し早める事が出来そうである。
 前回の反省としては、用意したものの水準が少し彼らの持ち合わせるそれと差があり過ぎたという事で、特に1回目については文献資料から叙述の仕方から、分からずに座って居た事であろう。それを感じ取るにつけ、2回3回と回数を重ねるにつれて話す内容や配布資料の形式を簡単なものにして行った。これが、例えば「相手を選別した上で」という事であるならば、もう少しこちらの望む仕方で進められるが、いずれにしても15回分終えての今回であるから、おおよその水準は理解しており、その前後を標榜するか、或いは反応次第では少しずつ負荷を掛けて・引っ張って行く事が出来る。
 昨年と全く同じものを、どこかの教授の如く茶色くなった紙を読んで行く仕方も無くは無いが、半年なり一年なり掛けて収集したものを元に、こちら側としてもその「成果」として彼らの前に立つ訳である、「昨年と同じ内容」等あり得ない。ついでに、教室には諸事情によりもう一度座っている者も2名程おり、彼らのことを考えても、やはり同じ結論になる。

2010年2月4日木曜日

初期中世1

1.前封建社会(58) 「ゲルマン人の歴史への登場」 4世紀後半から6世紀にかけての、いわゆる民族大移動によって、ゲルマン人が歴史の舞台に登場して以来、西ヨーロッパの歴史は始まる。彼等の足元の大地は湿って重く、肥沃であった。殆どは大森林で覆われており、年々ここにかなり大量の雨が降り注ぎ、夏涼しく冬寒かった。アルプス以北のこのような気候・風土は、古典古代世界の中心をなした地中海沿岸地方とは全く異なっていた。アルプス以南の土壌はやせて軽く、森は少なくまばらであり、気候は温暖で乾燥していた。わずかに河川流域や一部の灌漑地域だけが豊かな地味を持っていたに過ぎなかった。ゲルマン人の西ヨーロッパへの登場は、正に歴史的舞台の転回を意味するものであった。 (59)「古典的な古ゲルマン社会像」:古ゲルマン社会の経済について…考古学上からは、紀元前4千~5千年も前から農業が営まれていた事が知られ、大麦・燕麦・裸麦などヨーロッパの主要穀物の殆どが栽培されていた。燕麦・裸麦の栽培は青銅器時代からのことであり、またガリアのローマ人が無輪犂を使用していたのに対し、彼らと接触したゲルマン人は、より進んだ鉄製有輪鋤を牛に引かせていたと言われる。 土地制度については、マルク(Mark)呼ばれる森林・湖沼・池などの共同地(入会地)を中心に、これを共同利用するマルク共同体Markgenossenschaftという定住団体が形成されており、そこで人々は経済的平等を享受していた、とされる。
人々は政治・法生活の面ではジッペSippe(氏族)と呼ばれる団体をなしており、人々はその中に入る事によって初めて政治的・法的な自由と平等を受ける事が出来た。ジッペは当時の政治団体、法・平和共同体、軍事組織単位、農村共同体であり、いわば国家civitas内の国家であったと言われる。…(60)『ゲルマニア』によれば、ゲルマンの成年男子はいずれも戦死であり、平時においては田畑や家事その他を女・老人などの弱者に任せ、狩猟のほかは唯無為に日を過ごすとあり、また戦争の際には、戦士の戦う側に母・妻・子も姿を見せ、男達を声援したり、その傷を数えたりしている。更に彼等は、農業社会で最も重要な、且つ喜びのときである収穫期、「秋」の名称を知らない。更に、の地の民族大移動に家族・家畜・家財道具の全てを伴った文字通り家ぐるみの、しかも長距離にわたる移動であった。 ・「古ゲルマンの社会・経済・法制」:これらを考え合わせると、古ゲルマンの社会は牧畜経済を中心としており、いまだ定着農耕の段階には達していない事が推定可能である。事実、鉄製有輪犂、三圃制・燕麦栽培などが普及するのは、中世における主要な穀物生産地帯である北ガリアにおいて、はやくても8世紀から、一般には11-12世紀以降である事が今日確かめられて居る。
またマルク共同体の成立を可能とする集村も、同じく早くて8-9世紀以降、一般には11-12世紀以降の者であり、紀元前後の居住形態は散落ないし単一居住であった事が明らかとなっている。…(61)古ゲルマンの社会は、原理的に牧畜経済社会であり、農業は存在したものの、あくまでも副次的な産業に留まった。ただし、ゲルマン人は遊牧民とは異なり、数百年の間にはかなりの移動を示しても、数十年の単位では殆どが動かない場合が多かった。しかしながらいずれにせよ、社会の構成原理としての地縁性は存在せず、古ゲルマンの国家とされるキウィタスは、経済的地縁団体ではなく、軍事上の人的結合団体、即ち戦士団ないしは戦士団の連合体であった。キウィタスの最高機関である民会は、全民衆によって構成され、全会一致制によって運営された。従ってここには、多数決原理に見られるような、明確な団体意志を形成する場がいまだ存在せず、彼等のまとまりはやはり脆弱であった。 キウィタスは王制または首長制をとったが、いずれの場合も実際上の運営は、キウィタス内の長老達に委ねられた。彼等は、何よりもまず戦士団の存立に不可欠な軍事的指導者であり、ここから特別の「権威」を賦与され、神の子孫として人々に尊敬された。彼等はしばしば「貴族」として捉えられうるが、後の封建貴族ないし絶対王政下の貴族とは、本質的にあり方を異にしている。 (62)「民族大移動」:4世紀から6世紀にかけてのゲルマン民族大移動の原因については、今日なお不明な点が多い。しかしながら、彼らがゲルマニアの地から一様に南下ないし南西下し、ガリア、北アフリカ、イタリア半島などローマの穀倉地帯に侵入した「事実」と、彼らが牧畜遊牧民であった「仮説」とを付き合わせるなら、恐らく気候の寒冷化により生じた深刻な穀物危機が、彼らを大移動に駆り立てた事は容易に推定可能であ[る]。…ローマ領内に建設された数多くのゲルマン諸国家は、5世紀から8世紀にかけてあいついで滅亡した。それは、結局のところ牧畜経済社会に生きてきたゲルマン人が、ローマ農耕社会の原理を自らのものとなしえなかったからに他ならない。

西欧史概観

井上幸治編『西欧史入門』有斐閣・1966年
・ヨーロッパとは何か(2) ヘロドトスを読むと、エウロペー(Europee)というのはティルス王の娘で、これからヨーロッパと言う名が出たように思われるが、ティルス人はアジア人であるから、ヨーロッぱという名の起源も分からないし、またその境界も明らかでないと書かれている。…(3)ローマ世界帝国の成立は、ヨーロッパの地理的歴史的外延を決定する上に画期的な事件であった。ポリュビオスはローマの世界征服の初期に、地中海を巡るローマ支配の拡大を描いたが、それはローマとカルタゴの闘争からコリントの破壊のときまでの歴史であった。そののちタキトゥスやカエサルはゲルマニア、ガリア、ブリアニアとローマ人との交渉の歴史のあとを辿った。ここに、近世初期にいたるヨーロッパと言う歴史的概念が成立した。 ・「ヨーロッパの社会的構造」:古代文化が地中海を巡る諸地方に発展し、地中海が「その思想、その商業の媒介者」の役割をはたし…、ローマの征服地にゲルマン人が侵入した後も、地中海の伝統的役割は変わらず、ヨーロッパ各地に定住したゲルマン人にとってもビザンツ帝国との交通路であった。しかし地中海世界にイスラムが征服地を拡大して行くと、「それまで地中海は東洋と西洋の間の10世紀来の紐帯であったが、それ以後は両者の障壁となった」…このように中世ヨーロッパは外に向かって自己形成を行なうと同時(4)に、内部的にも自己形成を行なったのである。…(5)ルネサンス、宗教改革を経て、近代的市民社会の形成に伴って明確になってくる「ヨーロッパ人」の精神的構造[は](6)次の三つの歴史的要素をうけとめたあらゆる民族であるという。第1は、ローマの影響である。嘗てローマの支配したところでは法の尊厳と司法の権威が認められ、ローマは組織と制度のモデルとなった。そこにおいて権力、法律的精神・軍事的精神・形式主義的精神の浸透した権力が永く刻印を残した。
第2は、キリスト教である。ローマの支配地に広まり、その範囲は殆どローマ帝国カの領域と一致した。この宗教は道徳をもたらし、ローマの征服は政治的人間しか捉えなかったのに対して、精神を支配し、その支配は意識の内奥に及んだ。第3は、ギリシア精神である。ヨーロッパ人がギリシアにおうものこそ、恐らくヨーロッパ人を最も他の人類から区別するものであろう。ギリシア人は精神の規律、あらゆる秩序における完成の異常なモデルを提示している。この規律から科学が生まれ、ヨーロッパは何よりも科学の創造者となる。 このようにして、カエサルとウェルギリウスの名、モーゼと聖ペテロの名、アリストテレスとプラトンの名が同時に意味と権威を持つところにヨーロッパがある。三つの条件を備えたものがヨーロッパ人である。
・封建社会:(54) 西ヨーロッパ史で「中世」とか「中世世界」とかいう場合には、普通ゲルマン民族の大移動が始まった4,5世紀から英仏間の百年戦争が終わる15世紀頃までの時代をさす慣わしとなっている。 しかしながら、このほぼ千年にわたる長い時代の中には、相互に異なった少なくとも三つの発展段階が存在している。即ち1.牧畜経済の前封建社会(民族大移動期よりほぼ10世紀頃まで)、2.地縁的農業経済の封建社会(11~13世紀)、3.近代化の起点をなした、日用品商品経済の発生期、封建社会の崩壊と近代国家の端緒的形成期(14-15世紀)がそれである。 このうち2の封建社会期は、ここで地縁的経済・法組織体が地方ごとにはじめて出現して、歴史的固体としての西ヨーロッパ世界が本来的に形成され、近・現代社会の大前提となった点で、それ以前の段階とは構造上決定的な差を有し、全西ヨーロッパ史がこれを境に二分されうるほどの大きな意味を持っている。 もともと「中世」という言葉はルネサンス人の発想から生まれたものであり、自らの時代を謳歌し正当化するために、直接先行する全時代を、古典古代と当代(ルネサンス期)との間に介在する、無意味なあるいは暗黒の、「中間の時代」とするという現実的・実践的な意味を持っていた。…今日、「中世」の語は最早特定の時代概念ではなく、単に慣用上の言葉にしか過ぎない。[封建社会]という語は、…古典荘園成立期の7~8世紀頃からアンシアン・レジーム期の17-18世紀頃までの、およそ千年にわたる時代概念・社会類型概念として使用されてきた。
その中には、古典荘園制期(7,8世紀~10,11世紀)・領域的裁判領主制期(16^18世紀)など、 権力の上からも経済の仕組みからも異なった幾つかの段階が含まれて居る。にもかかわらず、一つの概念で全体を括りえたのは、そこに共通して領主権なり農村共同体なりが見られたからであった。…フランス「人権宣言」や1804年の「ナポレオン法典」に明らかなように、資本制的近代市民社会の創出・形成に当たっていた商工業ブルジョワジーにとって、何よりもまず克服・否定せねばならなかったもの、それは領主権・農村共同体の存在であった。 領主権(地方的政治権力)と農村共同体(地方的経済組織体)は、経済・法・政治を国家的規模で組織化する際に最大の障害物となったのであり、それゆえにこそ初期近代市民はその克服のために、私的所有権の神聖・不可侵性、「私的自治」の原則、「自由な」商品交換をいやがうえにも強調せねばならなかった。…(56)19世紀の市民的理性が時代の要請として受け取ったもの、それは近代市民社会像の理念的確立によるアンシアン・レジーム体制の徹底的否定だった…。

2010年2月3日水曜日

危機と再編1

江川温・服部良久編『西欧中世史(下) -危機と再編』(ミネルヴァ書房・1995年)
概説 危機と再編   (1)12-13世紀のヨーロッパ社会が人口・経済の成長と、政治・社会の秩序化によって特徴付けられるのに対し、14,15世紀はしばしば、社会・経済、更には政治秩序を含めた危機と衰退の時代である[とする見方がある]。 (14)・14,15世紀のヨーロッパ諸地域: [1360年ごろと1519年ごろのヨーロッパ歴史地図]:ブリテン島内部には国境線の大きな変化は見られない…スカンディナヴィア半島内の境界線も変わっていないが、16世紀の地図では北欧3国がカルマル同盟および北欧四者同盟によって一体化している。イベリア半島では大別すれば、ポルトガル、カスティリア、アラゴン、グラナダの4国が識別されるが、16世紀にはグラナダは消え、カスティリアとアラゴンは合併してスペイン王国となっている。イタリア半島では小さな変化を別とすればシチリア・ナポリ両王国、教皇領、フィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネチア等の都市国家の分立状態に変わりは無い。東欧ではハンガリー、ポーランド、ドイツ騎士団領がほぼ同じ位置にとどまっている。ただしポーランドは16世紀には東隣のリトアニア大公領と合併している。またハンガリーの東隣は14世紀にはセルビアとブルガリアであったが、これらは16世紀にはビザンツ帝国を飲み込んだオスマン・トルコの領地に変わっている。ドイツでは神聖ローマ帝国の外延は殆ど変化していないが、しかしその内部では例えばスイス誓約同盟の領土が新たに登場したり、ハプスブルク家領が拡大するなど、内部の変化が生じた事が分かる。大きな変化を示しているのはフランスである。14世紀の地図ではアキテーヌ公領、ブルゴーニュ公領などは独立した色で示されていたが、16世紀になるとプロヴァンスをも含めてフランス全体が同一色に変わっている。これら領地境界線の変化は、14,15世紀の2世紀間の国家統合のプロ(16)セスにおいて起こった事件、例えばレコンキスタや百年戦争を想起させるであろう。
地図からは読み取りがたい事件としては、イングランドのワット・タイラーの率いた農民一揆(1381年)や、フランスでのジャックリーの乱(1358年)、イタリア・フィレンツェにおけるチオンピの乱(1378年)、ボヘミアでのフス派の反乱(1419-36)などの、前述の社会経済的危機と関連する民衆蜂起のほか、教皇庁のアヴィニョンへの移転(1309-77)、その後の大分裂(1378-1417)、それを収集するためのコンスタンツ(1414-18)、バーゼルの公会議(1431-49)といった宗教関係の事件が上げられる。更に15世紀後半にはイングランドでばら戦争(1455-85)、フランスで公益同盟戦争(1464-65)という諸侯と王家が争う内乱が生じたが、これらが両国の国内統一の一つの契機をなした。1282年のシチリアの晩祷事件、また1303年のアナーニ事件に見られるように、13世紀後半以降、皇帝権と教皇権と言う2大権威が崩壊した後の新しい中世世界の秩序を模索していたヨーロッパ世界は、地域ごとに国家を形成する方向に向かってはいたが、各地域権力の間の交渉、同盟、対立のルールは未確立で、最終的には戦闘で決着が付けられることが多かった。初期の戦闘では王侯の私的利害に基づくものもあったが、15世紀末イタリアを舞台に繰り広げられた所謂イタリア戦争では、フランス、スペインといった国家統一を達成した国々の強さがはっきりと示された。14,15世紀の200年間に生じた国政上の変化に注目すべき理由はここにある。
・皇帝権・教皇権と地域的諸権力: 11-13世紀のヨーロッパ世界を全体として秩序付けていたのは、神聖ローマ皇帝権とローマ教皇権を二つの中心とする楕円的政治構造であった。すなわち皇帝権は全ヨーロッパの封建的君臣関係の頂点に立ち、教皇権は聖(17)職者教階制の頂点に立つという想定は当時の人、例えばイングランド王ヘンリー3世の態度にも見られる。他方では13世紀には、上述のようなヨーロッパ規模の秩序からは一応独立して、諸地域ごとに地域的な権力構造が成立していたのも事実であった。ところが13世紀半ばの神聖ローマ皇帝位の空位期と、14世紀はじめに起こったフランス・カペー王家とローマ教皇ボニファティウス8世との闘争、即ちアナーニ事件とを契機に、二つの普遍的権威は共に低下し、権力体系のバランスが崩れるという危機が生じた。そこで以後に続く時代には、ヨーロッパ全体規模での秩序の再編が必至となったのである。 ・封建国家と身分制国家の構造: (18)[教科書の説明。ヨーロッパ中世社会の近代化過程の説明]:(A)商品の生産と流通が盛んとなり経済活動の範囲が広がるにつれて都市の商人は地方的に割拠して商業の邪魔になる領主に対抗し、新たに国王と結んでその支配下に入った。(B)こうして13世紀以後のイングランド、フランスでは国王の経済力が強められ、封建諸侯の力を弱めて中央集権化を推し進める事ができた。これに対しドイツ、イタリアでは貨幣経済や社会の発展の仕方が地方ごとにばらばらであったり(ドイツ)、都市の発展が国内の商品生産に基づくというより、中継貿易に大きく頼っていた(イタリア)。
このため国内には政治的統一を生み出す広い経済的基盤が形成されず、依然として封建諸侯や都市の勢力が強かった。(C)新たに貨幣を手にしたイングランド、フランスの国王は13世紀頃から一部の貴族や市民による官僚制を作り始め、また国王の直臣にしか命令の及ばない非能率的は封建軍隊に代わって傭兵軍隊を使用し始めた。こうして国王は封建貴族から流血裁判権を奪い、国王直轄領域を拡大して中央集権化を開始し、封建社会は次第に崩壊に向かった[とするものである]。 これらの説明の特徴は①商品経済の展開は広域経済を目指すから、政治的中央集権化を志向するものである、②商人は国王と結ぶものである、③国王は封建貴族から権力を奪うものである、という3点が自明の前提とされている事である。しかも国王による中央集権化は官僚制の創設と軍制改革によって進められるとして、正に16世紀以後の所謂絶対王政期の国政上の特徴を14,15世紀に遡らせて説明に用いている…。これに対して14,15世紀を身分制的国政の時代として、独自の歴史的意義を認めようとする説明の仕方がある。[それによれば]14世紀初めまでに皇帝権、教皇権という普遍的権威の衰退が不可避となった根本的理由は、13世紀を通じての、イングランド、フランス、ドイツなどの地域に見られる「国家の緊密性の増大」であり、それは国王による封建的支配体制の一元的整序、国王による直轄支配領域の拡大、治安立法の強化による封建所領への王権の浸透と言う現象として現れた。言い換えれば通説が、交換経済の発達が封建領主制を衰退させ王権を強化するとみなし、13世紀から14世紀への国政の発達を漸進的に捉えて居るのに対して、堀米説は、13世紀における交換経済の発達は必ずしも領主制を衰退させるものではないこと、他方、王権はこの段階では錯綜した封建関係を一元的に整序するべき権力たるに留まる事に注目して、これを封建王制の段階と呼んで、14世紀以降の段階とは異なる事を主張したのである。…
・軍制上の変化(20): 封建的国政の衰退を説明する際、必ず引き合いに出されるのは封建的軍政の衰退、或いは王権による近代的軍制の整備である。封建契約によって主君から臣下への封土の供与と交換に、臣下が主君に提供する軍事奉仕を体系的に組織する事によって成立していた封建的軍制は、地域に定着し領地経営にいそしむようになった封臣たちが、軍事奉仕の金納化を望んだこと、あるいは結成された封建騎士団を一定地に留保し戦地まで移動させるよりも、戦時にのみ現地で傭兵を調達し軍団を編成する方が指揮者にとっては有利な場合もありえたことなどにより、13世紀半ばまでに大きく変化し、14世紀半ばまでには事実上、封建軍の召集は消滅した。したがって14,15世紀の軍制は制度そのものも、またそれを生み出した社会的背景の点でも、11-13世紀の軍制とは異なっていたといってよい。 14,15世紀の軍政についての教科書的見解によれば、上述のような傭兵の動因、鉄砲の採用などにより、騎士(21)軍の存在意義が低下し、封臣とりわけ陪臣層が没落する一方、都市や商人からの献金などによって経済的に豊かになり、傭兵への給与支払い、鉄砲の購入などがしやすくなった国王の地位が高められた。しかし軍制の変化と封建領主階級の運命あるいは国王と諸侯との力関係の変化とは、区別して考えるべきであろう。14,15世紀における軍事史上の大きな変化は、与平軍団(コムパニ)の大量出現と、国王や諸侯がこれらの軍団との割符契約(インデンチュア)によって軍事力動因を行なう方式の導入である。軍団の指導者達は戦士を率いて国王・諸侯や都市との間に有給で半年から数年間軍事力を提供する契約を結んで、雇い主のために働くが、期間終了後は次の契約までの間略奪を働き、住民に多くの被害を与えた。…有償で提供するように制度が改められて、兵を集めて王軍に提供する指揮者としての諸侯の軍事上の地位は大きく代わる事は無かった。

法と権力2

(2)中世国家の特質ー法の優位 (137)若し中世の政治思想の特徴と看做しうるものがあるとすれば、それは「適法性」の果たす卓越した役割を重視している事である。…中世の法解釈は「法はその起源のゆえに国家と同等の地位にあり、またその存在のゆえに国家に従属していないと言う考え」、「国家は前存する不変の法の理念を実現する使命を負って居るという確信」に満ちている…。まさしく「最高権力にとってさえ乗り越えられない法律上の境界が存在する」という点に、ローマの国家間とは大きく異なる姿勢が中世にはあった[とする意見がある]。ローマ人もまた国家を法との関連で理解していたが、彼らにとって法と国家は相関的な観念であって、両者を引き離すのは絶対に不可能であった。これに対し中世人にとっては、国家と法は、互いに緊密な関係にあるとは言え、全く別個な二つの事柄であったばかりでなく、国家に基礎を提供するために法が国家に対して優先権をもつと理解される必要があった。 さて、ダントレーヴによると、上のような法と国家の関係についての中世世界とローマ世界の相違を理解するには、12世紀にまで遡る、教会法の大集成である『グラティアヌス法令集(1140年ごろ)』の序論の中に見(138)られる若干の定義を読むだけで十分である。最初の定義によれば「人間は二つの法によって規律されている。すなわち自然法によるのと慣習によるのとである」。自然法と実定法との相違は、ここでは普遍的で無限に強制的な諸規範と、一定の人間社会に固有の慣例(=人定法)との相違として提示されている。しかし別な箇所での定義によれば、人定法はただ単に慣習からのみなるのではなく「法律」からもなるのであり、また語の厳密な意味における法律は「成文法規」ではる。にもかかわらず、その一番奥深い本質において人定法は何よりも先ず「慣習法」であって、実定立法は「慣習法」を何か特別の目的で文章化する手段にしか過ぎないと。
このような定義から、中世の政治理論の出発点となる特有の法律感の本質的特長が明らかになる。すなわち中世においては、法は、ローマにおけるように立法者の自覚的で決然とした意志の創造行為に負って居るのではなく、集団生活の一面でありあり、慣習や慣習の全体と看做される。そして立法行為はただ単に、一定の社会において暗黙のうちに受容されていた一段の規則(慣習法)の、成文化による承認として描かれるのである。 …重要なのは、このような観念が、極端に単純化された大変に古い社会制度観、すなわち、遠い昔の慣習や伝統が宗教的色彩を帯びており、また畏敬に近い崇拝と敬意の対象となって居るような、原始人に特有の見方に明瞭に一致していると言う事実である。その上このような観念は、社会生活の優れて静態的な理解を特徴としており、その結果法は、人間の改善のために彼の手に委ねられた手段と看做されるのではなく、神秘的且つ超越的な力が人間に押し付けた制限として現れる。 こうして、ローマ人が慣習法に対する成文法規の優位を公言していたのに対して、中世においては逆に、実定立法は最早既存の慣例の承認や確認でしかなく、この非個人的な最高の慣例が、一切の政治権力の源であると同時に制限ともなるのである。 (139)「法の優位」の原則は以上のような意味において理解されるのであるが、ダントレーヴによると、この原則は中世の国家間を理解する上での出発点となる根本原理である。[中世においては]「国家」という言葉は何処にも記載されていない。言及されているのは常に、法律によって縛られ、またその権力が法律によって厳格に条件付けられている統治者だけである。…「国王は人間にではなく神と法に服さねばならない。何となれば、法が国王を作るのであるから」。そして、中世の政治理論において法の非個人性と権力の個人性がこのように奇妙に結びついている事から中世国家の特質を為すさまざまの結果が生じて居るが、ダントレーヴによるとその中でも特に重大なのは次の三点である。
恐らく一番重要な結果は、権力が制限されかつ責任あるものとしてのみ理解されえたという事である。統治者は法の執行者に過ぎなかったがゆえに、権力は制限されていたのであり、また法は統治者と被統治者を結ぶ相互の義務を表していたがゆえに、権力は責任なるものとされていたのである。そしてこのような観念は、統治者と被統治者の関係が君主と家臣の典型的な封建関係として理解されていたと言う、国制上の現実に深く根をおろしている。というのは中世の君主が「古き法」を守り、自身も遵守し、且つ執行させる事を約束した義務的宣誓によって、この関係が認められ裏付けられていたからである。こうして国家は、若しこの言葉を権力の行使と理解するならば、それは「法の優位」と言う堅固な岩に根拠を置いていたのである。 第2の結果は、権力の「私的」行使と「公的」行使の間に明確な区別が存在していなかった事である。…このような「公」「私」の混同は、ただ単に封建的社会組織の出現だけによるものではなく…(140)慣習法に由来しない普遍法規の責任を負いうるような主権的「国家」はまだ存在していなかったのである。 上と並んで第3に、宗教問題と政治問題の混同もまた、ある程度私的領域と公的領域の区別が存在していなかった事に由来していたと言える。前に見たように、中世においてres publicaはキリスト教世界を意味していた。しかしこの「キリスト教国家」は現代用語で「国家」と「教会」と呼ばれているところのものの特徴を持っていて、ただの国家ではなかった。したがってその内部においては精神的ないし宗教的関係と物質的ないし世俗的関係がはっきりと区別されておらず、統治者が遵守して起用する事を誓っていた「法律」がもっぱら世俗的な法律だけではなかったのは驚くにはあたらない。つまり、国家の固有の性格は、はっきりと定義され完全に独立した諸関係の全体と言う特徴としてはまだ認められていなかったのである。 ダントレーヴによると、中世国家はおおよそ以上のような特質を持っている。そして、中世の政治思想はやがて実際上の必要と重要なイデオロギー上の要因に刺激されて、それらの特質を凌駕していく。

法と権力

木村尚三郎他編『中世史講座 第4巻 中世の法と権力』(学生社・1985年)
五 ヨーロッパ中世国家の構造 下野義朗 (122)(1)中世国家の権力構造史的把握:…封建制と王制との関係構造的に捉えるならば、封建制がその政治的秩序形成の機能を最も良く発揮した13世紀こそが封建王制の時期であり、またそれは同時に封建制の最盛期でもある[とする見解がある]。従って13世紀における中世封建制国家の完成は二重構造を前提とした封建的階層序列の完成を意味する事になる。…(123)[他方]13世紀における封建王制の確立は実質的には封建制の「自己克服の過程」に他ならない[とする意見がある。即ち]7ないし9世紀に典型的な形で成立する「三重の構造」(領主直営地、非自由な貸与地、自由な貸与地)をもつ古典的グルントヘルシャフトこそが封建制社会を構成する基本的単位=細胞であって、そこにおいて初めて統一的農奴身分が成立し、本来の意味における領主権力が形成される。そして、下から自然発生的に且つ全く無秩序に形成されたこれらの領主権力を一つの権力秩序に組織立てて行く機能を果たしたものの中でもっとも重要なものが封建制(レーン制)に他ならない[というものである].
2.中世国家とは何か(130) [国際法の権威ダントレーヴ]によると、我々の日常用語において「国家」と言う言葉は(1)個人の意志に優越して命令を与え且つ執行せしめうる力、(2)一定の手続きに従って行使される権力、(3)権力の行使を合法化し正当化する権威(131)という三つの意味で用いられている。そしてこのような意味に対応して、国家の問題への取り組み方が異なってくるというのである。…     (1)国家の概念史(132) 古代と中世の著述家がポリスやレス・プブリカ、あるいはcivitasやregnum(133)などの様々な述語を用いて正確に述べようとしている事態を表現するのに、今日一般に「国家」と言う近代後が使用されている…。[ダントレーヴによれば]古代と中世の著述家達が政治上の題材を扱うときに「国家」の代わりに様々の言語を使用したのには2つの理由があった。その第一の理由は、彼らが当面していた状況がそれぞれの場合に異なっていたという事である。先ず、古典時代のギリシャにおいて政治経験は都市国家ポリスに要約されていて、ポリスは公益の最高の表現であり、精神的価値の化身であった(プラトン、アリストテレス)。しかしこのポリスは単に「国家」とは翻訳されえないものであって、その中で人間の一切の運命が動いている教会=国家であった。序でローマ時代には、都市国家と言う狭い視野からあふれ出て帝国と言う普遍的理想の地平が開かれたばかりでなく、国家間の中に法的要素が導入される。こうしてres publicaの定義では、力点は国家の目的から国家の構造そのものに移って、法が政治社会を他の一切の人間社会から識別する特性(キケロ)となる。最後に中世においては、政治著作の中にres publica, civitas, regnumといった術後がしばしば見えて居るが、それらの言葉の意味は、殆ど同一の意義で用いて居るアウグスティヌスを除くと、適用される状況や、人間社会の非常に多様な形態と型に応じてことなっている。
すなわち、civitasは都市国家に関係しているのが普通であり、またregnumは王国を表現し、最後にres publicaは多くの場合王国よりも大きな共同体つまりキリスト教世界を叙述するのに留保されている。…第2の理由は、この「国家」という言葉が一定の正確な意味をまだ獲得していなかったという事実にある。… (134)彼らが一般に依拠した便法はポリスについてのアリストテレスの概念を拡大して、都市国家と王国を唯一つのカテゴリーに含ませる事であって、中世の資料の中でポリスは一般に「civitasないしregnum」と訳されている。ついでアリストテレスの『政治学』が再び読まれ研究された13世紀中頃以後、政治思想は根本的な修正をこうむって、力点と関心はキリスト教共同体の統一性から、この統一体の分裂から生じた複数の個別共同体、つまり都市国家と王国に移る。そしてこれらの個別共同体のそれぞれに、アリストテレスがポリスに留保していた「自給自足可能な完全な共同体」の特性が付与されたのである。そしてダントレーヴによれば、この「完全な共同体」と言う表現は中世の政治用語の中では近代的国家間に一番近い表現である。しかし「新しい状況」に概念上の枠組みを提供する言葉が最終的に発見されるのは、要約ルネサンス期に入ってからの事であると言う。… 「国家」Etatという言葉の起源は、存在の様式ないし条件を意味するラテン語のstatusに由来する。…スタトゥスは、教会や帝国或いは王国などの特殊な共同体の、繁栄とか安寧とかよき秩序を意味している。しかし、このよう(135)なまだ曖昧で一般的な意味のほかに、もっと正確な二つの用例があった。その一つは、スタトゥスと言う言葉によって特有の社会的乃至経済的条件、従って個人を他と区別するカテゴリーないし階層を表現している場合で、これが現代フランス語の身分etatにつながる。スタトゥスという言葉のいまひとつの意味は…「一定の共同体の法的構造」を示すのに用いられている。
この意味はローマ法の『学説集Digesta』の中の公法jus publicumの定義ー「ローマ国のスタトゥスに関係するところのもの」-から着想を得たようであるが、その起源は兎も角として、ラテン語のスタトゥスとイタリア語のstatoは、中世において次第にこの意味で使用されるようになってくる。…ダントレーヴによると、マキアヴェリの『君主論』の中に、「国家」という言葉が新しい意味で用いられている決定的な証拠が見出されるのは間違いない。…本質は常に同一であるような政治上の「集合単位」を示すのに用いられている…。こうしてマキアヴェリにおいては「国家」という言葉は、一定の領土内で一定の人民に対して力を行使したり、力の使用をコントロールしたりする権能を与えられた組織体の意味で用いられているのである。

農業の展開と村落3

4.共同体の構成と機能 村落共同体の構成要素としては、先ず農民経営の基本的労働力を担っていた家族を挙げなければならない。中世ヨーロッパでは血族集団としての大家族は消滅していたが、祖父母と父母のほかに、父の独身の同胞と子供達が同居するような家族共同体は珍しくは無く、祖父が壮健な間は、彼が農業経営の統括責任者としての課長的権威を保っていた。祖父が死に、成年に達した父の同胞が結婚すると、2世代からなる単婚小家族になるが、長男に妻子が出来ると元の家族構成に復帰する事になる。 これとは別に、バルカン地方やフランスの山国では「黙約共同体」と呼ばれる集団があった。これは親戚関係にある多くの小家族が一族の経済運営を共にするもので、「同じかまどの火となべ」の周りに、そして不分割の同じ耕地に寄り集まった親族集団の事で、11世紀のバイエルンではその成員数は50人に上ったという。… 6世紀から11世紀頃までの農民家族は曽祖父母を共通の先祖とするような複合家族集団が一般的であったらしく、また血族間の団結はより強固だったに違いない。…また若干の農民家族は時としては、1,2名の奴隷を抱えて居るケースもあった。… (103)このような市家族の農業経営上の単位がマンス(ドイツのフーフェ、イギリスのハイド)で、それはラテン語のマンススから派生した言葉である。マンスは一家族の経営単位であると共に、領主(或いは国家)の収税単位でもあった。それは家屋と庭畑、耕地、共同地用益権の総体を現し、地域によっても、マンスの種別によっても異なるが、概して自由マンスは5~30ヘクタールの間で、平均して13ヘクタールくらい出会ったらしい。 マンスと言う言葉は他方でより特殊化され、農民家族の住居とそれに密接した庭畑(この部分は囲い込まれ、私的所有が貫徹している)と言う限定された意味にも解されている。…この集合体が固有の意味での「村落」であり、共同体的規制を伴う耕地、牧地、森林などの「村域」とはコントラストをなしていた。
ところで11世紀以来、地域によって遅速はあるが、このマンスは極めて細分化され、またマンスの面積の不均等性(従って農民階層の文化)が表面化し、次第に家族の経営単位としても、領主による課税単位としても、その意義を失っていく。(105) マンスの分裂や階層化といった農民社会の分極化傾向にもかかわらず、農民層の統合化の機能を維持したものこそ村落共同体に他ならなかった。同じのうちを耕作し、同じ村落の中に隣り合って生活していた農民家族は、経済的・社会的・宗教的な様々な絆によって結ばれていた。 村落共同体の統合機能の強度は、既に述べたように定住様式や耕地制度のあり方と密接に関わっていることは言うまでも無い。ロワール・ダニューブ間の来たの耕作地方のように、三圃制と共同放牧を伴う耕圃制村落では、領主を含めて共同体構成員の間で恒常的で広範囲にわたる協定を必要とした。耕圃や耕区の境界設定、家畜の放牧、森林や共同地の利用、作物の種類や農作業の期日の統制などがそれである。それらの協定を通じて共同体としての連帯は増大する。沼沢地や海岸を埋め立てたり、森林を開墾したりして作られた新むらの場合にも、土地は共同の維持や監視を必要とした。 … そうした農業上の共同体規制を必要としなかった地方は、寒冷でやせた土地の散居制地方しかありえなかった。しかし、そこでも枯れ木を拾ったり、家畜を放牧したり、野生の小動物を狩猟したりするためには、やはり共同体的な慣行な(106)しではすまなかった。 ここでは中世社会史の根幹を成す村落共同体が果たした精神的・法的な統合機能に重点を置いて考えてみよう。先ず注目されるのは、古い集住地方において農民の集団化の最初の核の役割を演じたのは、荘園の領主間ではなく、小教区教会であったことである。農民達は唯一の守護聖人の元に共同生活を送る教区民として自らを意識したのであり、事実11世紀半ば以前からフランス中部ではparrochia(小教区)という言葉が荘園villaと言う言葉に取って代わっている。荘園制度の解体や平和運動の進展は、この小教区の法人格化を推し進める有力な契機となった。
村落共同体が同時に「教区共同体」としての機能を有した事は次の事実からも知られよう。教会の保護者として自らを任じた農村領主は教会の維持をおろそかにしがちで合ったから、この仕事は信徒たる教区民の連帯責任とされた。また教会やその塔はしばしば唯一の石造建築であったから、それらは防備施設としての機能も果たす事ができた。…ローヌ渓谷を望む丘上の城砦集落もその一例である。この村落はカロリング時代の一修道院の近傍に生まれた。11世紀に修道士によって立てられた丘上の礼拝堂はやがて城の本丸に変貌し、14世紀には集落全体がほぼ方形の城壁で包み込まれた。住居の大部分は12世紀から14世紀にかけて建設されたといわれている。 ある小教区の守護聖人がその地方の複数教区に関わるときは、その聖人の祭日には、隣り合った(107)小教区同士の定期的な接触をも引き起こすことになる。教会の前、或いはその周囲に作られた囲い込まれた広場は村民達の聖域とされ、集会、避難、休息の場所にあてられた。… それはいわば信徒全体によって維持・管理される農民達の最初の共同財産であった。13世紀中頃まで戦士の侵入や聖職者の横領から守るために、農民達はこの共同財産を監視した。 こうして、平和の施設であり,聖域でもあった教会とその墓地は、しばしば農民の会合の場所として選ばれ、平和の先生もそこで行なわれた。…新開地に定着した移民の集団の中に生まれた連帯感にしても、これと同様な局面の中に位置づける事ができよう。…新たな植民集落は同時に法共同体としての性格を持っており、取り分け移民が様々な地方から来住した多くの異民族の混成体であるような場合にこの傾向は強かった。たとえばカタルニアでは早くも10世紀にバルセロナ伯は奴隷や受刑者達を新たに建設した村に移住させた。更にレコンキスタの全過程を通じて、多くの民族の混在(108)は共通する精神状態を作り出すための統合作用を必要とした。
fueroと呼ばれるスペインの慣習法特許状が12世紀中頃の新村に適用されたのはこのためである。…ドイツではライン地方のヴァイステューマー、中部ドイツのハンドフェステ、バイエルンの農村法などが移民の法的・経済的条件の改善に寄与した。…慣習法特許状の内容は、それぞれの方が普及した地域によって偏差が著しく、一般的にその性格を規定することは困難である。したがってそれは「ある集落ないし集落グループの住民に特別な権利(それは様々な性格、内容を含みうる)を承認したところの、王侯または領主によって布告された特許状」として、広く捉えておく事が適当であろう。 また慣習法特許状とか自治体布告と言う形で農奴制を廃止したり、領主の恣意的課税を規制するところまで至らなかったり、或いは村落住民が事実上は共同体を形成していても、租の法的認可を獲得するまでに至らなかったケースも多い。フランス北部のピカルディやアルトワあるいはフランドルなどでは、特許状によって明文化されていなくとも、事実上村方役人が存在し 、先駆的な自治体制度が機能していたケースが少なからず見られる。… (109)村落共同体は都市共同体とは違って、慣習法がコミューン運動によって一挙に確立されるというような事は無かった。寧ろ慣習法は古い時代から徐々に形成されてきたのであり、法人格化される以前から農村は事実上の共同体として存在していた。そして法人格を与えられてからは、教区共同体としての精神的な機能に加えて、法共同体としての統合機能が古い農業共同体としての機能を補完するに至った。村落共同体はその起源の古さ、その発展の普遍性と言う意味において、R.フォシュの言うように、正に「中世社会の基礎的な細胞」であったと言えよう。

農業の展開と村落2

3.定住形態のあり方 (95)カエサルが征服したケルト系ガリア地域は、アウグストゥスの時代に南から北にかけて、アクィタニア、ケルティカ、ベルギカという3つの州が置かれ、旧来の部族組織がcivitasとされ、これが地方自治と行政上の単位となった。キウィタスの領域は広く、従来の部族の有力者が引き続き従属氏を支配し、その下部組織であるpagusとともに、それぞれの中心集落を持っていた。ゲルマン人の侵入期にそれらは防壁で市域を狭く画定し、狭義のキウィタスとなり、後の司教都市の祖形を形成していった。一方、農村部には旧来の土豪の大所領のほか、皇帝やローマの有力者の所領も現れ、それらはvillaを中心とする経営体を作り、またこれとは別に自由村落も存在していたらしい。 …がリアに見られたキウィタスやパグスという部族的な定住単位は、移動と定着と言う長い過渡期を通じて、ゲルマン人の諸地域にも及んで行ったらしい。ゲルマニアに次第にキリスト教が布教され、教区組織が出現してくるフランク時代になると、キウィタスはローマ時代からの都市的集落を含め、中心集落に司教座が置かれるようになる。それと共に、キウィタスは司教座を中心とした都市的区域と周辺農村地域に分離し、後者には(96)在郷フランク貴族の拠点となる新しいパグス(ガウ)が形成される。… (99)ヨーロッパでもっと組織化された中世村落の時代が始まるのは11世紀以来の開墾運動の展開、耕地の拡大、新集落の急増といった一連の現象を通じてである。聖俗の領主達は新しい土地に対する農民の渇望を利用して、彼らを森林、荒野、沼地の開拓に駆り立てた。ピレネー山脈の彼方のイベリア半島の広大な無主地の開拓、中部・東部ヨーロッパへのゲルマン人の植民などはその大規模な例である。農耕に適した土地が殆ど無くなったライン地方や低地地方からの移民がスラブ森林地方の征服運動の後に続いた。

しかしこの東方植民はもっぱらゲルマン的運動であったわけではなく、同じ頃、スラヴの王侯たちも似たような植民活動を組織した。 さらに、西ドイツ、フランス、イギリス、そしてイタリアでさえも、多くの沼地、森林、荒野が過剰人口に悩まされていた古い定住地帯の村々からやってきた農民達によって占有された。(100) …これらの運動に共通している事は、農業植民者に新しいタイプの保有地が与えられた事で、その保有条件はわずかな賦役、軽微な貨幣地代など、古い保有地に比べてずっと恵まれたものであった。新たな人口の定住はその地方の領主達にとって、保有地の増加分から新しい賦課租を引き出すという利益があった反面、植民者を誘致するためには様々な特権を与え、負担を軽減するように図らざるを得なかった。そしてこのような農民の条件の改善は、古い集落の農民にも反作用を及ぼす結果になった。 ドイツでは、多くの農民が植民者として東部へ向けて出発したため、労働力の減少に悩まされた12世紀の西ドイツの所領では、13世紀の判告集に継承されるような、農民にとって有利な慣習法の確定を図らざるを得なかった。フランスでは11世紀に急増するブールの法が、12世紀以来北フランスではヴィル・ヌーヴ、南フランスではバスティードなどと呼ばれる新集落の「慣習法特許状」に対して先駆的な役割を果たした。中世の集村か運動も、これらの新集落において取り分け活発であった。…(101) 古い森林地帯やボカージュ地帯に設立された集落の場合は、交通が不便で危険も多かったから、開墾者は少人数の集団に分かれて入植した。このような小集落はブールであれ、ヴィル・ヌーヴであれ、概して都市へ発展する事はなく、小規模な農民集落に留まる事が多かった。森林地方の特色的な村落形態としては、主要道路に沿って住居が列状に並び、その背後に庭畑と耕地が延びる魚骨状の「路村」がある。… 自然条件の許す限り、開拓移民は集村化の方向を選んだ。なぜなら、(102)真の共同体は密集を好むからであり、また居住の増大は領主の利益にも適っていたからである。

農業の展開と村落1

木村尚三郎他編『中世史講座 第2巻 中世の農村』(学生社・1987年)
三 ヨーロッパ中世における農業の展開と村落共同体 井上泰男
1.はじめに (86)西欧中世の農村社会を考える場合、その歴史的背景として、古代ローマ帝国領と帝国の国境の彼方にある部族制的なゲルマン社会のコントラストを念頭に置かなければならない。けれども5世紀以来、ゲルマン的な社会構造はローマ帝国のそれに近いものになり、このコントラストは次第に解消の方向を辿る。それとともに、異なった自然環境の下で生活する農村社会の地理的なコントラストの方が前面に出てくる。例えば地中海地方、フランス南西部、ラインラントでは、前期中世社会はローマ帝国の葡萄耕作を継承したし、アルプス、アペニン、ピレネーなどの山岳地方では、放牧が耕作よりもずっと重要であった。また東ドイツ、ポーランド、ロシアなど厳しい大陸性気候の元にある地方では、ライ麦が基本的な穀物であったが、島国のイングランドでは、春巻き穀物を令にとっても大麦、オート麦、そして野菜と言うように農業生産はより多元化していた。 このような異なった自然条件にもかかわらず、ヨーロッパ中世の農村経済は基本的に穀物耕作と家畜飼育を並存させる混合農業ないし有畜農業であるという点では共通していた。勿論耕地と牧地のバランスは自然条件、人口の圧力、並びに耕作の伝統によって様々に変化したことは言うまでも無い。 (87)アルプス以北のヨーロッパ内陸部では元々森林や原野が卓越し、耕地はまばらな居住地帯の周辺部に限られていた。9世紀頃に始まる初期の開墾運動で作られた村は、普通樹木が密生した原始林よりも茨や雑草のおい茂った草地や原野の中にあった。一方、森の中を歩き回っていたのは猟師、炭焼き、鍛冶屋、野生のミツバチやロウの採集者、ガラスや石鹸の製造に用いる灰つくり、皮なめしや網を編むのに用いられる樹皮のカワハギ人といった人たちで、彼等は普通農民とは隔たった生活空間を作っていたようである。 だがこれら森の住民も、大工や左官や陶工のような移動生活を送っていた中世の農村職人も、仕事が暇な季節に生活が可能なように、僅かではあるが土地を保有していた。
開墾が進むに連れ、これらの人々は近傍の農民共同体に次第にどうか・融合していく傾向が見られた。この傾向は耕地面積が増加する11世紀中頃から13世紀末頃に顕在化していった。ぶなやカシなどヨーロッパ特有の広葉樹林がどんなに豊かな恵みを中世の農民生活にもたらしたかはよく知られており、開墾と植民の運動が進展したからといって、森林とその資源を根絶やしにするようなことは無かった。こうしてヨーロッパは本格的な定着農耕の生活に入っていくが、それと共に農民生活の社会的な枠組みとしての村落共同体も、わずかな農家戸数のルーズなまとまりに過ぎなかった原初村落から、もっとコンパクトに住居の密集した地縁的共同体(中世村落)へ成長していく。子の村を数個または十数個、その支配と保護の中に抱え込んだ有力領主の城は、取り分け封建制が典型的に開花したライン・ロワール間の地域に群立してくる。 中世前期の荘園の領主達は、この有力領主、すなわち城主に臣従礼をとってその臣下となり、自由農民は自分の所有地を城主に寄託してその隷属民となった。城主の所領(シャテルニー)は城主の直轄領と城主の臣下の封土(騎士領)から構成されているが、それら単位所領の基礎にあるのが村であり、之を生産力発展の場とする村落共同体は村の領主と対抗しつつ、その自立性を高めて行く事になる。[以下]1.中世開墾運動の前提となる技術上の革新とそれによる農業生産力の発展。2.風土的条件とのかかわりにおける定住様式や農業制度の諸相。3.村落共同体を構成(88)する社会的諸要素並びに共同体の果たした社会的諸機能などを順次検討する。   2.技術革新と農業生産: 中世初期のヨーロッパでは概して技術上の進歩は緩慢で、地域的にも不均等であった。しかし11世紀以来進歩のテンポは少しずつ加速化され、12世紀の社会のルネサンスをもたらす原動力となった。大開墾運動の展開もこの技術革新に負うもので、木を切り倒す強力な斧、藪や下草を刈り取る鉈や鎌、川で運ぶいかだに丸太を揃えるのこぎり、木の根や切り株を取り除く鉞、滑車、犂といった道具が、大樹海に人間が食い込む事を可能にした。
このような道具の改良は、何よりも冶金術の進歩のお陰である。カロリング時代以来、鉄の溶鉱に当たって水力を利用したふいごによる通風と言う方法が考案され、これが火力を強めてより良質の鉄を生産する事を可能にした。この方法は馬鍬、犂、斧、鎌などの道具の改良に役立っただけではなく、ガラス、レンガ、陶器、そして耐火粘土の生産にも大いに貢献した。 フランドルのリルの王領荘園のような農業の先進地方では、金属製の農具がカロリング時代に出現している例も見られる。しかし当時は金属器の使用は先ず持って戦士階級に独占されたから、農村に鍛冶屋が出現して、鉄製の刃を持った農具が普及していくのは一般には9世紀と13世紀の間の事であった。蹄鉄工、金物細工人、鍛冶屋といった人たちは農民社会の中で選ばれた地位を占め、彼らがもたらした技術的進歩は農民の生活条件を大きく変えた。 R.ヒルトンは中世の村の鍛冶屋を次のように描いている。「彼は有輪犂や荷馬車の必要部分を鉄で作り、修理し、馬や牛に蹄鉄をつけ、半円形の鎌や長柄の鎌、斧やナイフを製造したり研いだりし、家の建設に必要な釘ややっとこを提供した。村の全生活は火事場の周りに集中し、そして大事なことは、鍛冶屋の技術の秘伝は、彼に半ば魔術的な威信を与えたことである」と。 (89)農具の改良で特に注目されるのは犂べらとか犂刀のように、少なくとも主要部は鉄製の大型の重量有輪犂(カルカ)が登場してきた事である。これこそ一つの革命といってよいもので、それはヨーロッパ北方の重く湿った土壌によく適合し、農民はこれによって肥沃な土壌を深く掘り起こす事が可能になり土地の生産性が高められた。同時に新型のこの重い有輪犂は多くの家畜力を必要としたから、個々の農民には高いものにつき、村落共同体による農業の共同化を促進した。… 牛馬に荷車やカルカを繋いで引っ張らせる繋馬法も著しく改善された。馬の索綱は従来のように直接首に掛けるのではなく、肩に掛ける方式に改められた。
これによって馬耕能力は倍化されただけではなく、馬は交通運輸の目的にも使われるようになった。また牛の索綱用のくびきはこれまで肩と首の中間あたりにあったが、これを前額部にあてて、牛の牽引力を高めるように工夫された。更に牛馬を縦に何頭も繋ぐ縦列繋駕法も考案された。 主要な役畜として、牡牛の変わりに馬が導入されるのは、蹄鉄の発明と馬糧としての燕麦の栽培が前(90)提条件であった。馬耕が西欧に普及し始めるのは11世紀以来で、北フランス、フランドル、ロレーヌなどの平野部では、13世紀始めには牛から馬への転換が一般化している。こうして犂耕のスピードアップと犂耕回数の増加が可能になり、農業生産の向上を促進した。 犂の革命は耕地の形状にも影響を及ぼす。何頭もの家畜を縦に繋いでひかせる重量有輪犂の隊列はそう簡単に方向転換できるものではないから、出来るだけ細長い帯状の地条からなる耕地が要求される。これらの耕地片は各農民の持ち分に属し、従って保有関係は複雑に入り組んで居るが、全体としては一続きで開放されて居ることが多かった。この共同の大解放耕地は普通三つの耕圃として組織され、その一つには夏穀(大麦、燕麦、所によっては豆類)を春まきし、他の一つには冬穀(小麦やライ麦など)を秋播きし、残りのひとつは休作して家畜の放牧に充てる。この順序を一年ずつずらして三年で一巡させる方法が三圃農法である。刈入れが終わった後の耕圃ではまず落穂ひろいが行なわれ、ついでそこでも家畜が共同放牧された。 開放耕地での播種や休作時の利用については共同体の慣行を守らなければならず、落穂ひろいにしても、また共同放牧における家畜の種類や頭数にしても或いは耕地の彼方に広がる森林・原野などの共同地への立ち入りについても、村の慣習法上のおきてを守らなければならなかった。いずれにしても、こうした事が中世村落の内部における本質的な共同体的慣行であり、三圃農法はこの慣行に最もよく適合していた。三圃制は肥沃で平坦な土地に恵まれた農業の先進地方(ライン・ロワール間の王領や大修道院領など)ではカロリング時代に既に実施されていたようであるが、一般に広まるのは11世紀から13世紀にかけてであった。
地中海地方では三圃制は殆ど発展せず、ローマ時代からの二圃制が優位を占め、北方の重量有輪犂にかわって、牛やロバやラバが引く無輪犂で土地を浅く耕していた。また都市に近接したところでは、古代以来オリーブや葡萄が栽培され、土地は個別的に囲い込まれ、共同体的慣行が制度化される余地は無かった。 ヨーロッパ内陸部でも、森林や原野が支配的な地方では、土地制度は三圃農法のような古典的な形を取らず、はるか(91)にルーズであった。家の周囲の野菜畑は恒常的に耕作されたが、大原野の中の藪を切り開いて作られた耕地は数年間耕作された後は放置され、荒れるに任された。つまり耕作用の空き地は絶えず移動していたわけで、こうした耕作様式の変種は近代初頭まで、ピレネー山脈からイギリスのケルト人高地地方にかけて広く分布していたようである。こうした地方で耕作用の空間が限定され、各種の輪作形式が生まれ、共同放牧や入会権などの共同体的慣行が定着していくのは、森林や原野が開墾され、耕地面積が増大する過程を経なければならなかった。…そのほかにも農民生活の効率を高めた道具、たとえば巻轆轤を用いた葡萄などの圧搾機の考案もあるし、農民生活に豊かな展望を開いた水車や風車のような発明もあった。特に風車と水車が農民をわずらわしい製粉労働から解放し、耕作の仕事に専念できるようにした意義は大きい。 風車はカスティリアでは早くも10世紀に使用されているが、西欧の他の地域に普及するのは12世紀以来のことである。製粉のために風力を利用する方法が伝わったのは、当時としては進んだ農業技術を持っていたイスラム教徒を介してであろう。その意味では、風車はシチリアの綿花、精糖、養蚕の技術などとともに「南方からの刺激」に負って居るとも考えられよう。いずれにしても、それは北方のイギリスやオランダなどにも広まり、長期にわたってヨーロッパの田園風景に欠かせない点景物となった。 風のむら気に影響されない水車はこれよりも更に強力で、またより広い範囲に広まった。
水力エネルギーのこの目覚しい利用法は、人力を節約する必要のあった中世の誇るべき技術革新で、これによる製粉技術の進歩は定着農耕社会への本格的な移行を示している。製粉用の水車は11世紀頃まではそれ程普及しなかったが、回転運動を往復運動に転化させるカム軸の発明ないし再発見によって、11,2世紀以来普及して行った。11世紀末イングランドではおよそ3000の地方に5600以上の水車があり、同時代のフランスではその10倍の水車があったといわれる。 水車は製粉ばかりではなく、様々な分野に応用された。鉱石や金属の圧延、刃物の研磨、織物の縮充、灌漑や製油、(92)麦芽の製造、ビールの攪拌などがそれである。 水車は領主独占に関わり、バン権(罪令権)に由来するバナリテ(領主独占による使用強制、他にもパン焼きかまどや葡萄の絞り機などがある)の主要な一環を為すものであった。水車小屋を経営したのは領主と特別な契約を交わし、種々の特権を与えられた粉挽き人で、農民は自家用の穀物をひくためにも使用料を支払って領主の水車を利用させて貰うほかは無かった。その際農民から徴収された水車使用料は領主経済にとって少なからぬ財源になったが、農民経済の側から見ても、従来の手挽きの石臼による製粉労働から解放された労働力を他の農業労働に振り向けられるという利益があった。 以上のような技術革新、取り分け三圃制の普及によって、農業の生産性も著しく向上した。[播種量に対して2~8倍。平均して3,4倍]… (93)こうして西欧中世の農業革命は必然的に「商業への農村の参加」を伴う事になる。この現象は農業における技術的変革の結果であると同時に、その原因でもあった。取り分け11世紀から13世紀に賭けて発展しつつある都市の農産物に対する需要の増大、周辺農村に対する都市の影響圏の拡大に注目しておきたい。13世紀に人口3000人の都市が存立できるためには、1000トンの穀物を生産する3000ヘクタールの耕地が必要であったといわれる。
商品流通に農村が巻き込まれていった指標のひとつは農村の週市や定期市の増加で、この現象は西欧のいたるところに見られたが、イタリアのような例外もある。ここでは10世紀に数多く存在していた農村市場は、農産物の取引の大部分が都市に集中した結果、衰退してしまった。 これに対し、フランス各地では11世紀から13世紀にかけて増殖した開墾系の新村は、多くの場合「地方市場町」としての性格を備えていた。… ところで、農業技術の革新と農産物市場の拡大は他方で農業生産の性格そのものにも大きな変化を引き起こす。J.(94)ブゥサールは11,2世紀のアンジュー地方について、農業技術の進歩を証明するブドウ栽培の発展、アンラビに穀物生産における燕麦と小麦による大麦とライ麦の駆逐、そして農民経営の文化と地方市場の成立と言う諸現象を統一的に説明している。このような経済的発展の背景には、アンジュー伯による政治的支配権の再編成過程があったことも忘れてはなるまい。 一般に中世前期の西欧農業は、穀物生産を主軸とする食用作物の多作経営と言う性格を持っていたが、それは不作の危険を回避するとともに、地方内自給経済の必要に応えるという事情によるものであった。しかしいまや都市消費市場の発展と共に、商品流通に対してより良く開かれた地方では、多作経営を完全に放棄しないまでも、その生産物の大部分が流通に振り向けられ、農村外市場に販売されるような商品作物の生産を主体とする「主作経営」へ転換していった。

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三。民衆的想像世界と社会   ・農村・都市の発展と普遍的イデオロギー: 第一に指摘しなくてはならないのは、農村と封建領主の台頭である。紀元千年を越えると、西欧の経済・社会の(248)構造は大きく変容した。大規模な開墾運動によって森林は征服され、次々耕地に変えられて行く。更に技術革新のお陰で農業生産力が増大すると人口も増え、農村は嘗て無い活気を呈するようになる。また農村の社会的組成は次第に複雑化するが、それは世俗・教会双方の封建的権力の網の目にとらえられて、新たな秩序が作り出される事になった。ここに成立した新しい社会構造は、俗人貴族の封建的主従関係のピラミッドと、世俗ないし教会領主に対する大多数の農民の土地と労働を媒介とした従属関係たる領主制を基本としていた。そして社会構造の細胞ともいえる農村は、概ね教会とその司祭を中心とする小教区と重なっていた。 さて、一つないし複数の農村を支配する領主のうちには、次第に力を蓄えていくものが現れる。彼らは、新たに起こした家系の正当性を公に認めさせるために民衆文化を利用する事に思い至る。メリュジーネなどの妖精物語や動物への変身譚、或いは英雄や古代都市を巡る伝説などが、そのための好個の素材となった。そうした口頭伝承は、読み書きの出来る聖職者によって書き留められ、記述と口伝を繰り返しつつ領主層・農民層に伝播していく事になった。教会は、建前としてはそこに迷信や異教の残滓や悪魔の惑わしをしかみないとしても、この時代には、多くの聖職者が、民衆が作り上げた美しくも不可思議な世界に魅惑されたこともまた確かである。民衆とエリート両者の間の思惑のずれや対立、そして融合の試行錯誤は勿論あったが、いずれにせよ貴族と農民を包括した農村生活の活性化が、脅威の世界歴史世界への関心を呼び覚まし、盛期中世において「民衆的想像世界」を育てていく第一の機動力となったのである。
 こうして端緒を得た「民衆的想像世界」は、12-13世紀に本格的展開を見せる。それは、普遍的な権力のイデオロギーによる想像世界の統合・組織化をスプリング・ボードとしている。これが、第2の要因である。フランスを例にとれば、国王は、一連の組織改革を経て諸侯達の影響力を骨抜きにし、封建制によって分断された地方主権の多元性を克服して、徐々に中央集権化を実現していった。それは12世紀末から13世紀に掛けてのこと(249)であり、その結果、法生面ではばらばらの慣習法がローマ法の影響を受けた制定法によって統一され、と同時に社会の上層から下層へと、順々に習俗の洗練の機運が高まる。それを精神面で補完したのが、教会のイデオロギーと霊性であった。いや、「民衆的想像世界」の展開にとっては、こちらのほうが必須のものであった。既に10世紀末の「神の平和」「神の休戦」で素描された普遍的なキリスト教的秩序追求は、11世紀後半以降、「グレゴリウス改革」や十字軍の遠征で一段と活発化する。13世紀には教会の中央集権化は完成し、それを裏打ちする教会法と神学も体系化する。一般信徒の中には、改革的教会人以上にラディカルなキリスト教世界の表象、すなわち、福音主義使徒的生活の理念を掲げ、清貧に徹する平等な信徒達の共同体としてのキリスト教世界像を信奉する者が現れた。とにかく、この時代に登場した、教権と俗権を包括する一つの普遍的なキリスト教世界こそ、「民衆的想像世界」の登場人物たちがそれぞれ意義深い役柄を演じながら縦横無尽に活躍する最大の舞台であった。 第3の要因としては、11世紀末ないし12世紀初頭の都市の復興をあげねばならない。都市の復興と市民生活の発展は、「民衆的想像世界」をより豊かにするとともに、やがてその変容をもたらす原因にもあった。
都市では、商人や職人と言う、土地の呪縛から解放され、思うまま富を追求する新たな社会層が生み出されたが、13世紀になると、農民とは全く異質の価値観や生活様式を持つ彼らと市民を対象とするインテンシブな司牧活動が、ローマ教皇の唱導によって展開する事に注目したい。それを主として担ったのは、托鉢修道会である。托鉢修道会は、その修道士たちが市民出身でしかも布教対象であるという、全く新しいタイプの修道会であった。信徒個人個人の内面を隈なく把握しようと言う教会当局の方針は、遂には1215年の第4回ラテラノ公会議における告解と聖体拝領の義務化に結晶する。こうして教会は、「民衆的想像世界」にも、折からのスコラ学を特徴付ける厳格な論理と倫理を注入し、更に合理化して、自分の懐に回収しようと図ったのである。「民衆的想像世界」は秩序立てられ、善悪の無造作な混合を阻むようになる。 (250)このように、盛期中世(11-13世紀)においては、農村でも都市でも民衆文化とエリートのキリスト教のより緊密な接触が見られた。両者は相互に検閲・加工しあって融合し、こうして西欧社会独自の普遍的な「民衆的想像世界」が誕生し、発展する事となったのである。… 後期中世の都市では、俗人がより積極的に、宗教生活において大きな役割を果たすことを要求し始める。教会はそれゆえ、都市においては権利や財産の侵害とともに、教義の侵害(異端)にもおびえる事になる。都市での市民の活発な信仰生活は、世俗文化の開花とあいまって、キリスト教世界と並んで都市が「民衆的想像世界」の参照系となることを赦すであろう。都市の建設神話がさおうだし、都市のコスモロジーを確認する行列や祭りの盛況、さらには国王にまつわる諸儀礼の発達もその証拠となろう。
 都市で生活するエリート達にとっては、世代を重ねるごとに、農民起源の迷信はますます理解の手の届かないものになる。都市が成熟し、周りの農村とははっきり異なった世界となると、相互の無理解と不信と侮蔑の感情が募ってくる。都市のエリートにとっては、最早、農村にすくうキリスト教と無関係な異教の残滓を「迷信」としてのろうことが問題なのではない。農村に巣食って居るのは、より由々しく、人類全体を脅かす悪魔の手下達とそのたくらみなのである。そして「迷信」のほうはといえば、その領域は異教からキリスト教内部に移り、正統な慣行の最中に侵入する涜聖行為の謂となる。即ちそれは、教会や墓地における聖性の侵害を指し、具体的に派生なる祝祭日を無視した生活態度や聖油の売買等々を意味するようになる。疫病や戦乱にひっきりなしにさいなまれた中世末になると、既に名ばかりの普遍的権力となった教会は、その権力・権威の無謬性・善性を裏付けるために、それ以前には幻覚に過ぎないと否認していた異教的表象を手のひらを返したように現実だと言い張る。しかも自らその現実性の保証人を買って出るとともに悪のレッテルを貼って裁く、(251)という原告と裁判官を兼ねたような捨て鉢な手段にすがる事になる。また他方では、市民が俗語文学や演劇などの都市文化を育んでいき、想像世界にも彼らの投射したイメージが大きな比重を占めるようになってくる。彼らはグロテスクな、滑稽な、はたまた無邪気なイメージを持ち寄って、聖なるイメージを苔にして笑い飛ばすが、それが昂じると、嘗てキリスト教的イデオロギーによって統合されていた「民衆的想像世界」は破裂し、その構成要素のイメージはてんでんばらばらになって散乱し、新たに強力なイデオロギーが登場してそれらの布置を決定するまで、気ままに浮遊する事になろう。
・時間と空間: 最後に一つ付け加えれば、「民衆的想像世界」は、その時代の人々の時間・空間認識と不可分の関係にある。対極的に見て、初期中世の農村の生活様式に適合した循環的・典礼的時間と身体や家屋の延長としての空間の認識は、盛期中世には都市の成熟や合理主義の進展とともに、より抽象的で客観的な存在としての空間と直線的で強度に組織化された時間(商人の時間)へと移行するといえるが、そこに、永遠の時に向かって世界創造から最終審判まで矢のように一直線に走る時間認識と、仮の宿りであるこの世と永遠の世界である天国と地獄を対比させた空間認識を特徴とするキリスト教的な救済史の時間・空間認識が不断に渡り合って、「民衆的想像世界」を構造化していったのである。もう一つ、12,13世紀の「民衆的想像世界」の飛躍的発展には、脅威の時間空間認識…、ケルトや古典古代の遺産を汲んだ世界観ー時間が逆に流れて若返ったり、一日が百年に相当したり、この世とあの世が貫入しあっていたりする世界ーの影響が極めて大きかったことも、言い添えておこう。

知識と社会5

二。民衆的想像世界の変容   ・異界描写: (238)異界巡歴のテーマはキリスト教の初めより存在するが、「異界描写」が大量に作られて、そのイメージが一般に普及するのは12-13世紀のことであった。これは、瀕死の者或いは神の恩寵を得たものの魂が、夢の中で死後の世界を遍歴し、天国や地獄の様子を見物ないしその苦楽を実際に経験して、再び目覚めて後、周りの者達に具にその報告をするといった形式を持つものである。[それらは天国・地獄など曖昧な像でしかなかったが]…11-12世紀を過渡期として、12世紀後半から13世紀にかけて全盛期を迎える異界描写は、初期中世とは対照的に極めて迫力ある具象的イメージに満ち満ちており、異界の地理もはっきり区画化されるようになる。…(239) 盛期中世に広まった…異界描写の第一の大きな特徴は、それ以前のものには無い具象的でヴィヴィッドな描写である。たとえば、地獄や煉獄で体の各部分に加えられる微に入り細を穿った責め苦の模様や、麗しい天国の建物の有様の描写がそれである。[例えば]暗い霧が一面に立ち込めた深い死の谷の底には…焼けた石炭が一杯詰め込まれて、その上に鉄のボイラーが据えてある。ボイラーの中では殺人を犯したものの魂が炎による責め苦に喘いでいる。これらの魂たちは、ボイラーで焼かれて灰燼に帰した後、とけたロウが布でこされるように漉しだされる。この責め苦のプロセスは、何度も繰り返し行なわれるのだという…。(240)このような『トゥグヌグダルスの幻視』の描写にうかがわれるように、12-13世紀の異界描写においては、魂と言う不可死の霊体であるはずのものが、あたかも「小型人間」でもあるかのように、肉体と五感を備えて苦痛や快感を感じる存在として描かれている。
更に、魂たちの赴く場所の描写も、具体的と言うか、当時の西欧各地に見られた景観を奇怪化ないし理想化したものとなっている。それは、異界や罪の贖いや善業についてのキリスト教神学の抽象的な議論を、一般の信徒にも極めて分かり易く手に取るように、肌にしみるように、目の前に繰り広げられるようにイメージ化した結果であろう。見方を変えれば、そのように、民衆文化・民俗文化から借用した、換言すればあらかじめ民衆の「検閲」を受けた形でのみ、彼らの心に訴えかける異界描写が可能となったので[ある]。 異界描写においては、キリスト教の正統教義が、具体的イメージを用いて語られるに留まらず、時に神学者らの伝統的な見解と背馳するような教義も堂々とイメージ化され、それが逆に、神学者達の議論に変更を迫ることがあった。例えば、元々正統教義によると、キリスト教徒の魂は最終審判時にすべて纏めて裁きに掛けられ、古い分けられて地獄に堕ちるなり天国に上るなりするはずであった。ところが盛期中世の異界描写では、各人がその死亡時にただちに生前の功罪に応じて報いを得るのであり、最終審判を待つことなく、善良なものの魂はよき報いを得て、悪辣なものの魂は相応の責め苦にさいなまれるように描かれているのである。…第二に、それぞれの異界描写の発祥した地域の現実の住民がしばしば登場することも特徴的である。…(242)要するに、臨場感あふれ迫力ある異界描写が成立したのは、それが民衆の嗜好にかなったからであるし、そうした嗜好におもねる事によってのみ、教会は、その教義や倫理を彼らの頭と胸に効果的に植えつける事が出来ると判断したのであろう。 こうして12世紀以降、異界描写は発祥地域・事情の特殊な瘢痕をとどめつつも、ほぼ共通した特徴と構造を備えたものとして、幾つものヴァージョンで西欧全域に「記述」と「口伝」を繰り返しつつ流布していく。

そして、異界のイメージがその一角をなすような「民衆的想像世界」の全体像も、丁度この時期に姿を整える。それは最早「民衆的」と言う形容詞と受ける必要の無いほどにエリートをも民衆をも巻き込んで西欧全体を覆い包んだのであり、まさに想像世界における西欧の成立を、ここに認めることが出来る。… ・魔女の夜間飛行: 12,13世紀の異界描写は、民衆とエリートが共同して作り上げた想像世界を表現していた。或いは寧ろ、それは、キリスト教の起源より存在した異界とそこでの魂の運命に関する教義を、民衆が自らの嗜好にあうよ(243)うに「検閲」を加えた結果できあがったものである、といった方がよいかもしれない。しかし全く反対に、もともとの異教的な表象に、エリートが「検閲」を加えながら想像世界に取り込んでいく、といった現象もしばしば生じた。[例えば]魔女は空を飛べる。これは魔女狩りが本格化した16,17世紀には自明のことであった。夜の帳が下りると、魔女達はその体に悪魔から貰った秘密の膏薬を塗り、棒やほうきに乗って、悪魔を囲む魔女たちの集会である鯖との開催地まで飛んでいく。たとえ家の扉が仕舞っていても、人知れず煙突や窓から抜け出して飛んでいくことが出来る。そしてサバトで悪魔を礼拝し、倒錯した狂気の沙汰に耽ってから、再び空を飛んで自宅にもどり、平気な顔で朝の支度を始めるのである。[この伝承は900年ごろの『司教法典』や11世紀初頭ドイツの贖罪規定書、12世紀シャルトルの文献に見られる]。-「幾人かの悪辣な女達は、サタンのために堕落してその手下となり、悪霊のもたらす幻覚に誘惑されて、次のように信じまた言っているという事に、ここで言及しないわけにはいかない。即ち彼女らは、夜、異教徒の女神であるディアナあるいはヘロディア(洗礼者ヨハネの首をはねさせたヘロデの妻)に率いられ、無数の女達ともどもある種の動物に乗って、夜の(244)深いしじまの支配する中、地上を大変な距離、横切って移動する。
女達は、自分らは女主人たるディアナの命令に従って、予め決められた幾夜かに彼女に仕えるべく召喚されるのだ、と公言する」。『司教法典』は続けて、このように公言する女達は不信心であり、自分が破滅するだけならまだしも、他の無数の女達をも同じ過ちに導いている、として告発している。そして小教区教会を任された司祭は、唯一の神以外に女神など存在せず、女神に先導された夜間飛行は、信徒達の魂に悪霊から送られた純粋の幻影だと、全力を傾けて説き教えなくてはならないとした。…[夜間飛行する女の他]もう一つの構成要素は、女が夜、ローマの豊じょうの女神ディアナとともに騎乗して外出するというイメージである。ディアナは、月や夜と密接に関連し、またしばしば地下の冥界と魔術の女神であるヘカテーと同一視された。… このような民衆の心の古層に横たわる異教的表象はキリスト教が広布されたあとも殆ど無傷で民衆の間に温存されていた。エリート達は、盛期中世から後期中世にかけて、それらのうち幾つかのイメージの(245)意味を入れ替え、特に悪魔化しながら、西欧文明と一体化した新来の想像世界に位置づけようと努めたのである。 異教をめぐるキリスト教のかような戦略は、現実の女性に対する聖職者の態度からもうかがわれる。即ち、確かに初期中世にも、後の時代の魔女に類した人物はいた。隣人やその動物にのろいを掛けて病気にしたり、性的不能にしたりしているといった嫌疑を掛けられた女性は少なくなかったのである。11-12世紀にはその数はより一層増えて、彼女達は逮捕されたり処刑されたりすることがあった。が、そのような呪術の背後に、悪魔の存在を想定したり、ましてや彼女らが自ら悪魔と契約を結ぶ挙に出たとして追求することは、まだ全く問題になっていなかった。

 12世紀までは、悪魔や悪霊に人やものを動かす大きな力を認める神学者はいなかった。… ところが13世紀以降、呪術使いの女らは、はじめて悪魔と結びつく。それはあいつぐ民衆的異端の族生、とりわけ二元論異端たるカタリ派の蔓延が、神学者達に「悪の問題」を深刻に取り上げ反省するよう促したこと、そしてやはり同時期に、彼らが、善悪は「人格」とその「意図」があって始めて発生する倫理的関係であり、したがって「責任」もその「人格」にふりかかるのだ、という議論を展開したことが思想的背景となって居る。また同じころよりスコラ学においては、悪魔が「場所」移動に関して持つ力が際立って大きなものとされるようになるが、そうなると、悪魔の領域である大気中で、人や物を動かす力が彼らに備わって居るのは当然だと考えられ、後に「魔女の夜間飛行」が現実視されるのを助ける事になった。 かくて13世紀後半から14世紀に掛けて、かつての呪術使いの女は悪魔と結託するのみでなく、単なる迷信におぼれた哀れな女から、裁判に掛けられ自白を共用される凶悪な確信犯、即ち「魔女」に変身する。 (246)中世末・近世になると、このような思想的潮流が折からの政治的・社会的危機にもまれて黒々とした奔流となり、上に紹介した初期中世の「魔女の夜間飛行」の構図は全く逆転する。15世紀末から16世紀に掛けての悪魔学者の数々の著作を紐解けば明らかなように、サバトが実在するのと同じように、「魔女の夜間飛行」も、全く疑う余地の無い物理的現実とされるようになったのである。 魔女狩りのバイブルとなった二人のドメニコ会士ヤコプ・シュプレンガーとハインリヒ・インスティトリスによる『魔女の槌』(1486年)の第2部第3章では「魔女はいかにして場所を移動するか」について論じられている。

彼らによると、魔女達は実際にその体ごと物理的に遠隔地まで移動するのだという。神の許しを得た悪霊は、ゆりかごの子供を遠くに移して、自分がその子供と入れ替わったり、また時には罪の重荷を負っていない普通の人をも大気中に運び去って遠隔移動させることがあるのであるから、自らの意思で悪魔に未をゆだねたもの(魔女)が悪領によって遠隔移動させられても、何の不思議も無い。魔女はこの飛行のために、洗礼前の赤子のからだで膏薬を作って、椅子や木片に塗りつけて大気中に飛び上がる。そしてこの夜間飛行については、逮捕された魔女は皆自白しているし、その噂は津々浦々まであまねく広まっている、とこのように説く。 「魔女の夜間飛行」は、最早夢でも幻覚でもない。女たちは、確かに悪魔・悪霊の遠隔移動で実際に遠い距離を飛ぶのだと、教皇の或いは国王の権威を体現したエリートの司法官は宣言し、その考えを一般に普及させる事になる。「魔女の夜間飛行」は実在する。だからこそ彼らはその恐るべき犯罪のわずかな証拠・痕跡でも見つけ出そうと、密告を奨励し、徹底的な訊問をし、目をおおわしめる拷問を課したのであった。実在する夜間飛行を経験した女こそ、とりもなおさず火刑台に送って抹殺すべき「魔女」なのであるから。 …。

知識と社会4

chapter8 キリスト教と民衆的想像世界 池上俊一   一。創造世界における民衆的なもの   …(231)本章で扱う「民衆的想像世界」は、民衆宗教や民衆文化の一部である…。 ・民衆=迷信論: (232)まず、文化や宗教といったものを俎上に載せる場合に、中世のローマ・カトリック教会の論者そのままに、キリスト教的なイデオロギーを自らのものとして「民衆的」なるものを否定的・貶価的にとらえる見方がある。より端的には、それを異教の残滓とか、魔術的な行為とか、公式の文化や宗教の退化形態だとして、底に何ら創造的・積極的機能を見出さない立場である。 このような把握方法は、既に教父の聖アウグスティヌスに遡る。彼は、民衆的な慣習を「迷信」と呼んで、それを根絶すべきことを説いた。…当初より、樹木や泉の崇拝が異教的な偶像崇拝として教会人ののろいの的となり、それを根絶するための初期中世の布教家・聖者たちの努力は、大変なものであった。死者が周期的に聖者の親族を訪れるという俗信や、仮面をつけ、ドンちゃん騒ぎをし、互いに贈り物をしあう機会となった幾つかの異教的祝祭も、同様に断罪された。これらの断罪は、初期中世の多くの司教区教会会議の決定やフランク王国の国王による勅令に含まれるばかりか、初期中世から正規中世にかけて多数編纂された贖罪規定書にも詳細に列挙されている。 … ・民衆の固有性評価: 次に「民衆的」なるものをより積極的に評価する見解がある。民衆は、エリートとは異なる文化・宗教を持(233)っており、その中に浴して日々の生活を送っていたのであり、それはエリート的なるものの退化形態でも、異教の残滓でもなく、エリートのキリスト教や異教の影響を受けつつも、それらを独自のプランで組織化していったものである。そこに、固有の価値と機能を持つ「民衆のキリスト教」が出来上がったのである。更にそれは、単に受身の産物ではなくエリートの文化や宗教に逆に影響を及ぼして、それを変化させることさえあったのである。
[宗教史家ドラリュエル]によると、中世には、一方にエリートの公式・厳格なキリスト教があり、他方には「弱き人間」の日常の必要に見合う形で生み出された、奇跡を絶えず希求するような民衆の素朴なキリスト教があった。そしてこの二つのキリスト教は、相互に無関係ではなく影響しあうのだとされる。… 次に、霊性の歴史の探求者であるヴォシェも、キリスト教の冷静の中に民衆的なものとエリート的なものを分けて、両者の関連を探って居る。中世においては、聖性にいたりつく特権的手段は修道士や聖職者に独占されていた。彼らのみが聖書を読むことが出来、詩篇を朗誦でき、祈祷に身を捧げることが出来た。民衆は、エリートの信心行のいくつかを模倣して、沸き起こる宗教的渇仰を満足させた。四旬節の断食や日曜ミサへの出席がそれである。しかし民衆の冷静は、過激な福音主義やヒエラルキー批判に見られるように時に、教会制度の枠、そして難解な教義の枠をはみ出すことがあった。ヴォシェによると、それにもかかわらずこの二つの霊性は交流可能で、(234)あい携えて発展していったのだという。その理由は、聖職者の多くが、現実には民衆の霊性の大海原によくしていたからである。教会はカロリング期以来、民衆の霊性の構成要素のうち、取り込めるものは取り込んで教義や儀式を形成して逝った。聖者崇拝や天使崇拝がこうして生まれ、また正規の万聖説制定は、民衆の間に広まっていた死者崇拝を汲み取って出来たものなのである。 それまでどちらかと言えば受動的であった民衆は、11世紀末、教会を揺るがした改革運動の後で、魂の救いを求めて大規模な宗教運動を展開した。それは、教会改革者を援護するとともに、ラディカルになりすぎて当局を苦しめることもあった。ともあれ、歴史的・人間的キリストの姿の発見と、使徒的生活やメシアニズムへの憧れなどを中核に据えた民衆的霊性が、ここに大きく開花する。 
更にもう一人、マンセッリは、ドラリュエルとは異なり、中世キリスト教が二つに分かれて、民衆宗教とエリートの宗教に分割されていたことを否定し、それは実際は発現形態が異なる一つの宗教なのだとする。…エリートがキリスト教の啓示の言葉(聖書)によって与えられたデータを概念的に体系化する傾向があったのに対し、民衆はその同じ啓示を概念的現実としてではなく、上からの権威に保証された真実として受け取り、更にそれを主観的に選択受容して、歴史的に構造化された心的シェーマの中に統合していった。取り分け民衆は相互に普段に影響しあい、常に出会いと合流を求めていたが、その相互浸透・適応が一段と進み、新たな方向を目指したのは11世紀以降だという。それは何よりも都市の出現が原因となっている。…(235)[3社の見解はいずれも]民衆の宗教や霊性に固有の価値を認め、またエリートの宗教や冷静に対して受身一方と看做すのではなく、主体的に畑r機かけていく能動性を付与している。また3人は一致して、11世紀が大きな転機だとする。それは教会改革運動と都市の出現のためである。 このような新しい論点は、民衆宗教の母体たる「民衆的想像世界」についてもほぼそのまま当てはまるであろう。… ・口承と筆記の交替劇: (236)シュミットは…観念やイメージの伝達や変容が口頭でなされるか、それとも文字でなされるかに注視し、その交替に権力の操作の介在する余地をかぎだしている。公的な権力を身に帯びた聖職者が、彼らの独占する文字・記述行為を介して民衆文化に権威と秩序と抑圧を課すべく、口承で野放図に広がっていたイメージ世界のイデオロギー統制を試みるのである。…[ほかにグレーヴィチは](237)太古の時代に起源し現代の未開種族にも見られるような、宇宙との融即の感情、占い・予言・農耕儀礼などの呪術的慣行の存在を西欧中世に見つけ出して、それは長い中世の間殆ど不変不動であるという。…「民衆的想像世界について」、次のように纏めることができよう。それは、民衆の間に口頭で伝わるキリスト教以前の伝承とエリートのキリスト教の合作として盛期中世に大きく切り開かれた世界であり、独自の構造と機能、意味と価値を備えていた。しかしそこにはいつも権力・支配のイデオロギーが介入しようと身構えていたのであり、それは何よりも口頭伝承を文字で書き留めることを媒介として行なわれたのである。

知識と社会3

そして大学と言う制度そのものの中に、取り分け学科ごとの教師団体である「学部」と言う制度を通して、キリスト教的知識がその基盤を置く知の体系を温存しようとしたのである。[これを擁護した教皇グレゴリウス9世の教書がパレンス・スキエンティアルムである。その後パリ大学での托鉢修道会進出問題について、ローマ教皇庁のパリ大学支配、教皇庁によるパリ大学の直属機関化が、単に大学の理念という抽象論のレベルではなく、法を通しての具体的なものであったことを示して居る]。… (228) …12世紀の知的な活況の中で醸成された土壌から、新たな人的素材に担われた新たな教育・研究教育状況が生まれ、新たな知的世界を切り開いていったが、12世紀以降、新しい人間類型に属する「教師」と「学生」が「大学」と言う共同体を形成する事になった。その一方で、伝統的な知的営為の監督者、その領域での権威であるローマ教会は、普遍教会への道を進む中で、新たな知的世界の展開ーそれは既存のキリスト教的秩序を危険にさらす可能性があったという意味で挑戦と言うべきかも知れないーへの対応を迫られる。インノケンティウス3世以降のパリへの介入は、13世紀西方ラテン教会の教義と知の枠組みの中に、12世紀ルネサンスの産物である「大学」と言う新しい制度を取り込むことを目的とした一連の歩みであった。パリ大学は13世紀に、高位聖職者養成機関からキリスト教的知識の最高の研究機関となっていき、ローマ教会と言う権威に取り込まれる事によって、普遍的な知的権威を手にする事になったのである。
 …パリと並んで「最も古い」ボローニャ、オクスフォード、モンペリエの大学創設に関しても、ローマ教皇の介入は行なわれた。例えば法学の研究と教育の中心地ボローニャに学生主導型で形成された「大学」への教皇の関与を見てみよう。1219年、ホノリウス3世は、ボローニャで(229)の教授免許交付権をその知の助祭長に認可した。この措置によって、学生はコムーネが教師達を通して行なっていた管理監視から離脱することが出来たと考えられる。また1224年には教師が「大学」の規約に従うことを教会罰を持って命じた。学生組合の解散と学生の市条例への服従を狙った市当局に対して、教皇庁が学生の自由を保護する立場に立って介入したのも、同じホノリウス3世在位下の出来事である。このように、ボローニャの学生の「大学」=組合の背後にあっても、教皇庁がその権威を行使したことが理解される。オクスフォード大学に関しても、その知の学徒に裁判上の特権的地位=世俗裁判権からの離脱を承認したのはインノケンティウス3世のローマ教皇庁であった。さらにモンペリエの医学「大学」の整備[など]教皇庁の権威が当該大学のあらゆる事柄にわたって保たれると規定されたのである。こうした一連の介入の目的は、教会による高等教育機関の整備、独占と言う射程の中で理解されるであろう…。

知識と社会2

 ・学問の都パリ: 12世紀前半以降、パリの学問的名声は、既に述べたように、そこでギヨーム・ド・シャンポーとアベラール、とりわけ後者が教鞭を取った事に始まる。12世紀後半、それ以前に学問的名声によって学生をひきつけたシャルトル、ランス、ラン、アンジェなどはその名声を失うか、学問・教育による吸引圏の範囲を狭めた。その反対に、オルレアン、モンペリエなどがその例だが、学問的名声を挙げる都市が出て来る。そうした中でパリは12世紀後半になっても変わる事のない学問の街、学都としての高い評価を保ち続ける。 アベラールの時代、パリにはその学問的名声を支える3つの「学校」、即ちパリ司教座聖堂付属学校、サント・ジュヌヴィエーヴ修道院付属学校、そしてサン・ヴィクトル律修参事会付属学校が存在していたが、大学の形成と直接結びつくのは司教座聖堂付属学校だけであると考えられる。
サン・ヴィクトル律修参事会付属学校につい(214)てみれば、当初律修参事会員以外の外部の学生にも開かれていた教育は…、[後に]外部学生の受け入れは行なわれなくなったし、またサントジュヌヴィエーヴ修道院付属学校についても、1147年から1148年の改革によって修道院の運営が律修参事会員の手によって行なわれるようになってからは、外部の学生がそこで学ぶ事は困難になったからである。 一方、パリ司教座聖堂付属学校は参集する学生に門戸を開放しており、12世紀後半にも、ピエルー・ロンバール…らの高い評判を得た教師が教壇に立った。彼らは…アリストテレスの論理学[に基づき]弁証法を適切に駆使した研究と教育を行なった。更にパリでは「私学校」が多く存在した。教師達が教鞭を取り、パリに集まる学生達の教育の機会を提供していたのである。…私学校の教師達は新しい学問、弁証法、更には文法、教会法学、医学などを教え、司教座聖堂付属学校では神学教育が行なわれていた。パリ全体が多数の教師を融資、多岐にわたる内容を持つ教育活動を実践しており、そこに学び来る学生は、自らの好みに応じた教科を選択する事ができたのである。そして、パリの学問・教育界には知的好奇心と社会的野心とが絡み合った、一種の高揚した雰囲気が認められた。… 三。パリ大学の成立とローマ教皇の介入: パリに参集した教師、取り分け私学校の教師の間で、12世紀後半以降、教師組合=「大学」universitas形成運動が展開されるようになる。「大学」形成の目的は、教師達の相互扶助の実践と自治的な教育活動の実行にあった。 ところで、パリ大学の形成に関する通説によれば、パリの教師は、教養初夏の教師…を中心にして、1208年から1210年にかけて、遅くとも1215年には教師ギルドuniversitas magistrorumを形成し自らの手でギルド構成員を選び(人事権の自治)、ギルドの活動を規定する規約を定め、パリ地方教会の教育裁治権下から離脱したと考えられる。
パリの教師ギルド形成運動は、ラッシュドール以来、教育の領域でパリ地方教会権力を体現した司教座聖堂参事会付文書局長との抗争の過程での、教師達の結束によって推進されたと解されてきた。しかし近年の研究はパリ大学の形成が、自治的な教育活動を求める教養諸科の教師、神学などそれ以外の「専門」教科の教師、パリ地方教会、教皇、フランス王権など大学形成に関与した幾つかの利益集団の「妥協」の産物であるとの見解が[出されており、]ラッシュドール的通説は修正を迫られているといえよう。 ・教師・学生の法的地位を巡って: フィリップ・オーギュストの時代(1183-1223年)、パリの人口は2万五千人から5万人、そのうち教育(216)にかかわる人口は少なく見積もっても1割と言う数字がある。パリの知的な繁栄は同時に「公権力」の目からして無視する事のできない、幾つかの問題或いは危険を生じさせる事になる。フランスのみならず遠方からパリに参集する教育人口が引き起こす住居、糧食、治安などに関わる問題、教師・学史の法的市に関わる問題、既存の教育制度との整合性の問題、更には知的活動の活性化に伴って生じる伝統的精神界にとっての「危険性」ー後述するようにそれは アリストテレスと市民法によって提起されたがーなどを列挙する事ができるであろう。この「問題と混乱」の中から「大学」が形成される。それゆえにこそ「大学」形成過程に世俗権力と教会権力が積極的に介入する事になるのである。 聖界・俗界の「公権力」が、最初に対処すべき問題は、12世紀に誕生した「教師」及び「学生」が属する法的身分を如何に既定するかと言う問題であった。既に述べたように、12世紀、学問あるいは教育の領域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者と言う伝統的観念が、西欧とりわけパリでは広まっていた。教えるものを意味する語としてmagisterないしdoctorが、また学ぶものを意味する語としてscholarisあるいはdisciplusがあったにもかかわらず、教育・研究の場が教会関係者に限定されており、「祈る」ために教育と研究が営まれていたこともあり、教えるもの・学ぶものを意味するのに一般的に用いられたのはclericusという語であった。
この事から推測されるように、教えるもの・学ぶものは聖職者と看做されていたのである。ところが、12世紀の知的な活況と教育人口の膨張の中で、祈るために教え、学ぶのではなく、「知る」ために学ぶ人、あるいは職業人として「教える」人が登場した。教える人と学ぶ人が相変わらず聖職者であるならば、彼らは新しいタイプの聖職者であったという事が出来るであろう…。聖職者は法的に見れば、裁判特権によって世俗裁判管轄権下ではなく教会裁判管轄下に置かれ、聖職者特権によって暴力から身体の安全を守られている。… ・ロベール・ド・クールソンの規約から「パレンス・スキエンティアルム」へ: パリ大学の形成から確立にわたる期間、教皇座にあったのはインノケンティウス3世、ホノリウス3世、グレゴリウス9世であった。ここでは1215年にインノケンティウス3世の特使ロベール・ドクールソンが公布した、現存する最古の「パリ大学規約」を取り上げる事にしたい。…前文には、規約の作成の目的が、インノケンティウス3世の匿名に基づく、パリのストゥディウムの改革にある事、そして規約の作成に当たって、ロベール・ド・クールソンが信頼に値する人達の助言を求めたことが明記されている。「助言を求めた信頼に値する人達」とは、ロベール・ド・クールソン自身がパリで神学教師として活動していた時期(1200年少し前から1212年まで)の同僚教師であったと考えられる。… (218)教皇が改革の必要性を認めたパリのストゥディウムの状況とは如何なるものであったのか。それは教師達の「大学」形成の問題であり、学生、教師の質に関わる問題と、パリで教授され、研究されている学問内容に関する問題であった。 「大学」形成に関しては、インノケンティウス3世が1208年に教会法、市民法に基づいて教師の組織が代理人を派遣することを認め、また同年パリの教師達が定めた規約への服従宣誓を行なわなかったため一度「教師組合」から除名された教師Gの組合再加入問題に仲介者として裁定を下したことが知られる。1212-13年には、教授免許交付を巡るパリの教師と司教座聖堂参事会文書局長との対立が顕在化し、インノケンティウス3世の任命した裁定者の手によって、紛争が一応解決されたことも知られている。
…(219)ロベール・ド・クールソンの規約は、神学、教養諸科を対象として,修学機関、教師資格取得の年齢を定めて居る。教授免許取得にかかわる規定(これは教師ギルドの人事権の自治とも関連する)については、1213年の仲裁裁定がそのまま採用されて居る。仲裁裁定では、神学、法学、医学の教師適格者の認定に関しては、当該教科教師の過半数が適格者と認定したものには(当該教科の)教授免許が交付される事とした。しかし、教養諸科の教授免(220)許交付については、教養教科教師3名とパリ司教座聖堂参事会付文書局長が指名した3名の教師の過半数が教師適格者と認定した者に教授免許が交付されたのである。この条項から、神学、法学、医学の教師については、自治的な人事権の行使が容認されたが、教養諸科教師のそれは制限されていると解することが出来る。1213年の仲裁裁定が、ある面で文書局長の教授免許交付権の制限ないし空洞化をもたらしたという事を認めるにせよ、大学形成の中心的にないてである教養諸科教師に限っては完全な人事権の自治が認められていなかったのである。その仲裁案がロベール・ド・クールソンによって取り入れられたのである。また彼は、正規の学生である為の要件を定め、学生に対する教師の監督権を確認している。 そして学習内容(カリキュラム)についても詳細な教科編成を規定し、教えられるべきテキストを指定している。その一方で、…アリストテレスの形而上学、自然哲学、[その他当時のフランス人学者の]教説が禁令の対象となった。 教養諸科教師は自治的な教師ギルドの形成を推進する。これに対応してロベール・ド・クールソンの規約は、教師ギルドの存在とギルドとしての権利(規約制定権の行使など)を確認する。その一方でロベール…は、詳細なカリキュラム、厳しい試験といった制度的枠組みの中に、新たに流入した学問の繁栄と諸学の無秩序な「混合」に対する有効な歯止めを見出したのである。

知識と社会1

chapter7 知識と社会 大嶋誠 一。大学史研究の動向 (205)…「大学」は西欧中世独自の産物とさえ言われている。知識を蓄積し創造する教師とその知識を自らのものとしようとする学生の共同体、別の言い方をすれば知的営為にかかわるものの共同体である大学は、12世紀西欧の社会を部隊として、そこで展開された政治的・経済的・宗教的・そして更には知的状況の中から新たに生み出された歴史的生成物なのである。その大学は13世紀西欧社会の中に定着し、時代の知的営為の中心となるとともに、教皇権・皇帝権とともに普遍的権威の一つに数えられて存在する事になった。 二。12世紀ルネサンス: (207)12世紀を特徴付ける歴史現象は幾つかあるが、知的領域に関して言うならば、12世紀の特徴は「知的覚醒」という事が出来よう。…12世紀の知的活況が、大規模な開墾と耕地面積の増大、農業技術の革新とそれに伴う生産性の著しい上昇ーそれは中世農業革命とさえ呼ばれるーと人口の増加、商業や都市の発達といった当時の経済生活の飛躍的発展、更には十字軍が証明するような西欧社会の膨張を基礎にして展開された事は、多くの研究者が既に指摘しているところである。それらを確認した上で、我々は12世紀の知的領域、教育界の覚醒を検討する事になるが、その対象となるのは、グレゴリウス改革の影響、地的地平の拡大、地的活況と教育人口の膨張に伴う学校制度の再編・整備と言う三つの事象である。 ・12世紀の知的覚醒: 「教会の自由」を追求したグレゴリウス改革…、知識との関連で、グレゴリウス改革が及ぼした影響を一言で言えば、キリスト教徒を霊的に指導する聖職者、なかんずく高位聖職者の必須の条件として、読み書きできる事、学識を主張した事にある。
(208)…グレゴリウス改革の推進者は先ず、聖職への任命は教会法規に基づいて行なわれるべき事柄であること、そして、教会法規は聖職任命の装置であるばかりではなく、聖職任命の基準でもあるとの主張を行った。高位聖職者は様々な徳を有するがゆえにその職にあるとされたが、現実には、慣習によって貴族がその職につくものとされた。グレゴリウス改革推進者は、この慣習に対して積極的に反対する事もなく、この慣習を尊重した。それと同時に改革推進者は、高位聖職者、更には教会人であるためには、最低ラテン語の読み書きが出来る程度の学識を備えていることが要求されている事を理解したのである。つまり、セナトール貴族系聖職者に代表されるような貴顕の出自と学識の双方を具有する事が霊的指導者の条件と考えられたのである。ここで指摘すべき重要な点は、貴族階層型の社会階層の人物に比較してより学識があるか否かという事ではなくて、学識が、貴族による教会の行為の独占を打破する要素として登場した事なのである。教会法規はシモニアを通しての貴族による高位聖職独占を禁じたが、同時に高位聖職を学識による攻撃に晒す事になったのである。グレゴリウス改革推進者がシモニアを禁止し、その一方で教会人の学識を強調した事によって、学ぶ事の価値がそれ以前とは異なる属性を持つ事になった。つまりそれは、学識を得る事、学識を得るために学ぶ事が社会的な、少なくとも教会内的な意味での栄達の手段、或いは野心を実現する手段となりえた事を意味したのである。 教会の中での学識の強調は同時に、学ばれるべき事柄に関して教会のコントロールが行なわれることを予見させずにはおかない。
世俗の知識ー文法、修辞学、論理学からなる3学を意味するーに対して実践的な必要性が与えられる。文法は書簡を認めるために、修辞学は論争するために、論理学は議論を成り立たせるために必要であるばかりでなく、これら3学は、聖なる書き物の理解と教会の法規の研究に奉仕すべきものとされたのである。 学ぶ事、学識の獲得に関して教会の内部に生じたこのような大きな変化は、「学校」の再興と、そこでの教(209)育・研究の活性化を必然としたと考えられる…。 12世紀はまた、ローマ法が再発見され、古代ギリシアの知的遺産とアラビアの知識がラテン語への翻訳を通して西欧社会に流入し、西欧の知識の総量を増大させ、知的養分を供給し、知的覚醒を引き起こした時代である。12世紀以前の西欧が手にしていた古典古代の知的遺産は極めて乏しかった。西方ラテン世界が継承したギリシア古代の知的遺産はカッシオドルスやセビリアのイシドルスやベーダといった少数の学識ある人物が断片的に収集したものに過ぎなかった。従って、12世紀の西欧社会に知られていたラテン語訳されたギリシア語の著作と言えばごく貧困で、カルキディウスの翻訳したプラトンの『ティマイオス』断片、ボエティウスの翻訳になるアリストテレスのオルガノンの中の範疇論と命題論を数えるだけで、アルキメデスやユークリッドなどの名前すら忘れ去られていた。また、アラビアの知識の需要はごく狭い範囲に限定されていた。 12世紀のラテン語への翻訳活動は、西欧世界とイスラム世界が接するイベリア半島(カタルーニャとトレド、とりわけ後者が中心であった)、6世紀以降はビザンツ帝国の、9世紀後半以降はイスラム教徒の、そして11世紀中頃以降にはノルマン人の支配に服したシチリア、そしてギリシアとの通商外交関係を保っていた北イタリア都市と言う三つの拠点で行なわれた。
 アラビア語或いはギリシア語からラテン語へという翻訳活動の結果、西欧社会が所持する知識の総量は飛躍的に拡大する事になった。フワーリズミー、キンディ、アル・ラージー、アヴィケンナ、アヴィケブロンなどのアラビア系学者の著作、またアリストテレスの著作(天体論、生成消滅論、気象学第4巻、分析論前書、分析論後書、トピカ、詭弁論駁、自然学、霊魂論、形而上学1-4巻など)やユークリッド、プトレマイオス、ア(210)ルキメデス、ガレノス、プラトンなどのラテン語に訳された著作を西欧は手に入れたのである。 古代ギリシアやアラビアの知識が、知的活動の新しい素材を提供する事になるが、1100年前後、法学が一つの学問、一つの教科として成立する事になる。グレゴリウス改革の教皇権と皇帝権と野対立のイデオロギー論争のコンテクストにおいて、ボローニャを中心とする北イタリアで、既に11世紀に再発見されていた『ディゲスタ』の写本が流布し、またそれへの注解を施す事が盛んに行なわれるようになった。教会の職務とそれに携わる人たちを統べるとともに、社会の中で、キリスト教的倫理と規律に基づく遵守事項を定める教会法も発展を遂げ、1140年ごろ、ボローニャの修道士グラティアヌスが、それ以降の教会法教育のテキスト、注解の素材となる『教会法命題集』を編纂する事になる。こうして、法学が研究と教育の領域に入って来たのである。 ・学校組織の再編: 12世紀、教育制度・学校制度の再編が見られた。それを示す一つの現象として、教育の場の中心が農村的な修道院付属学校から、都市的な司教座聖堂付属学校に移行したことを指摘する事ができる。修道院系の学校が衰退、ないし自己閉鎖化する状況が見られる一方で、都市に置かれた司教座付属学校が活況を呈するという状況が生まれた。
修道院に関して言えば、基本的な理念において、教育活動を含めて世俗社会の活動から隔離され、己の魂の救済を目指す修道院は、社会全体が停滞している時期には過去に蓄積した知的・文化的遺産を保持する事で文化活動の担い手となりえたが、社会が停滞から運動へと変化する事によって、社会的にも知的にも農村の中に孤立して行ったし、12世紀を代表する修道会であるシトー会は、修道院付属の学校をそなえる事はなかった。 (211)これにたいして、11世紀以降…司教座聖堂付属学校が恒常的に運営されるようになったと思われる。なぜならこの時期以降、いくつかの司教座聖堂付参事会で、学監schorasticusの継続的なリストを作成する事ができるようになるからである。そして、12世紀中頃までにはすべての司教座聖堂が付属学校を持つ事になった。幾つかの学校は優れた教師を擁する事によって、単に司教区だけではなくかなり遠隔地からも学生をひきつけた…。 だが12世紀の教育・学校制度の整備を特徴付けるのは、フランス北部を中心に見られた現象であるが、「私学校」の登場である。これは、教会とのかかわりを持ちながらも自立性を持つ教師が開いた学校で、そこの教師は基本的に、教育を受けるものからの謝礼によって生計を営む。彼らは、勉強の後に彼ら自身も教師職に就くことを希望したもので、教会の機関に地位を得て教育活動につくという事が出来なかったので、自ら学校を開いたと考える事が出来よう。私学校の登場は知的活況、教育人口の膨張を端的に示す現象と言えるであろう。
これらの「私学校」の教師も学生も、基本的には教会的な性格を持ち続ける。と言うのは12世紀、学問或いは教育の領(212)域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者であるとする伝統的観念が西欧、とりわけパリでは広まっていたからである。… 「私学校」では主に自由学芸が教授されたが、それ以外の教科が教授される事もあった。いずれにせよ、伝統的な学校に比べて自由に、また学生の要求を受け入れながら教育が行なわれたのは「私学校」であるし、翻訳活動によってもたらされた新たな知識や弁証法、法学、医学など学生の関心をひきつける教科が中心的に教えられ、成功を収めたのも私学校であり、知的欲求・知的好奇心・理性の創造性への信頼といったものが大きな意味を与えられたのも私学校であった。しかし私学校での教育について伝統的教育関係者の仲には、既存の知的秩序に対する脅威と捉えるものもいたし、あるいは実用の学(法学、医学)の成功の中に、神に向かう学の衰退を懸念するものもいた。こうした不安、懸念を持つ人たちの存在にかかわらず、12世紀後半になっても私学校で教える教師、或いはそこに学ぶ学生、そして教職を希望する物の数は増加し続けたのである。[主に北フランス、パリで] 知的活況、新たな教育活動の展開の中で生じた教師及び教師志願者の増加は、既存の教育制度、教育裁治権のあり方に対しても変更を求める事になる。この問題に積極的に介入した最初の教皇はアレクサンデル3世である。12世紀、教育裁治権を掌握していたのは司教区の長であり、学監あるいは司教座聖堂参事会付文書局長cancellariusが司教から委託されてその権利を行使しており、彼らは、新たに教師として活動するもの=新たに学校を開く者に対して教授免許を交付する事によって、教育活動を監督していた。
 (213)アレクサンデル3世の施策は、教育人口の膨張と言う教育界が直面した状況の中で、教授免許制を整備し、教育の無償化を実現する事にあったといえるであろう。教皇は教授免許が売買されている事を「教育職の売買」と理解し、ガリアの司教宛の回状で教師適格者への教授免許無償交付を命じるとともに、第3ラテラノ公会議決議を持って法制化した。また、同じ公会議で、聖職者、貧困学生に無償で勉学の機会を得る事が出来るよう、各司教座聖堂に教師のための聖職禄の確保を義務付けた。 アレクサンデル3世は、観衆的であった各司教区ごとの教授免許授与権を普遍教会の名において権威付け、教えるものにはその免許が必要である事、教育が教会の管轄事項である事、そして更には、教育人口の膨張と言う状況にあって、教師適格者は無償で教授免許を得て教師として活動できる事を確認したのである。 

ローマの秩序4

三。中世盛期における都市と農村-ラティウム教皇国家の場合 ・集落間ネットワーク形成の2要因: …(143)中世盛期は都市と呼べるような集落が増加し、その一部がことに規模を拡大して上位に立ち、他の都市や農村との間に上下関係と機能分担を含むネットワークを作り出していく時期である。…こうしたネットワークが出来上がっていくには幾つもの要因が働いていたと考えられる。 一つは経済的次元での動向であり、在地的・地域的発展を基盤とする流通と密着しながら、紀元千年以降には、(144)地域間の商業が展開し、更には西欧を越える国際的商業と接合していく。…それと絡み合って、こうした広域的な商業と結びついてその結節点になった集落や、そこでことに需要の多い商品を生産する集落などが急速に規模を拡大する。他方には、主として在地的流通の中で需要を充足しうる多数の集落があったが、そうした場所も遠隔地商業とは無関係ではなかった。…凡そ至上税や流通税が貸されるほどの商業取引が行なわれる場所であれば、どのような集落でも遠隔地的流通と在地的流通とが絡み合って居ることが明らかにされてきている。ただ大きく見て、両者の比率が集落の規模によって異なり、相対的に大規模で都市と呼ばれうる集落では遠隔地商業が目立つのに対して、より小規模な集落は在地的ないし地域的な商業を主体としているのである。…[その形成にかかわる政治的要因について]中世都市が封建社会の中で正統的な位置づけを与えられている事は既に述べたが、それはとりもなおさず、都市と呼べるほどの重要な集落は、同時に有力者による支配の拠点であり、政治的中心地と言う資格を持つ場合が窮めて多いことを意味する。…特定の集落が都市に成長する過程は、同時にそれが属する地域の政治的編成と密接に関係しているのである。
この時期の支配体制は、在地的に多数の中小領域(145)的支配圏が族生した上で、それらが封建制度や君主的統治によって両方と呼ばれるより大規模な領域に纏められていくところに成立していた。そして、こうした大小の領域支配の中心地となった集落こそ、都市として成長していく可能性が大きかったというのである。 ・12世紀までの司教座集落とカストルム型集落の近似: ところで、ラティウムにおけるカストルム型集落のincastellamento移行の成り行き、ことにその都市と農村のネットワークへの編入[は]…地方を舞台とする教皇国家の形勢と言う枠の中で働いているのである。 …まず、最初に指摘しておかなければならないのは、incastellamentoが始まった10世紀のラティウムには、既に場合によっては都市と呼んでも良い一連の集落が存在していた事である。即ち、巨大都市ローマをいただきながら、その後背地として古くから司教座網が稠密であったから、ヴェローリ、アナーニ、アラトリ、ティヴォリ、リエティ、テラチーナといった司教座集落が根を下ろしていたのである。これらは総じて規模も小さく、12(146)盛期までの在地の発展に果たした役割は余り評価されていない。…これに対して農村部では、10世紀以来の活力の商店として、カストルム型集落が成長してきたのであり、停滞した司教座集落と比べてカストルム型集落間の競合のために不安定ながら、はるかに大きな発展性を内容していた。 12世紀までの司教座とカストルム型集落には、景観上も、経済活動上も、明確な対象は殆ど見られない。いずれも石造建築の集合であり、領主の住居は、カストルム型集落ではdomus major、司教座集落ではturrisとして同じく防備施設を兼ねていた。更に集落内部の中心的防備施設として、カストルム型集落ではroccaが、司教座集落ではcastellum civitatisが緊急時の避難場所となる。しばしば中世都市の指標とされてきた囲壁も、両者ともに備えて居るのである。
更に、経済活動を比較してみると、司教座においても囲壁内部の住居は尚まばらであって、菜園地も多く、かなりの程度に農耕が営まれていた。手工業者についても本質的相違はないという。職種だけを比較すれば、修道院の領主経済を反映したカストルム型集落の場合には、より多様と言えるほどなのである。…このようにみてくると incastellamentoが完成された時期のラティウムでは、司教座とカストルム型集落には本質的な相違がなく、…ここで重要なのは、としか農村化と言う二分法ではなく、新旧それぞれの集落が地域の関係網の中で果たした中心地としての役割である。正に、集村化を土台として生じた地域内部での都市機能の広い編成が、ここに見て取れるのである。 (147) 在地領主・修道院・教皇によるカストルム領域支配: この状況を出発点として領域支配が確立していくわけだが、…成長する集落は、その周辺に農地と未耕地を中心としたカストルム領域とでも呼びうるまとまりを生じさせ、領域ごとの境界が明確に確定されるようになってくる…すなわち、領域支配の根底には集村化によって成立した個々の集落が備える一円的な領域性が前提とされていた。 これらカストルム型集落の多くは、在地領主の手中にあった。ラティウムの史料がincastellamento以降のカストルム型集落の動向として最初に示してくれるのは、それらのかなりの者が、より大規模な支配を繰り広げて居る修道院の手中に吸収されていった過程である。この地方では、特にファルファとスビアーコという大修道院所有のカストルム型集落については、創設文書に加えて、年代記や文書集に伝来した寄進記録、教皇や皇帝による確認文書といった多様な史料での言及からそれらの変換を辿る事ができる。これらの修道院場自ら、或いは世俗人との契約によって多くのカストルム型集落を創出した事は言うまでも無い。
しかしこうした修道院史料の端々には、城を含む土地の寄進者やカストルム型集落建設の実行者として、またの地にはその支配圏を巡る紛争の相手方として、在地領主がしばしば登場している。後の時点で修道院領に数えられるカストルム型集落が、当初の創出は在地領主の活動に支えられていた事、しかしやがてそれは在地領主の手から離れ、修道院の支配下へ入っていくことがそれらの史料から明らかになるのである。そうした過程は、当初は臣従関係による事が多い。即ち在地領主が自由地として所有していたカストルム型集落を、自ら封臣となりつ封として請け戻すのである。しかし、在地領主の支配を吸収して所領の拡大と一円化をはかる修道院は、カストルム型集落を含む土地所有を得て、更に進んで、徴税権と裁判権など公権力起源の上級領主権の簒奪にも躊躇しなかった。修道院は、(148)単なる土地領主としての収入以外に、カストルム領主としての経済的基盤と、領域支配の梃子たる裁判権をも確保しえたのであった。 しかし、多くのカストルム型集落を支配下に収めていた大修道院も、12世紀以降次第に進む教皇国家の整備の中で、その体制の中に吸収されていく。… ・教皇国家確立と司教座集落の成長: (149)…カストルム型集落は、ラティウムが教皇国家として再編されていく過程では、重要なその支柱となっていったが、12世紀からは教皇国家確立の影響が、この時期まで特別の展開を見せていなかった司教座集落に活力を与える事になった。司教座網が教皇庁の活動拠点となっていき、教皇庁の巡回が制度的に行なわれるようになったのである。
…[司教座集落の成長について注目点]第一は、人口増加と都市内部の新たな街区区分regionesの制定である。集落内部に住居が密集し始め、市の比定に地理的な目印を必要とした事から街区区分が発展し、これが教区や租税の地区割りの基盤ともなっていく。第二は、多くの金融業者の存在とともに、これらが多様な貨幣流通の拠点となったことである。これには、緩慢ながらローマを中心とする地域の経済成長が存在した事が大きいが、同時に教皇国家確立には、新たに台頭した商人金融業者階層が教皇庁の官僚機構の一端を担って参与していた事も重要である。 このように、教皇国家の確立に応じて司教座集落が都市としての姿を整備してきたのに対して、在地の中心地として成長したカストルム型集落は、これとは対照的な途を辿る事になる。すなわち、人口増加傾向の中では、創出期に出来上がった閉鎖的な集落構造が硬直的な束縛となってきたのである。内部での家屋の高層化には限界があり、多くのカストルム型集落が停滞状況に陥って、一部は放棄される事態となってくる。このようにして、司教座とカストルム型集落とが、ともに都市的機能と農村的機能を持ちながら、本質的相違のないままに在地の中心地としての役割を分け持っていた11世紀とは全く異なった状況が生じた。それは、ローマを筆頭として司教座集落こそが都市であり、それらの連携が都市網を形成するのに対して、カストルム型集落は、多くがより会の中心地機能を示して居るとしても、ともかく都市網の下部に位置づけられているという、新たな都市と農村の関係な(50)のである。集村化の典型的な形態として、都市機能の地域的拡充に大きな役割を果たしたカストルム型集落は、教皇国家の拠点としての地位を獲得できなかったために、12,13世紀のより進んだ社会経済的事情の中では、村落としての位置にとどめられる事になったといえよう。

ローマの秩序3

chapter4 インカステラメント・集村化・都市 城戸照子   一。都市と農村を巡る視点の転換  (130)…中世を通じて多数を占めたのは中小都市なのであった。1300年ごろになっても、1万以上の人口を持つ定住地はヨーロッパ全体で50を数える程度だったという。これに対して人口千にも満たない中小都市が、それぞれの地域で重要な都市的機能を担っていた。こうした中小都市の中には半都市や市場地、農村都市や巨大村落といった曖昧な語で従来呼ばれてきた、多様な集落も含まれて居る。規模ではなく在地での機能に注目すると、こうした中小都市の重要性が浮き彫りになってくるのである。…(132)古典的中世都市像が一般的であった時期の南北類型論を、イタリア都市史の立場から代表しているのN。オットカールである。これは、アルプス以北の中世都市を準拠枠とした上で、主としてイタリア北部の大都市をモデルとして、イタリアの都市と農村に固有の政治的・社会的性格を浮き彫りにする試みであった。それによれば、と市が農村から峻別されていた北西ヨーロッパと比べて、イタリアの都市は、その「周辺農村領域(コンタード)との絆を維持し、その組織化と統治の中心」であり、事実上の都市国家を形成していた。都市内部には自由な市民だけでなく、周辺農村地域の封建貴族や騎士も居住している。しかもと私法は、都市のみならず、農村を含む全領域に適用されたと言う。従って、北西ヨーロッパ派の自由と自治の牙城としての都市に対し、イタリアの都市はそのものが封建社会を構成しており、ここには完全な中世都市は育成されなかったと捉えられているのである。
…北西ヨーロッパを基準とするこうした南北類型論は、古典的中世都市像を基盤としていた以上、都市史と農村史(133)の研究の新たな展開にともない、再検討を余儀なくされた。その動向の一つが南の更新性を前提として両者の相違を対置することなく、相違を寧ろ両地域に共通する動態の発現形態の個性として捉え、そこに南北類型論を相対化しようとする試みである。…   二。Incastellamentoと集村化 ・平地から高地へ・散居から集住へ(136) ・incastellamentoモデル: ローマの後背地ラティウム地方の9-12世紀についての重厚な個別研究で、防備集落の誕生と、それを構造の基礎単位とした教皇国家の再編成を描き出し…たのがp。トゥベールであった。ラティウム地方の防備集落castrumの創設・統廃合・衰退を描き出したトゥベールは、カストルム創設を中心に展開された集村化の運動を、incastellamentoの語で呼んだ。この地方では既に10世紀から始まるインカステラメントでは、在地領主のイニシアティブにより、高地に築かれた小規模な城を核として、従来の散在の定住地とは全く断絶した囲壁を持つ集住形態が一気に創出された。これに伴って周辺に広がる多様な種目の農地の再編も行なわれる。この定住運動は集落の統廃合を繰り返しながらも11,12世紀に開花を遂げて、ラティ(137)ウム地方ではカストルム型集落の定住地が圧倒的多数を占めるようになる。そして、13-15世紀には統廃合の第2波を経験しながらも、尚主要な集落形態たる地位を保っていたというのである。 カストルム型集落の創設に際しては領主間で、或いは領主ー農民間で契約が交わされており、数は少ないもののカストルム創設文書として伝来している。土地を提供する教会領主と実際の定住活動を請け負う世俗領主間で結ばれた契約ではその主たる関心は、共同領主権における利益の折半の規定にある。これに対し、両種と農民集団の間で交わされた契約は、付加規定に加えて、家屋敷地から菜園地・ブドウ畑・耕地に至るまでカストルム型集落内部の敷地の割り当てを細かに規定した内容も含んでおり、内部の集落プランも明らかにしてくれる。
トゥベールが詳細に描き出したところによれば、集住地は城を中心に、それを囲みながら下降する様配置された農民家屋によって構成され、この家屋は細い道や勾配の急な階段を間にはさみつつしばしば相互に接合していた。家屋は全体が一つになってあたかもドームのように山頂を覆っており、時にはそのもっとも外側の家屋の壁が囲壁の役割を果たす事もあった。囲壁外に広がる領域は耕地と未耕地に大別される。未耕地は主として、放牧地と疎林からなり、カストルム領域を画する境界まで広がっている。耕地は居住地に近いほうから、耕区種目ごとにまとまって、ソ菜園・果樹栽培地→冬穀・マメ栽培地(もしくは麻畑)→ブドウ栽培地(もしくは粗放的耕作地)→採草地と、必要とされる労働の質と量に応じて効率的経営が可能なように配置されて居る。各農民は、耕区内に自分の地条を保有し、地条への入り口も個別になって居るので、耕区内外の農道は複雑になっている。こうした農道の地割や石灰質土壌からの湧出水を利用した灌漑施設の維持と管理は、共同体による運営下に置かれていた。このように形成されたカストルム領域は、司教座都市領域とともにラティウム地方のまとまりを作り上げる基礎単位となっており、貨幣流通・物流・人の移動で相互に結ばれているという。 …incastellamentoは10-13世紀における防備集落の形成と集(138)村化を広く意味するようになった。もとよりincastellamentoにはcastrumの語が含まれており、集村化の中でも特に、城を核とする防備集落の形勢を指して居る。… ・イタリア中部とフランス南部・西部のincastellamento: イタリア中部とフランス南部から西部は、中世盛期の定住形態の変化においてはincastellamentoがほぼ準拠枠として妥当し、城は集村化に向かう活力の重要な収斂点である事が確認された。イタリア中部では、ラティウムに近接したカンパーニャのモンテ・カシノ修道院領で10世紀中葉以降,2波にわたるincastellamentoがみられという。しかし、ほかに囲壁のない集落やモンテ・カシノ修道院の分院集落もあり、カストルム型集落以外の形態と並存している事も明らかになっている。…(140) …いずれの地域でも、ラティウムでみられるような10世紀と言う早い時期からの集村化は経験してはおらず、おおよそ紀元千年以降、11世紀後半から12世紀以降からの変動と考えられている。
集村化の際も、カストルム型集落が唯一の形態ではなく、また集村化を遂げた集落の間に、散在居住も尚存続しているのが確認されている。しかしながら、少なくとも領主が何らかのイニシアティブを取って、中世盛期に向けて散在から集住へ定住形態が再編されたという集村化の基本線が共通しているのは確認される。しかも集村化の際に、城の定住地形成力が程度の差こそあれ大きな影響力を持っていたことも明らかである。地域によって多様な発現形態を持つにせよ、イタリア中部及びフランス南部から西部では、中世盛期に向かう定住動態の基本的な傾向はincastellamentoであるといえよう。 ・イタリア南部とイベリア半島での部分的インカステラメント: これに対してイタリア南部とイベリア半島では、中世初期の政治的枠組みの複雑さも影響して、集村化の程度と集落形態に関してかなり異なる様相を見せて居る。イタリア南部は、11世紀にビザンツ支配からノルマン支配へと移行し、城と定住形態の変容にもこの政治的枠組みの激変が大きく影響した。ビザンツ支配下でcho^rionと呼ばれる農村定住地は、既にかなり高い度合いで集住していたという。ただし防備されるのは都市的集落のみであったため、農村定住地は囲壁を持たなかった。その後、ノルマン勢力の確立に伴う定住形態の変化の中で、先行するビザンツ期の農村集落に新たに囲壁が付加され防備集落となることがある。また、12世紀の政治的混乱(141)の中で、両種の軍事的・政治的拠点として新たに建設された城を中心に定住地が形成される場合には、確かに一部に防備集落が見られ、農地構造再編への寄与は不明としても、兎も角一部でincastellamentoがあったといえよう。しかし集村化の動きはビザンツ期に既に見られたためノルマン勢力とともに導入されたカストルム型集落の建設が、集村化を代表する動向とはいえない。…